07 何もない島
私は本家に残り、御膳を下げにきた飯炊き婆さんに千尋を呼ぶように託けた。
島民が私の復員服を忌避する訳合いには、だいたいの予想がついた。
迫根島に上陸した兵隊たちは横暴を働いた挙句、島に某かの秘密を隠して島民らを生き埋めにした。
その張本人が復員服を着て、GHQを伴って再び島を訪れた。
身に覚えがないとはいえ、私が耕造の立場でも冷遇は致し方ない。
私は佐野との取引に応じて引揚船に乗り込んでおり、GHQの手先となったのだから裏切者の謗りを免れない。
その腹積もりだったから、区長の狼狽える姿に悪戯心も疼いたのだ。
私はあのとき、実直に申せば主体的に崩落事故の真相に拘ろうとした。
高圧的な態度で挑んできた区長を前にして、人の悪さが出たのである。
しかし私に弓田の名前を出さぬよう、わざわざ忠告してくれた千尋に誤解されるのは心苦しい。
私は兄の遺髪を横浜から持帰り、その失意を堪えて気丈に振舞っていた御婦人の善意を踏みにじった。
そう物思いに耽り縁台から見上げた上弦の月は、間もなく西の月島にかかろうとしている。
「何か御用ですか」
千尋は、庭に回って現れた。
六月といっても日が落ちれば肌寒く、彼女は手編みの肩掛けを羽織っている。
「夜分にすみません。ですが千尋さんに誤解されたまま、ここを離れる気持ちになれませんでした」
「誤解ですか」
「はい。千尋さんは、耕造さんに私が弓田宗介かとお尋ねになりました。私は記憶を失っているので、弓田ではないと否定することができません」
「では、あなたは弓田宗介かもしれませんね」
「そう言われてしまうと耳が痛いのですが、ここにいる私は島に迷惑をかけた張本人ではありません」
「罪を忘れているだけかもしれないわ」
千尋は、うんざりしている。
疑いの眼差しを向ける彼女は、私が島民を口封じに殺した件の特務曹長だと信じているようだ。
過去を持たない私は、彼女の疑心に申し開きできる立場になかった。
「では聞かせて頂けませんか。耕造さんは、なぜ私が弓田と知って驚いたのでしょう。野上家が関所であれば、区長の耕造さんが弓田の人相を知らなかったのは些か違和感があります」
耕造は初め、私を弓田だと見抜けなかった。
私が島民を虐殺した特務曹長ならば、区長が気付かないはずがない。
それこそが私が別人との確たる証拠である。
千尋はしばらく沈黙すると、私の顔を凝視した。
「弓田は、炭鉱開発に賛同する島民としか会っておりません。父や多くの島民は、彼の声すらまともに聞いたことがないと思いますわ」
「それはおかしい。迫根島には、関所である野上家を通らなければ上陸できない。耕造さんは少なくとも、島に上陸した弓田と面識があったはずです」
「父は病床にありましたので、兄の洋平が人の出入りを管理しておりました。その兄が炭鉱開発に賛同してからは、母のサキが父の仕事を引き継いでいます」
「お兄さんは、炭鉱開発に賛同しておられたのか」
「もともと兄は……、兄たちは島の開発に反対していたんです。その兄が弓田に炭鉱開発の責任者を任されると、反対していた島民も手の平を返したんです」
弓田は炭鉱開発の賛同者としか面会せず、穴掘りに駆り出した島民への指示などは、開発責任者となった野上洋平を通じて行っていた。
千尋の兄である洋平は区長の息子であり、島民からの人望も厚かったので責任者に抜擢されたらしい。
しかし兵隊が島に上陸した当初から炭鉱開発に反対していた耕造は、賛同者の旗手となった嫡子を本家から追放した。
「父は、兄の心変わりが裏切りに思えたのでしょう」
洋平の戦死で清美や忘れ形見の双子は本家の出入りが許されたものの、耕造は戦時中、息子の出陣式にすら顔を出さなかったという。
息子夫婦が分家に住まうのは、島の開発による父子の仲違いが原因だった。
「なぜ洋平さんは、耕造さんの意に背いて責任者を引き受けたのですか」
「私はそのとき、九州に疎開しておりました。兄の心変わりは、弓田の説得にほだされたとしかわかりません。兄は炭鉱開発が、島の過疎化を防ぐ方策だと思ったのかもしれません」
「そうですか」
「こんな過疎の島ですが、それでも土地に執着する人がいるものです。義姉も、賛同者の一人でした」
「清美さんですね」
「えぇ、だから義姉はGHQの視察にも前向きなのでしょう。彼女は以前のように、迫根島に人が集まれば活気を取り戻せると考えているみたい」
千尋によれば、洋平の姉さん女房は分家扱いを不快に思っている様子で、双子の茜と葵に入婿を取らせて家督を継ごうと躍起らしい。
朱と群青の和装を着分けた双子は、幼さの残る雰囲気こそ違えど、目の前の御婦人と負けず劣らずの容姿である。
「島に若い男は、もう残っておりません。あなたも、せいぜいお気をつけなさい」
「私が何を……」
「あの娘たちは、あなたみたいな都会の人が好きなのよ」
千尋は軽口のとき、悪戯な視線で微笑みかけてくれた。
それまでの険しい表情が一変すると、彼女の魅力は笑顔にあると再確認した。
私は、この笑顔を曇らせてはいけないと思う。
余所者である私たちが、平穏な島の過去を暴き立てるのは面白くなかろう。
ここは早急に無実の罪を晴らして立ち去るのが良い。
その方法ならば、彼女の話を聞いて思いついた。
「炭鉱開発の賛同者ならば、弓田の人相を知っているのですね。ではさっそく、その方たちに私が別人だと証言してもらいましょう」
炭鉱開発の賛同者が、弓田と面識があるのなら話が早い。
千尋は沓脱石に上ると、私を上目遣いに覗き込んだ。
「きっと義姉は、例えあなたが別人だとしても認めないわ。あなたが佐官の彼なら、家督を継がせるのに申し分ないもの」
「そのような冗談は止してください」
「いいえ、冗談ではありません。だって義姉しか、炭鉱開発の賛同者が残っていないんです。あなたを別人だと証言できる人は、もう彼女しか残っていません」
千尋は、私の袖口を指で引いた。
声をひそめて囁く彼女には、袖を引いて顔を寄せるのが自然なことであろう。
しかし私は奥手のようで、このような御婦人の好色なる立居振舞いに弱かった。
「それは、どうした訳合いですか」
私は背を反らし気味に千尋を見据えた。
弓田の人相を知る賛同者が、清美しかいないとはどういうことか。
彼女は、くすりと笑った。
「だって弓田の人相を知っている炭鉱開発の賛同者は、みな崩落事故で死んでしまった。彼の部下も、炭鉱に賛同した島民も、内地からの鉱夫も一人残らず穴の中だわ」
私は袖口を掴む千尋の手を振り解くと、表情を読まれぬように顔を手で覆い隠した。
彼女が笑顔を崩さず囁いたからだ。
笑顔の意味合いは如何様にも解釈できたものの、私は彼女が、まるで賛同者がいなくなったことを喜んでいるように感じたのである。
※ ※ ※
私は千尋に行灯を借り受けてから、加藤の待っている集会所に向かった。
野上家の本家を出ると、身の丈の倍はある十尺ほどの垣根を見上げる。
生垣の頭上に突き出た高い囲いは、野上家が関所だった名残りだろう。
島の険しい尾根を越えるのも厳しく、これを迂回して集落に入るのは不可能に思える。
私は平坦な林道を抜けて、月夜の海に浮かぶ月島を望む岸壁に出た。
駐在の言っていた足元が悪いとは、ゴツゴツとした岩礁の上に作られたこの道であろう。
夜の静寂に佇む月島の風景に気取られれば、足を滑らせて滑落してしまいそうだ。
「加藤さんは口封じに島民が殺されたと言うけれど、崩落事故をきっかけに炭鉱開発が白紙に戻ったのならば、反対派が賛同者を一堂に会して葬ったとも考えられる。耕造さんは知っていたから『あれは事故じゃない』と、思わず口走った」
私は、月島に向かって呟いた。
眼下の巌頭で爆ぜた波が、大きな音と飛沫を立てて岩を飲み込んだ。
そこに翼を広げた海鵜が舞い降りた。
もう六月の頃、それに暗い海岸の畔である。
私の見間違いかもしれないが、波を被るのも物怖じせず海鵜はそこに降り立ったのである。
私が崖っぷちに乗り出すと、集会所に加藤を送り届けた笠間が通りかかった。
「何かありましたか」
笠間は私の横に立つと、私が見ていた闇夜に目を凝らしている。
私は首を横に振り、駐在に『何か見えますか』と聞き返した。
「いいえ、何も見えませんね」
「そうですか。では、私の見間違いなのでしょう」
笠間は、気もそぞろに立ち去ろうとした私を呼び止めた。
「あなたは、弓田宗介で間違いありませんか。お連れの方が、そう言っておりました」
「なぜ、そのようなことを聞くのですか」
「私は、島の駐在ですよ」
島を管轄する警察官が、私の名前を問うのに不思議なことはない。
今夜は、どうも虫の居所が悪い。
私は『加藤さんが呼ぶなら、きっとそうなのでしょう』と、曖昧に答えてやり過ごした。
それから真っ暗な月島を指差した。
「駐在さん、日島には島民の菩提寺があると言いましたが、あの月島にも何かあるのでしょうか」
笠間は官帽のつばを引き下げると、少し間を開けて鼻息を吐いた。
駐在は、私たちの渡航目的を知らされていないようだ。
「GHQが迫根島で何を調べているのか知りませんが、月島には何もありません」
笠間は、私が来た道を引き返して駐在所に戻った。




