第25話
俺は、なるべくナルサムのいるところには顔を出さないように気をつけていた。何しろ、相手は監督官なのだ。俺達のことは箒かちりとりくらいにしか思っていない相手と顔を合わせてもろくなことにはならない。遠くからちらりとしか会っていないから、彼が俺のことをろくに意識していないと思っていた。
だから待ち伏せされて、呼び止められたときには内心驚いた。
「おい、おまえがシーナというやつか?」外でいきなり肩をつかまれた。「ディー司祭の腰巾着をしているという」
「俺は、ディー司祭の腰巾着なんかじゃない」
肩の手を払うと、仕方なくナルサムと向き合う。
リースの兄は、髪の色も目の色もリースとよく似ていた。茶色の巻いた髪と薄い茶色の瞳はアルトフィデス王国の民の特徴なのだという。少し小柄だががっちりとした体型はこの村の他の人たちと同じだった。
「おまえ、コサの傭兵なんだろう? リースに手を出すのはやめろ」
開口一番そういわれた。
「は?」
「だから、リースにつきまとうなといっている」
「……」
俺は彼が冗談を言っているのではないかと錯覚した。
残念ながら、ナルサムの目は真剣だったし、握りしめた拳はいつでも殴れる戦闘態勢をとっていた。
「あの子はおまえのような奴が手を出していい子じゃないんだ」
一体彼は何の噂を聞いたのだろう。まさかあのチビどもの戯れ言を真に受けたのだろうか。
俺は慌ててその噂を否定する。
「何を聞いたのかは知らないが、俺とリースはそんな関係じゃないぞ。誤解だ」
「だから、軽い気持ちで手を出すなといってる」首元を掴まれた。「いくら、アルトフィデス神殿が後ろについているからといって、図に乗るな。あの子はこの村の長の血を引く子なんだ。すでに許嫁もいる」
イイナヅケ…言葉が頭の中で滑った。
「は? いいなづけ? 婚約者がいるのか? あいつ」
信じられない。あんな、洗濯板に、婚約者。
「だから、呼び捨てにするなと言ってるんだ」
ぎりぎりと首元を締められる。抵抗しようかと思った瞬間、村人を攻撃してはいけませんという規制がかかった。くそ、こんな時に呪の縛りが有効なのか。俺は震える手で、ナルサムの腕をつかんで、そして。
「なにやってるの」ディーの声だった。
ナルサムは舌打ちをして手を離す。そして俺に硬い拳をたたき込んだ。
思い切り後ろの壁にたたきつけられる。壁に立てかけてあった作業道具ががたがたと音を立てて落ちた。
「警告したぞ。手を引けよ。このクソ野郎」
「ちょ」ディーが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫? シーナ?」
痛いよ。痛い…本気で殴られた。お父さんにも殴られたことがないのに…俺は鼻血をぬぐう。
ディーの後ろからついてきていたのだろう、キーツが素早く俺の傷をあらためる。
「おいおい、いったいなにをやらかしたんだよ」
「俺は何もしていない。相手が一方的に因縁をつけてきたんだ」俺は自分でも傷の具合を確かめながら訴えた。
「あんたが“幽霊”だから?」ディーの声が冷たくなる。
「違う、違う。あいつは俺にリースから手を引けと、まぁ、そういってきた」
「はい?」そうだよね、そういう反応をしますよね。普通。
「だから、手を出すなと言われたんだ」
「・・・・・・」
「何やってるんだか」キーツがぼそりとつぶやいた。「これだから、色男は困るんだよ」
おまえには言われたくないよ、キーツさん。
「なんだか、あいつ、完全に誤解していた」俺は二人の手を借りて立ち上がりながら、訴えた。「なんでこんなことになるんだ?」
「そりゃ、まぁな」キーツがあごをしゃくる。「おまえ、リースと祭りで踊っただろう」
「ああ。それがどうした?」
「そりゃ、噂になるわ」とディー。
「あり得ないだろう。俺とリースの関係は監督官とナンバーズであって、そんな楽しい関係じゃないぞ」
「それはみんな知ってるわ。でも、見たところ、あんたたち、そんなふうに見えないからね。そもそも」ディーは俺に顔を近づけた。「あんたは“幽霊”には見えないから」
俺は訓練を繰り返している“幽霊”と自分を比べてみた。確かに。見えないだろう。
「はぁ。あいつ、俺のことを傭兵だと勘違いしていたな」
「するんじゃないか? ずっと俺達と一緒にいるし、普通に会話するし、見回りはサボるし」
「サボってない。ちゃんとやってるぞ。それに、会話なら、ゴローとサクヤだって同じように話すじゃないか」
「あいつらが話すということ自体、あの男は驚いていたみたいだぞ。そもそも、おまえ達には自発的に話す機能は含まれていないとかなんとかいわれたと、リースがいっていた」
「変な呪文で縛られてるからだろ。腕輪の与える命令権とかいう奴で」
「それが、違うみたいなのよ」
ディーは伸び上がると、俺に額に手を当てて、何かを調べる仕草をした。俺は慌ててそれを払いのける。
「何するのよ、いきなり」ディーが俺をにらむ。
「いきなりはそっちだろ。俺は勝手に調べられるのはいやなんだ」
「それ、その反応よ」ディーが俺に指を突きつけた。眼鏡の奥の瞳が細められる。「あの新しい“幽霊”はそれができないのよ。命令を強制する呪は実はあんた達のほうが多くかけられてるのよ。はっきり言うわ。あんたはまだ呪の支配下にあるの。だから、彼らよりもずっと従順であるはずなのよ。理論上は」
「まるで俺が従順でないような言い方を」ディーは俺の言葉を完全に無視をした。
「本来なら、こうして話もできないし、あれはいや、これはいやと文句をつけることもできないはずなの。それが仕様。サクヤとゴローはかなり呪をいじらせてもらったわ。それでようやくあの状態」
やはり実験してたのか。恐ろしい。俺はやはりディーとは距離を置こうと心に刻む。
「いいじゃないか。話はできるようになったし、いろいろ自発的に動けるようになったし、歌も上手に歌えるし」
「シーナ、あんたはほとんどいじっていないのよ」こちらのいうことも聞かずに司祭様は俺にまくし立てる。「いじろうとしたけど、できなかったというのが本当のところ。それなのに、これでしょ。本当は徹底的に調べ上げたいところなんだけど」
いや、それは本当に結構です。俺は解剖寸前の蛙にでもなった気分だった。目の前に知識欲をむき出しにした怖い人が、メスを片手に立っている。この実験大好き娘が…と軽口をたたくにはあまりにも怖すぎる。
「止められてるのよね。残念だわ。新しい子達との比較研究もしたかったのに」
「おまえ、あの新しい“ナンバーズ”も調べてるのか? よくあの男が許してくれたなぁ」
「許す? ナルサムが? そんなことあの男がするわけないわよ」ディーは鼻を鳴らす。
「まさか、まさかとおもうが、ディー、おまえ、あいつらのところに勝手に行って調べてるんじゃないだろうな」
「ちゃんと入り口で断ってるわよ。失礼します。調べさせてねって」
ナンバーズの天幕の入り口で、だよね。それは勝手に入っているのと同じことだと思う。
「あの子達はとてもいい子よ。わたしが血を採っても、呪の状態を調べても何も言わないの。文句を言ったり、暴走したりする誰かさんとはえらい違いなのよね」
「キーツ、いいのか? これで?」キーツはそっぽを向いている。
「あんたにこんな話をしたのは、あんた達がまだ呪の支配下にあることを頭の片隅に置いておいてもらいたかったのよ。今はうまくその影響から逃れているように見えるけれど、いつまでもそれが続けられるとは限らない。たとえば、監督権がリースから取り上げられたら、今の状態を維持できるかは疑問だわ。あなたたちにかけられている呪文はかなり複雑で行動すべてに及んでいるの。普通の人間にかけたらそれこそ廃人になってしまうくらい」
あれ、同じようなことをどこかで言われたような気がする。
「はぁ、一体何がどう作用しているのかしら。あんたはどんな呪文もひょろりと交わしそうな気がするのよね」新種の生き物を観察するようにディーは眼鏡の奥から俺を見る。
俺は急ぎの仕事を思い出したことにして、その場を立ち去ることにした。実際仕事は山積みだったのだ。
祭りが終わってから、俺達は少しずつリースやディー以外の村人の仕事も引き受けるようになっていた。体力があって、丈夫な人は引っ張りだこだったのだ。
俺達に対する恐れも薄れていた。新しい“幽霊”は、村人の俺達への見方を相対的に好転させた。あれに比べると、俺達はずいぶんまし、といったところだろうか。特に恐れを知らない井戸端会議の面子は情報収集もかねて俺に話しかけてくることが多くなっていた。こんな“事件”があればなおさらだった。
「ナルサムに殴られたんだって?」
祭りの服を貸してくれたマーミ・アオイおばさんがまだ痛む頬を押さえている俺に早速声をかけてくる。
「早いですね」
一体どこの誰が目撃していたのだろう。ディーやキーツが話したわけではないだろう。早すぎる。
「ナルサムに殴られるなんて、何かしたのかい?」楽しい事件の香りにおばさんは満面の笑顔だ。
「ちょっとした誤解ですよ」
俺は、ただリースと俺がつきあっているのではないかと勘ぐられたと簡潔に話す。
「へぇーーー」
おばさんの熱意が、あがる。まずい。この手のおばさん連中にとってこういう恋愛のいざござは至高の娯楽だった。
「それで、実際のところはどうなの? あんたとリースちゃんの関係は」
ない、ない、そんな物は一切ない。ここはリースの名誉のためにも完全に否定しなければ。
「あり得ないでしょう。彼女は監督官で、俺はナンバーズなんですよ・・・」これはまずかったか。「たとえていえば、主人と使用人のような関係で」
「主人と使用人の禁断の関係だね。この場合は女主人と男使用人だけど、悪くない。身分違いの燃え上がる情熱」
おばさんは俺にはわからない遠い何かを見つめていた。あのぉ、おばさん…こうして恐ろしい噂が作り出されるのだという現場を俺は見ていた。
「そ、それはそうと、ナルサム…さんがリース…さんに婚約者がいるという話をしていたのですが、本当ですか」俺は話を切り替えるためにおばさん達の食いつきそうな話題を出してみた。
「リースちゃんの婚約者ね。気になるんだね。あんた」間違った話題を投下してしまっただろうか。「リースちゃんくらいの家柄になるとねぇ。婚約者の一人や二人、いるもんなんだよ」
そうなのか? 村長というのはいい家柄なのか。
「へぇ、そうなんですね。この村の人ですか」
「あの子の婚約者は隣村のトゥミだったんだけれど」おばさんの顔が暗くなる。「あそこはねぇ」急に口が重くなった。
「そこの村と仲が悪くなったとか、で破談になったとか」
恐る恐る俺は聞いてみたが、急に表情を曇らせたおばさんは何も答えなかった。
俺はこういうところに余所者と村人の差を感じている。彼らには当たり前になっている事実を俺は知らない。彼らには暗黙のいってはならない事実があって、そこに踏み込むと沈黙しか帰ってこない。
おばさんの家の用事を手早く済ませて、リースの家に戻ると、ダムとリースが難しい顔をして向かい合っているところに行き会わせた。
「兄さんにはまだ黙っておいた方がいいかもしれない」リースはダムに話していた。「明日、この子達を連れて偵察に行ってみるわ。本当はディーも一緒に行ければいいのだけれど、この村の守りも必要よね」
そういってから、リースは出て行こうとする俺を呼び止めた。
「シーナ、明日、隣の村に偵察に行くわよ。準備をしておいて」
「隣の村?」先ほどのマーミおばさんの沈黙を思い出して俺は思わず聞き返す。
「ええ。隣の村、というよりもその跡地ね。なるべくちゃんとした装備を用意してほしいの。サクヤとゴローにもそう伝えておいて」
「きちんとした装備、というのは戦闘を前提とした装備ということだな」
「ええ」リースはふうと息を吐いた。「魔獣が出たという目撃情報があったの。よろしくね」




