水溜りの君
「そこを、どいてくれませんか」
「あっ、すいません」
突然、女の人から言われた。俺はビクッと動き咄嗟に謝ったが、周囲を見渡しても、誰もいない。気のせいか? うん、多分そうだ。
いつも通る道は、舗装もされていない田舎の砂利道だ。今日のように雨が降れば、あちこち水溜りが出来る。
行政は何をやっているんだ。と言いたいところだが、ここは滅多に車も通らない。極端に言えば俺専用道路と言ってもいいかもしれない。それほど、人も車も猫も通らない。道路と言うと言い過ぎだな。ただのあぜ道だ。
次の日も雨が降った。
街灯も無い夜道を傘を差して歩いていると、よく水溜りに落ちる。足元をよく見て歩けばいいんだろうけれど、下を向いて歩くのは性に合わない。男は真っ直ぐ、ゴーイング・マイウェイだ。
「また、あなたですか。どいてくれませんか?」
「あっ、すいません」
俺は謝る。一体誰に?
それも女性の声だ。誰に迷惑を掛けているんだろう。周囲を見渡しても、やっぱり誰もいない。とうとう俺も、空耳が聞こえるようになったのか。そもそも女性に声を掛けられること自体、滅多にない。せいぜい、雑貨屋のおばちゃんが習慣的に言ってくれるだけだ。まあでも、空耳としても女性、それも若い女性の声だったのが、せめてもの救いだと思う。これが『ちょっと! あんたー』なら、すっ飛んで帰るところだ。
俺は空耳を頭の中で再生してみる。何度聞いても俺には縁の無い世界の声だ。出来ればもう一度、生で聴いてみたいと妄想してみた。
情けない、俺って奴は。さっさと帰ろう。
「何時になったら、どいてくれるんですか?」
俺の空耳が勝手に再生を始めたようだ。かなりヤバイんじゃないか、俺?
「どこのー、誰ですかー」
俺は試しに聞いてみた。我ながら馬鹿馬鹿しいと思ってはいたが、聞かぬのは一生の恥、とも言えるはず。
「ここですよ」
「ここって、何処ですかー」
「あ・し・も・と」
俺の足元、右足が水溜りに浸かっていた。これは俺の防御本能が教えてくれたものなのか?
いつまでも足を入れて置く訳にもいかない。もしかして、足を退かすとお礼を言ってくれるのか?
俺は足をそっと退かしてみた。
「……」
何も起きないし、何も聞こえない。どうやら俺は一人で馬鹿なことをしていたようだ。
幻聴、錯覚。俺にも来るべきものが来たということか。なら、それを受け入れなければならないだろう。ジタバタしてもしょうがない。
「じゃあね、お姉さん」
「こちらこそ」
「お姉さんって、もしかして……水溜り?」
「そうですよ。それが何か?」
俺は、自分で自分に応えているようだ。相当疲れているのか、症状がかなり進行しているに違いない。でも、お姉さんと話が出来ただけでも良しとするか。
俺はその場を後にして家に帰った。
◇
次の日。曇りだが雨は降りそうもない。俺は手当たり次第、水溜りに声を掛けた。
勿論、返事はない。当たり前だ。
「お姉さん、こんばんは〜」
俺のいる道には誰もいないとはいえ、これは変質者の行動か? 誰かに見られたら相当ヤバそうだ。
「お姉さん、こんばんは〜」
「こんばんは」
返事が来ちゃったよ。
「今日は踏んでないですよ」
「そうですね」
さて、会話が続かない。第一、水溜りと何を話すことがあるんだ? 困った。
「あの〜、お名前は〜」
初対面じゃないが、取り敢えず聞いておこう。
「失礼ですよ。まず其方から名乗ってはどうです?」
「俺は、その〜。俊夫です」
「俊夫さんですか」
「はい、そうです」
「……」
名乗らしておいて、自分は黙りなのか。
「私は、名前はありません。生まれたばかりですから。好きに呼んで構わないですよ」
生まれたばかり? ベイビーなのか?
「じゃあ、水溜りだから、えっと……タマエさんでどうでしょうか」
「いいですよ。では私はタマエということで」
「タマエさんは何時もここにいるんですか?」
おいおい、何を聞いてるんだ。水溜りだぞ。動くわけないじゃん。
「大体、そうですよ」
大体? 意味がわからない。
滅多に車が通らない道に、珍しく車が走ってきた。軽トラのくせに、ガンガンにスピーカーを鳴らしている。そんなアホなことをするのは、この辺では一人しかいない。その車は俺を見つけると、俺の横に凄い勢いで止まった。
「よう! 良夫。そこで何してんだ?」
友達の勝夫だ。変なところで、変な奴と出会ってしまった。
「水溜りと話してたんだよ」
「何だって! 本当か? どの水溜りだよ。俺も仲間に入れろよ」
変な奴とは、こういう事だ。
俺はタマエさんを指差して教えてやった。
「どうもです。勝夫です。元気ですか? 良かったらお嫁さんに来ませんか?」
「おい、勝夫。何で女性確定なんでよ。男だったらどうする」
「何だよ、お前のためを思ってだな、合わしてるってのに」
「この方は、お友達の方ですか?」
タマエさんが喋った!
「おい、今の聞いたか?」
「ん? ああ。良夫、早く帰って寝ろよ。じゃあな」
勝夫は、けたたましい音を響かせ、逃げるように走り去った。
「俊夫さん!」
「あ、いや、その、……良夫です。すみません」
「別にいいですよ」
「あの〜、怒ってます?」
「いいえ、別に」
「怒ってますね。はい、すいませんでした」
「いいですよ。どうせ私は、長くはないですから」
「と、言いますと」
「私達の寿命は、長くて三日ぐらいですから、何時までも怒っている訳にはいかないのです」
「そうですか。せっかく知り合いになれたと思ったんですが」
「何時もの事ですから慣れています」
慣れてる? どういう事だ。寿命って、そういう事じゃないのか?
「また、明日来ます」
「会えるといいですね」
すんごっく尾を引く別れた方だ。良くわからん。
◇
次の日。快晴。この分だと…
「タマエさん、こんばんは〜」
「こんばんは」
タマエさんは、かなり小さくなっていた。
「タマエさん、苦しくはないんですか? こんなに小さくて」
「全然平気ですよ」
「それは良かった。でもあと少ししか水が無いですよ」
「ええ。それはわかってます」
「ところで、どうしてタマエさんとだけ話せるんですか? 他の水溜りは何も言わないのに」
「さあ、私にもわかりません。多分、相性とかあるのではないですか」
「相性ですか」
「そうですね」
「ということは、俺とタマエさんは相性がバッチリということですね」
「まあ、そうなんでしょうね」
「えっ、やっぱり俺じゃ嫌なんですか?」
「そういう意味では無いですよ。ただ、お知り合いになっても、短い間だけですから。直ぐにお別れするのは辛くは無いですか?」
「それは、……そうですね。せっかく出会えたっていうのに。そうだ! ここに水を足したらダメですか?」
「多分駄目でしょう。そうしたら私が私でなくなってしまうかもしれません」
「そういうものか〜。この調子だと明日の今頃はもう……」
「お別れですね」
俺の独り言も、今夜で終わりかもしれない。それとも、何かに取り憑かれているとか。どのみち、こんなことは終わりにしないといけないだろう。
俺は、最後になるかもしれないタマエさんを見ていた。それは、他人が見たら頭がおかしいくなったように、見えただろう。まあ、それも仕方ない。俺は本当におかしくなったのかもしれない。
◇
次の日。土砂降りの雨。一面、水溜りだらけだ。
「タマエさーん」
「私は、ここでーす」
タマエさんの水溜りはすごく大きくなっていた。
「タマエさん、元気で何よりです」
「はい! それに妹達も沢山、出来ましたよ」
「この周りのやつ、全部ですか?」
「そうです。みんな元気に喜んでいますよ」
雨粒が水溜りに当たり、ザーザー降る雨の音と混ざり合って、本当に賑やかになった光景が見える。
何も知らなけば、ただの雨の夜。体は濡れ、傘も役に立たず、家路を急ぐだけの場所。それが俺にとっては、とても楽しい、愛おしくも思えるところになるなんて。
「タマエさん! 大家族じゃないですか」
「ええ。私もそう思います」
「もう、会えないって思ったら、これだよー。これでずっと会えるね!」
「……」
「タマエさん?」
「いいえ、何でもないです。そうですね、会えますね」
「アハハハ。これで暫くは大丈夫だ。うん、そうだよ」
子供の頃、初めて傘を差して、新品の長靴を履いた時を思い出した。わざと水溜りに入っては怒られたっけ。雨が降るの待ったあの時の気持ちが蘇るようだ。憂鬱で面倒な雨が。こんなにも俺の気持ちをワクワクさせるなんて。こんな瞬間を俺は想像することすら出来なかった。まあ、俺の頭がおかしくなっていないってのが前提だけど。
俺はタマエさんに出会えて良かった。それをタマエさんに伝えたい。でも、それはどんな言葉で言えばいいんだろう。
「タマエさん! ありがとう。俺と出会ってくれて」
「私もそうです。ありがとう、良夫さん」
俺は真っ暗な空を見上げて、顔に降りしきる雨を喜んで受けていた。多分、変人扱いは決定だな。
◇
次の日。快晴。気温急上昇。
昨夜、あんなにあった水溜りが、無い。全部、干上がってしまったようだ。
”ずっと”というのは無理でも、暫くは大丈夫だと思っていた矢先に、俺の期待も妄想も、干上がってしまったようだ。
「タマエさーん」
当然、返事は無い。
これで俺も正気に戻ったわけだ。メデタシじゃないか。雨の代わりに、目頭が熱くなってきたのを感じた。おかしい。こんなことで涙が出るのか? 俺は悲しいのか? なんだか子供がおもちゃを取り上げられた時の気分と似ているような気がする。いい大人が、恥ずかしいことじゃないか。タマエさんは、俺のおもちゃじゃ無い。じゃあ、何だったんだ? 言葉にするのは恥ずかしい。でも、それは”恋”だったと思う。全くもって恥ずかしい俺だ。水溜りに恋するなんて。
「良夫さん」
「タマエさん?」
「そうです」
「何処! 何処ですか」
「また、足元ですよ」
俺の足元に、微かに水があった。これがタマエさん?
「タマエさん、大丈夫ですか」
「何とかです」
「でも、もう、これじゃあ」
「そうですね。最後に会えて、良かったです」
ああ、なんてことだい。昨夜浮かれた分のツケが一気に来た気がする。
「タマエさん、何とかならないですか」
「運命ですから」
「いいんですか、それで」
「さようならです」
「そんなー」
このままだと時間の問題だ。もうじき水が無くなる。そうしたら二度と会えなくなってしまうじゃないか。
「タマエさん。ちょっと待ってて」
「良夫さん……」
俺は急いで家に帰り、バケツを……大き過ぎる、なら、皿だ! を持って、タマエさんの元に戻った。
「タマエさん。これですくうからね」
「良夫さん……」
タマエさんが水なのか、この窪み自体なのかは、わからない。でも、水のような気がしたんだ。
俺はタマエさんを皿にすくい上げた。
「タマエさん。生きてますか?」
「ええ、今のところ」
やっぱり水で正解だ。俺は零さないよう、家に持ち帰った。
◇
テーブルの上にタマエさんの皿を置き、とりあえずラップすれば大丈夫と考えた。
「にゃあ」
ラップはどこにあるのかと探している最中、ガタっと音がしたと思ったら、うちの猫が皿を舐めているじゃないか!
「タマエ! ダメだよ。あっちへ行け」
猫のタマエは去り際、ご丁寧にもタマエさんの皿を蹴飛ばしテーブルから落としていきやがった。
「タマエさーん」
タマエさんの返事は、無い。
「タマエさーん」
俺は床に転がる皿に向かって叫んだ。この光景を家族が見たら何と言うだろうか。
「どちらのタマエさんをお呼びですか?」
「タマエさん!」
「猫の名前を私に付けるなんて、酷いです」
「誤解だ! 偶然なんだ!」
「いいですよ、別に」
「そんなことよりタマエさん!」
「もう、いいんですよ。覆水盆に返らずです」
「そんなー」
「さようなら。良夫さんに出会えて良かったです」
「俺も、俺もだよー」
「では、また会いましょう」
「きっとだよ、絶対。俺、待ってるからー」
タマエさんは、それっきり何も言わなくなった。
こんな別れ方ってあるだろうか。多分、普通は無いだろう。
「タマエさーん」
タマエさんの返事は、もう無い。俺は床にに向かって叫んでいた。この光景を家族が見たら……母親が驚いた顔をして俺を見守っている。いや、警戒して後ずさりしているじゃないか。
◇
数年経ったある日、俺は水道の蛇口をひねり、水をコップに注いだ。それを飲もうとした時、どこからか声が聞こえたような気がした。
「……良夫さん」
「タマエさん?」
「そうです。お久しぶりです」
また、会うことが出来た。
今度の俺は冷静だ。水溜りに比べれば、すごく普通に思える。運命は二人を引き合わせた。それはすごい確率じゃないか。宝くじも当たらないというのに、この引きの良さ。これはきっと俺だくじゃなくて、タマエさんも俺に会いたかったに違いない、多分。
俺はコップをラップで包み冷蔵庫に仕舞い込んだ。そして話をする時だけ取り出して、タマエさんとの会話を楽しむ。いつでもタマエさんに会える嬉しさは、何に例えれば良いのだろう。頻繁に冷蔵庫を開け閉めする俺を、家族は暖かく見守ってくれている、気がした。
再開してから三日目、俺は何か間違えをしているのではないかと考え始めた。タマエさんを閉じ込めていることに違和感みたいな罪悪感があった。タマエさんは何も言わないが、雨のように降っては空に昇り、雲となってまた地上に降りてくる。俺はその循環を止めているんじゃないかと。
「タマエさん?」
「何ですか? 良夫さん」
「空に戻りたいですか」
「私に、帰る場所などないですよ」
「そうなんですか?」
「空も地上も、一時的にいるだけですから」
「でも、このままだと水が濁ってしまうじゃないですか」
「そうですね。でも、良夫さんの好きにすればいいですよ」
「いいんですか? それで」
「私にとっては、些細な事ですから」
そうタマエさんは言うけれど、どこか遠くを思うような声に聞こえてしょうがない。
俺は家の庭に出て、タマエさんを解放しようと思った。なんだか俺だけがタマエさんを独占してはいけない気がする。
「タマエさん。俺、決めました」
「そうですか。では、お別れですね」
「はい、さよならです」
「では、また会いましょう」
「そうですね。きっとまた、会える気がします」
「それでは、さようなら。またいつか」
「はい、またいつか」
俺はタマエさんのコップを空に向けて振った。それは綺麗な水しぶきになって風に吹かれ、天に昇るのだろう。そしてまた地上に舞い降りて来る。それをずっとずっと昔から繰り返して来たんだ。
タマエさんに出会えたことは、おかしなことじゃないと思う。俺だけに聞こえたその声を、繰り返し思い出そう。
また、出会えるように。