第二章00 夢
これは夢だと気付くときがある。
私のそれは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を伴っており、精巧に作られた夢の世界は現実と寸分違わない。
だから私にとって夢はもう一つの現実であり、ここが夢の世界か否か見抜くのが難しい。
それでも何かをきっかけに、これは夢だと気付くときがある。
私は路面電車に一人揺られていた。
車窓には近代建築が立ち並ぶ都会の街並み、ビルヂングの谷間には車速に合わせて上下する架空送電線が見える。
膝に置いた握り拳の感触が、やけにはっきりとしていた。
私はこれから誰に会いに行くつもりだったのか、それとも何者かに追われて行く当てもなく路面電車に飛び乗ったのか。
息苦しさに緊張の具合を覗い知ることができるが、その原因に思い当たる節がなかった。
落ち着いて辺りを見渡せば、山が近く東京の街並みと違っているものの、ここが何処かまではわからない。
そして多くの人がそうであるように、私も夢と気付けば作為的なものとなる。
ここが夢と気付いてからは世界が色褪せたものになり、それまでのあらましを忘却してしまう。
私の頭は過去を取り戻そうと、夢の中を必死に手探っているのだろう。
しかし残念ながら私が感知したと同時に、世界は糸が解れるように崩壊に向かう。
先程までしっかりしていた車内広告の文字も、寄木細工のようではっきりしない。
きっと頭の中の銃弾が夢を見せていることは察しがついたが、ここが私の過去を再現した世界なのか真偽のほどが定かではない。
私が青空を青空と、ハイビスカスをハイビスカスと認識しているのは、無意識に過去を思い出そうと頭が足掻いているおかげなのだろう。
承知の上で見る夢では、得られる過去に意味がない。
そう思えば、あとは意識の覚醒を待つばかりだ。
過去の執着がろくなものにならないのは、迫根島に渡ってからの実感である。
私が俯き加減に溜息を吐くと、先程まで誰もいなかった隣に赤い鼻緒の草履が見えた。
御婦人の横顔を覗けば、鳩羽色の風呂敷を抱えて意気消沈している千尋だった。
「千尋さん、それは?」
「兄の遺髪です。私は復員の知らせを横浜で待っておりましたが、このとおり戦友の方から遺髪を持ち帰るのがやっとだったと言われました」
「そうでしたね」
横浜で兄の復員を心待ちにしていた千尋が島に戻るとき、乗り合わせた漁船で聞いた話だ。
待ち侘びていた身内の死を聞かされた彼女は遺髪を手に帰郷しており、気丈に振る舞っていても内心は失意にあったと思われる。
憂いのある表情は、私の想いが投影されている。
とはいえ、彼女の台詞は私が用意したものではない。
そこで面白いことを考えた。
「ここは何処ですか」
千尋が単なる夢の登場人物ならば、自らの居場所を自らに問うようなもので馬鹿げている。
しかし私以外の登場人物は、私が意図しない返答をしてくれた。
「神戸です」
「千尋さんが復員の知らせを待っていた横浜ではなく、神戸なのですか」
「えぇ神戸電気鉄道の布引線です」
そう思って振り返れば、港町の風情に横浜を疑っていたが、景色の奥に確かに神戸商船三井のビルヂングが見えた。
その角を曲がれば、見慣れているはずがない神戸の商店街が見えてくる。
紅花堂の古い看板が目に飛び込めば、今は手焼きの高砂きんつばの味が蘇った。
私は終戦で舞鶴港から東京まで汽車で移動しており、四国には山口県下関を経由して渡っている。
神戸の街並みを知らぬはずの私が、なぜ商船三井ビルヂングなどと言い当てられるのか。
私は空襲前、神戸に滞在していた。
そういうことではなかろうか。
役立たずと思われた夢の世界で、私は過去を知るための手掛かりを得たのである。
千尋が路面電車に乗り合わせたのも、彼女が神戸で終戦を迎えたと言ったからだろう。
虚実が計れぬ夢なのだが、そうした定め事には律儀な自分に笑いがこみ上げる。
「何が面白いのですか」
「いや、これは失敬しました。ときに千尋さん」
「何ですか」
「私たちは、どこに向かっているのでしょうか」
千尋は、私の脚に冷たい手を置いた。
船で触れた彼女の手が、よほど印象深かったのであろう。
「あなたはお忘れなのですか」
眉を寄せた千尋は、それでいて目的地も知らずに路面電車に揺られる私を責める様子がなかった。
そこには、私の願望も僅かならず含まれている。
彼女は私の事情を心得た上で、拭いきれない嫌悪の情を示しているのだ。
「私の向かっている場所は、早々に思い出すこととしましょう」
千尋の手が、心なしか温もりを放った。
私が過去を持たぬばかりに、迷惑をかける人がいる。
過去との決別を喜んでばかりいられないと思えば、加藤の言葉を反芻せずにいられなかった。