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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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04 島に戻る女

 海風も穏やかな梅雨の晴れ間、私と加藤は迫根島に渡しを依頼した地元漁師の迎えで川之石港に向った。

 漁師は、乗船した私たちに島へ運ぶ荷物の積込みを待つように言った。

 定期航路のない島であり、こうして立寄る漁師が日用雑貨や飲食品、郵便などを届けている。

 それも半時で終わったのだが、乗り合わせるはずの島民が来ておらず、もう半時ほど待って出港するらしい。

「俺たちがチャーターした船に、他の乗客がいるとは聞いてないぞ。波が高くなる前に出港しろ」

 加藤は揺れる漁船の長居が苦手で、早く出港しろとまくし立てる。

 しかし煙管を舟の縁に打ち付けた漁師は、そんな彼の事情を知る由もなく、島の方を指差して世間話を始めた。

 迫根島は古く雑魚寝島とも呼ばれており、漁師は『稼ぎにならぬ雑魚ばかり集まる島だ』と説明した。

 戦前は島の漁師もいて、本土との行き来も盛んにあったものの、島の男衆が徴兵や徴用やらでいなくなり、もともと不漁の産業が廃れてしまったという。

 それゆえ復員する若者は、本土で生計を立ててしまい島に戻らず。

 今では、老人と僅かな田畑を耕す二十戸ばかりの島民が暮らす過疎の島になっている。

 そこまで話した漁師は立ち上がり、船着き場の防波堤を望みながら手櫛で髪を整えた。

「俺が迫根島に立寄るのは、人や荷物を運ぶ用事があるときだけだ。そうそうに行き来できる島でなし、今しばらく待ってくださいませんか」

 漁師の名前は梶尾与吉で、私が尋ねたところ川之石町の出身、父親に船を譲り受けてから迫根島への渡しの仕事を引き受けた。

 与吉が父親に島の渡しを引き継いだのが昭和十七年と言うのだから、その頃には島の男衆が徴兵されていたのだろう。

 開戦から三年目、日本軍が東南アジア及び太平洋各地へ戦線を拡大して、南方作戦が激化の一途を辿っていた時期である。

 私は漁師の顔をまじまじ見ると、彼は一瞥して再び視線を岸に向けた。

「その方は、迫根島の人なんだね」

「左様でございます」

 漁師は、とぼけた感じに答えた。

 まるで心ここに在らず。

 もしくは、これは私の穿った見方だが、面倒に関わるのを嫌って視線を外したようでもある。

 なので私は、鎌をかけてみた。

「その方は、女だろう。それも、とびっきりの美人に違いないね」

「へい……、左様でございます」

 与吉は、待人を言い当てた私に目を丸くした。

 今度は面と向かっている。

 なるほど、待人は漁師の意中の人なのだ。

 だから彼は、出港を急がせる加藤の言葉に耳を貸さなかった。

「加藤さん、女性というのは兎に角、支度に時間がかかるものだ。美人ならば、尚更じゃないかね」

「その女は、お前の知り合いか」

「とんでもない、これは当て推量だ。旅の道連れが美人だと思えば、幾分か腹も立たないだろう」

「もしかして、女と示し合わせているんじゃないのか」

 身嗜みに気を配る与吉を見れば、待人が女であると推察できるし、男手が足りない島だと聞けば、本土まで使いに寄越されたのが女だと予想がつく。

 それに私と加藤は東京から川之石町まで予定を大幅に遅れて到着しており、その間に片時も離れていないのだから、どうやって見知らぬ女と示し合わせることができるのか。

 全くもって彼の妄想である。

「お待たせしました」

 そこに現れた島の女は、小高い防波堤をいそいそと着物の裾を気にしながら小走りに、笑顔で手を振る与吉を見つけて会釈した。

 少し汗ばんだ色白の襟元をハンカチで押さえた彼女は、進駐軍の軍服を着た加藤に手を引かれて乗船すると、慣れた感じに場所を探して甲板に腰を下ろした。

 女の年頃は二十代後半、白地に桔梗の小紋が印象的な着物を羽織っており、見た目に身分の高い家柄を想起させる。

 彼女は鳩羽色の風呂敷を膝に載せると、一息ついて私たちに微笑んで見せた。

 私の想いを率直に申せば、この妙齢な女性の所作は、都会でもなかなかお目にかかれない感性と見受けられた。

「与吉さん、こちらの方々は」

「進駐軍の視察だと言っておりますが、詳しいことは聞いておりません」

「本家のお客様ですか」

「そこまでは、わかりかねます」

 与吉は彼女が私たちに興味をもつのが面白くない様子で、短い言葉を交わして操舵室に引っ込んだ。

 漁船には、私たちの他にも浅黒い顔をした漁師が乗船していたが、船が桟橋を過ぎると船倉に閉じこもった。

 間が持たぬと思ったのか、内気な性格なのか。

 こうして私と加藤は、乗り合わせた女と甲板に放置されたのである。

「ご婦人は漁師に顔が利くらしいが、どちら様ですか」

 加藤は出港が遅れたのが、よほど腹に据えかねた様子で不躾に聞くと、彼女は笑顔を崩さずに口元を隠した。

「私は迫根島で町頭を務めている野上耕造の長女で、野上千尋と申します。わざわざ進駐軍が島の視察というのは、炭鉱の件でございますか」

 千尋は船が出港して暫くすると、加藤を手招きして自分の隣に座らせた。

 町頭というのは迫根島とその属島を管理する区長のことで、野上家は古く土佐藩から税の分一奉行に任命された由緒ある家柄らしい。

 彼女の田舎の人らしからぬ体貌は、そうした血筋からくるのだろう。

 そう思えば、そこはかとない気品の起こりにも頷けた。

「迫根島は廃藩置県以前、土佐国の領地だったんですね。桔梗の柄行は、やはり坂本龍馬を由来にもつものですか」

「着物は母のものですが、由来までわかりませんわ」

「士岐氏の家系に多い桔梗紋ですが、そちらの柄行にある二つの升に桔梗の小紋は、坂本家が郷士株を買って得た家紋を模しているという訳合いです」

 ひとかたに話し終えた私は、キョトンとする千尋に我に返った。

 どうにも私は、不意に浮かんだ知識をひけらかす嫌いがある。

 それは、過去を持たないからなのか。

 もやもやとした頭の中で点と点が結ばれたとき、それを口にせずにいられない病気のようだ。

 加藤は口をつぐんだ私を見て、隣に座っている彼女の疑問に答えた。

「島の資源調査、それもあります」

 加藤は『それも』と言うのだから、やはり旅の目的は私の首実検なのだ。

 そもそも日本の地下資源調査はNRS(天然資源局)の領分なのだが、そんなことを知らない千尋は、島の調査に訪れた進駐軍に愛想良く話を続けた。

「あれは戦中にも国が調べに来ましたけれど、お役に立てる代物ではありませんわ」

「迫根島では戦時中、コークスの露天掘りが行われていたと聞いてます」

「えぇ、いくつか立坑を掘ったけれど、納得がいくほどの埋蔵量がなかったようですわ。何もない島なのに、それでも諦めの悪い人たちがいるようですね」

「諦めの悪い人がいる」

 加藤が聞き返して首を捻ると、千尋は、炭坑会社の人間が地権者の父親を訪れることがあると言った。

「石炭を磯掘りしていた端島などが、炭鉱開発で羽振りが良いと聞く。どこぞの山師が、二匹目のドジョウを狙っているのでしょう」

 私が話に割って入ると、千尋が向き直り、

「そのようですね。ですが、迫根島の石炭は波風で侵食された泥炭層なので、岸の限られた所しか採掘できないそうです」

「軍が防空監視所を置いたのも、資源開発を当て込んでいたのかもしれませんね」

 すると加藤は、島と縁もゆかりもない私の顔を覗き込んで尋ねてきた。

「おい、そうなのか」

「知るわけがない」

 そう断言できる自信はないが、少なくとも今の私が知るはずがない。

 なぜ戦地で記憶をなくした私が、過去の事情を正確に言い当てられるのだろう。

 これだって、千尋の話から憶測したに過ぎない。

 加藤は、ここにきても私の詐病を疑っているようだ。

「迫根島について、何か知っていることはないのか」

 私は、私に拘ることを除けば不思議と物覚えが良かった。

 それに私が持ち合わせている知識や情勢判断は、同じように記憶を失くした人より優れているらしい。

 私は、私の過去についての記憶を除けば、常人に劣らない知識が残されている。

 それを手掛かりにすれば、どんな人間だったのか人物像も見えてくる。

 私の過去に通じるのも、この豊富に蓄えられている知識とも言える。

「こればかりは信じてもらうしかないのだが、訳知り顔で話すのが性分でね」

 与吉は出港して一時間を過ぎた頃、船倉の漁師に合図して延縄を海面に投げ入れた。

 彼らは手際良く、等間隔に垂らした枝縄に餌を付けて海に放り込んでいる。

「与吉さんは、島の行きしなに罠を仕掛けて、帰りしなに幹網を引き上げるんです。当家は島の網主だったんだけど、戦争で漁師も船も手放してしまったわ。戦死した兄が生きていれば、四国まで迎えにいけましたのに。父の耕造が病に伏せてからは、沖合にでる船がありません」

 島の渡しは延縄漁のついでだから仕方ないのだが、これに早く船を降りたい加藤は項垂れた。

 彼は顎をしゃくると、千尋の相手を私に変わって横になった。

 乗り合わせた島民であれば、私の素性を探る絶好の機会に思うのだが、彼は、さっそく船酔いしたようだ。

 彼らの前で腕組みしていた私は、前髪を無造作にかきあげて顔を晒した。

 私が弓田宗介なる人物ならば、顔色の一つも変えると思われた。

 しかし私を見上げた彼女は、これといって見覚えがないようだ。

「復員服のお兄さんも、こちらと同じ進駐軍なのかしら」

 千尋は、夏外套から覗く私の格好が不釣り合いに思ったらしい。

 進駐軍の軍服に、旧帝国陸軍の軍服を着た男が同行しているのだ。

 違和感たるや申し分なく、まずはそこに目を奪われよう。

「いいえ、私は南方戦線からの引揚げで、今は復員省の紹介で東京の本郷で養生しているところです」

「養生している方が、どのような要件で進駐軍のお仕事をなさっているのですか」

「えぇ、まあ色々あります」

 私が言葉を濁すと、千尋は横目で加藤を見てから声を潜めて『こちらに』と、遠慮する私に席を詰めてくれた。

「お体が悪いように見えないけれど、病人を立たせていては気が引けるわ」

「養生と言っても、悪いのは頭でしてね。こうして五体満足であれば、御婦人の隣に座るのが気が引けます」

「あら、そんなご冗談」

 千尋はからからと笑うと、頭が悪いと言った私の裾を手で引いた。

「では、寝ている人を起こしてもいけないわ。前で風に当たりましょう」

 片瞬きした千尋が立ち上がり、そのまま船首に向かって歩きだした。

 愛嬌のある仕草である。

 私は僅かばかりの警戒感を解いて、裾を引く彼女について移動した。

 大きな船ではなかったものの、頭を抱えて丸くなっている加藤と離れると、少しだけ自由になった気にもなる。

 詐病を疑う彼は、私にとって重石なのだろう。

 それに昨夜の話を思い起こせば、彼は私を咎人と決めつけている感がある。

「ほら、こちらに」

 私は船首に座り、千尋に向き合った。

 彼女は、私と加藤のぎこちないやり取りの理由を聞いてきた。

 この先の展開を考えると、どこまで話して良いのやら。

 島の名家である彼女も、渡しの仕事をしている漁師も、誰も初対面の出方であれば、私が南方戦線で記憶を無くした島縁の陸軍将校であるはずがない。

 そもそも過去を持たない私の役割は、他の鵜を誘き寄せる盲目の鵜に他ならない。

 私が逆心の徒である必要はなく、ただ弓田宗介なる人物の所業を知るための木偶なのだ。

「加藤さんは、昨日の敵ですからね」

「お二人の関係は、今日の友に見えませんわ。進駐軍は、あなたが逃げ出さないように見張っている……。私は、そうお見受けしました」

「そうですか」

 私が弓田宗介である必要はない。

 それは昨夜、鵜匠である加藤が言った。

 しかし島での振る舞いは、昨夜のうちに口裏を合わせておけば良かったと後悔する。

「せめて、お名前を教えてください」

 千尋は、答えを窮する私に名前を聞いてきた。

 隠そうとも隠しきれるものではなく、そこを問われれば正直に答えるしかない。

「私も、それが知りたいのです。戦争で頭を撃たれてから、それより前の記憶がありません」

「頭を撃たれた。頭を撃たれて、生きている人がいますか」

「お疑いのことと思いますが、ここにこうして生きています」

 私から過去を奪った原因を改めて口にすれば、これほど間抜けな話はない。

 私を捕虜にした連合軍は、後頭蓋に銃痕を見つけてレントゲン撮影をしたところ、頭の中に鉄兜と頭蓋骨で防ぎきれなかった弾頭が残っていたらしい。

 弾は口径の小さな拳銃だったことが幸いして、奇跡的に右脳左脳を繋ぐ脳梁を傷つけることなく、大脳の中心に私の過去だけを破壊して鎮座している。

 私はあの日、ココポの汽水域で背後から味方に撃たれて倒れていた。

 その理由は解らないが、復員して養生している病院の医師は、頭の中の銃弾が軍装品の拳銃から発射された八ミリ南部弾だと言ったのである。

「戦地から戻らぬ兄がいれば、どのような身の上でも生還したあなたが羨ましい。生きていれば、良いこともあるでしょう」

「お兄様は、どこで」

「復員の知らせを横浜で待っておりましたが、このとおり戦友の方から遺髪を持ち帰るのがやっとだったと言われました」

 千尋は、抱えていた風呂敷を撫でてみせた。

「それは失礼しました」

「あなたの身の上を知れば、兄も生きているかもしれないと思いました」

 私はもちろん、南方戦線で戦死した千尋の兄ではない。

 それでも私のように奇跡的に記憶を失くして、ここを故郷と忘却して生きている可能性もある。

 いやいや、そんな奇跡は起こらない。

 起こらないことが起きるからこそ、私がここにいることが奇跡なのだ。

「あなたが進駐軍を伴って島を訪れる理由に、ますます興味が湧きます」

「この顔に見覚えはありませんか。私は、島に縁がある者かもしれないのです」

 千尋は目を凝らすと、私の膝に手を置いて顔を寄せた。

「いいえ、存じ上げません。私は神戸で玉音放送を聴きました。戦中のことでしたら、お役に立てませんね」

「では、弓田宗介の名前に聞き覚えありませんか。迫根島の防空監視所にいた陸軍将校で、戦後に行方知れずになった男です」

 膝に置かれた千尋の手には一瞬だが、心の動揺が走ったように感じられた。

 彼女の笑顔にも、僅かに影が落ちる。

「あなたが弓田でないのなら、その名前を島で出さない方が良いわ」

「はい……。そのようにします」

 私に耳打ちした千尋は、深く座り直して沖に見えてきた島影に視線を移した。

 彼女の理由を問うのさえ拒む仕草に、何と形容し難い嫌悪の情を感じる。

 その態度に気圧された私は、漁船が波を越える度に近付く島影が、ただ目の前に迫るのを無言で待った。

 次第に明らかになった迫根島は、三日月形の本島と、その両端にある二つの属島からなる。

 それらは太古の昔、一つの大きな島だったようだ。

 ぼんやり考えていると、彼女が本島の西側にある港を指差した。

「ほら、港の上に見える屋敷があるでしょう。ほらほら、あの林の中に赤い花が咲く屋敷です」

 千尋の指し示すところ、とはいえ島に家らしい家は一軒しかなく、すぐに見つけることができた。

 二つの属島は無人島であり、本島の島民は太平洋に向き合う南側で暮らしている。

 本土から向かった本島の北側には、港から見上げる彼女の屋敷と駐在所だけがあるらしい。

「反対側は切立った崖地で、島民が浜を利用するには、網主だった当家を通らないと出られないのよ。なぜだか、わかるかしら」

「野上家が税の分一奉行だとすれば、その理由は島民の管理のためでしょう」

「そうね。当家が人の出入りを監視しなければ、税金を取り逸れるかもしれません。国の防空監視所も集落の外れ、島の南側にありますわ」

「野上家は関所なのですね」

 千尋は、私たちを屋敷に誘ってくれた。

 屋敷が島の出入りを管理する関所であれば、申し出を断るわけにもいくまい。

 私が波止場に飛び移った与吉に続くと、舳先から屋敷を見上げた彼女が言った。

「あのハイビスカスが咲き誇る屋敷が、あなたの目指すところです」

 私は、その言葉を懐かしく聞いた。

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