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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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03 MIA

 終戦間もない昭和×年六月。

 私と加藤三郎太というGHQ(連合国最高司令官総司令部)の将校は、四国高知県に帰属する島の一つで、戦時下に陸軍防空監視所の置かれていた迫根島なるところに向かうことになった。

 私たちは航路のない島に渡るため漁船を手配したが、漁師は海が時化ていれば船を出港せず、この数日は港がある愛媛県川之石町の宿坊で足止めされている。

 その漁師は金を幾らか多めに払えば船を出すと言っても、連れ立った加藤が船が苦手で首を縦に振らなかった。

 加藤という進駐軍の将校は名前から察しがつくように日系で、目と毛髪こそ黒く日本人のそれなのだが、彼の曽祖父である母方の祖父が米国人であり、背が高く肩幅の広い立派な体格は米国人のそれであった。

 私のような青瓢箪は恵まれた体格の彼を羨ましくも思っていたが、良いことばかりでもない様子だ。

 彼は文字通り日本人離れした頑健な体の持ち主なのに、私より五寸程高い背が災いしてか船や汽車の揺れに滅法弱かったのである。

 だから漁師が二、三日こんな天気が続くと言えば、その分の旅費をGHQから送金させて、いくぶん色を付けて宿に支払い腰を落ち着けた。

 私たちの渡航費用はGHQ持ちで、けして彼が船代を出し惜しみしているわけではない。

 宿坊での足止めは、図体の大きな彼の船酔いが原因なのだ。

「先を急ぐ旅ではないし、晴れるのを待とうじゃないか。各地の復興を見てレポートするのも、CIS(民間諜報局)の仕事だよ」

 加藤がそう言っているので、私としてもそこに異論はない。

 ただ私みたいな貧乏性は、いくらでも空きがあるのに宿代を値切らないのがもったいない気もするのだが、彼はそういう路銀の使い方に惜しみがなかった。

 聞けば米国では、正規の支払いに上乗せして心付けを渡す慣習がある。

 なるほど、旅館に心付けはわかる。

 しかし戦勝国の軍人が茶屋や呑み屋の支払いで、釣銭を断る切符の良さを見せつけるのは、日本人からすれば鼻につくこともある。

 田舎の人は、都会の人より明朗ではない。

 日系の彼が大名のように振る舞えば、陰湿な感情だって沸き上がろう。

 案の定、乞食じゃあるまいし金を恵んでもらう謂れがないと、多めに払った金を突き返されることもあった。

 ただでさえ疎まれる進駐軍の将校は、羽振りの良さで民心を買う意図もあるのだろうが、そうした企みは見透かされるのが常である。

 戦後の折で旅を楽しむ客がいない田舎宿の主は、金払いの良い私たちに愛想良くしてくれるものの、進駐軍を名乗る男が荒海に恐れをなす姿に陰口を叩いていた。

 この町での滞在が伸びるほど、すれ違う者に後ろ指をさされるのは、そうした主の陰口が原因だと推察される。

 それは当人も耳にするところで、長雨の憂さ晴らしに漁師たちが屯する酒場で呑んだ帰り道に、加藤は「空が怪しければ、傘を持って出かけるのが賢明な判断じゃないか。賢者は雨に打たれないものだ」と、取り繕うように雨空を指差していた。

 危機を予見して避けるのは、当たり前だと言い訳しているのだろう。

 大柄の男が、気弱な台詞を吐いたものだ。

 酒場に屯していた漁師たちは、ただ日本人のなりをした進駐軍を貶めて忘憂しているのだ。

 卑屈さの現れでもあり、これには私が恥をかかされた。

 しかし、こうした彼の情けない事情により足止めされるのは初めてではない。

 船が揺れるのはかなわん、汽車の座席が硬く座りが悪いなど、四国に渡る山口県下関に到着するまでにも都度都度道草を食った。

 だから一週間もあれば島に渡れる算段は、一日、二日と伸びてしまっている。

「加藤さん、今夜には雨が止みますね」

 部屋に戻った私は、広縁の椅子に向かって座る彼に言った。

 加藤は湯呑にブランデーを少しだけ注いで呑み干すと、日本酒が口に合わないので悪酔いしたと愚痴をこぼした。

 それから彼は、肘掛けに両手を載せて深く座り直した。

「帰る場所がないというのは羨ましい」

「普通は逆だろう」

「俺が幸せに見えるのかい?」

 赤ら顔の加藤は、私に酒を勧めて目を閉じる。

 日系米国人の彼には祖国との戦争を通して、自らの帰属意識に思うところがあるのだろう。

 普段は弱音を吐かない彼も、さすがの長旅に疲れているようだった。

「日系アメリカ人は戦時中、敵性外国人として強制収容所に送られていたんだ。俺はフロリダの日本人街に生まれ育ったが、生粋の日本人じゃなかったので収監されなかった。アメリカ国籍の母は金髪碧眼だったし、俺自身も開戦前から入隊していた」

 加藤は目を瞑ったまま咳払いすると、前言撤回とばかりに顔の前で手を振った。

「それでも見た目と名前で、ずいぶんと苦労したんだ」

 彼が生い立ちを語るのは珍しい。

 私は前のめりに手を組んだ。

「君の瞳と髪色は父親譲りかね?」

「まあ、そうなんだろう」

 加藤の父親は欧州大戦で戦死しており、アーリントン国立墓地に祀られていた。

 彼が父親を亡くしたのは物心つく前だったが、志を継ぐべく入隊を志願したと聞いている。

 しかし自慢の父親を語る彼の口調は冷ややかで、そこに恨み節があったように思われる。

「父たち日系移民は欧州大戦時、アメリカに忠義を示すため義勇兵として参戦した。日系移民に対する風当たりは、ポーランドに侵攻したドイツと、日本、イタリアが三国間条約を締結して強まったと言われているが、そんなことはない。アメリカに渡った日本人は、義憤に駆られて銃を手にしたわけじゃないんだぜ」

 私は彼の湯呑に水を差すと、軽く頷いて話の続きを待った。

 欧州大戦では同盟国の英国が、参戦地域を極東および西太平洋に限定して日本に参戦を打診したため、日本は参戦に消極的だった。

 英国が後に地域を限定しないとして、日本はベルギーに侵入した独国に最後通牒を送り参戦となる。

 しかし日本は、英国や仏国からの欧州派兵要請に対して『日本軍兵士は国民皆兵の徴兵制度に基づき召集されており、国益に直接関与しない外征に参加させることはできない』と、欧州戦線への陸軍派兵を拒否した。

 然るに日本では、正規軍ではない日系移民の義勇兵が、欧州軍の指揮下で欧州戦線を戦うことに眉をひそめる者が多かった。

「それでも欧州大戦は、まだ良かった。日本人には、表立って裏切り者の誹りを受けなかったからな」

「そんなことを気にしているのか」

 欧州大戦が終わってみれば、そうした欧州戦線で活躍した義勇兵は、かの地で日系移民の地位向上に貢献したともてはやされた。

 加藤が苦々しく語るのは、父親の功績が先の大戦で覆されたからだ。

 彼の苦悩がそこに至るまでの経緯を知らないが、二つの祖国、主に日本に対しての良心の呵責を感じているように思った。

 きっと私が日本人で、彼を無意識に同胞と思っているからだ。

 それとて私が『日本人ならば』という注釈を要するものの、だから次のような慰めの言葉をかけた。

「君の祖国はアメリカだ」

 背もたれで首を反らした加藤は沈黙して、酒臭い呼気を長い時間をかけて吐いた。

 彼の複雑に絡み合ったアイデンティティに楔を打つにも、断ち切るにも、過去を持たない私の言葉が軽すぎたのだろう。

 彼は私の言い放った軽率な一言に、少なからず悪意を感じたに違いない。

「俺は、日本人街に育ったと言っただろう。アメリカに差別的な扱いを受けた日系移民のナショナリズムは、お前みたいな根なし草に理解できない。日本人に銃口を向けた俺は、どんな顔で帰郷できるのか」

「なるほど。それで君は、GHQを志願したのか」

「心持ちはどうあれ、本国に戻るのは気が重い」

 私は止せば良いのに、加藤の言葉尻に噛みついた。

 知りたがりの気性もある。

 彼の腹の中を探ってやろうと、悪戯心が疼いたというのもある。

「俺は、お前が羨ましい」

「君は、帰る家もない私を哀れんでいるんじゃないのか。だから、私の素性に興味を抱いていると思った」

「自惚れにも程がある」

「売国奴の誹りを受ける点では、GHQに同行している復員服の私も同じだ。それもこれも、戦争で失った過去を取り戻したいがためだと言い聞かせているのに、それを惚れとは酷い言い草だ」

 加藤は私が顔を覗き込むと、鼻を鳴らした。

 彼の視線には、私の謀を見抜いて侮蔑する感情が読み取れる。

 それでも私が肩を竦めると、彼は『まぁ良いだろう』と前置きした。

「お前だって島に渡れば、過去が足枷になると思い出すだろう。人は生きている限り、自分が背負った過去から逃げることが出来ない。お前が無邪気に見えるのは過去を持たないが故だが、そう考えるのは、俺の自己欺瞞だと思う」

「過去を知りたいというのは、私の偽らざる気持ちだ。だが、それは違う。君が言っている自己欺瞞は、私を無邪気に思う自分自身への猜疑心だね」

 CISに所属する加藤とは、記憶をなくした私がニューブリテン島ラバウルの捕虜収容所で収監されたとき、通訳兼任の尋問官として出会ってからの腐れ縁である。

 今もってして彼は看守が如く、私を『お前』などと気楽に呼びつける。

 収容所で私に与えられた仮初の名前はジョン・ドウだったが、彼はその名前を一度も口にしなかった。

 彼は出会った当初から、記憶とともに帰属を失った私を妬んでいたのだろう。

 ラバウルでの彼は、私を詐病だと決めつけて、名無しの権兵衛と認めなかったのである。

 私の無邪気さを懐疑する彼には、複雑な心情が垣間見える。

 GHQの彼が私を連れ回す理由は、けっして過去を持たない私を哀れんでいるわけではない。

 連合軍に利する重大事が、彼が私を手放さない理由なのだろう。

「君たちは、私が何者であったのか熱心に知りたがっている。迫根島には、私の過去を知る人物がいるんだね」

 私が米兵に銃床で殴られて捕虜となったのは、ラバウル以南ココポの汽水域だった。

 尋問官の加藤はあのときから、私の所持品で素性に当たりがついた節がある。

 過去との繋がりを面倒に感じた私は、それについて彼に問い質さなかった。

 知りたがりの私だが、自らの過去に無頓着だったのは、それが生死に関わる問題だと避けてきたからだ。

 それも終戦で和らいだ今は、こうして彼らの企みに乗っている。

 しかし戦争が終わったというのに、まだ彼が私の素性に迫ろうとするのは、私の素性がよほど彼らにとって重大事なのだろう。

 そう思えば面白くもあった。

「CISは、ラバウルで消息を立ったMIA(戦闘中行方不明者)の弓田宗介を追っている。お前が着ている軍服の持ち主は共産主義のシンパで作られた組織に所属しており、中華民国の共産主義者やソビエト連邦に通じて国体の破壊を目論んでいた疑いがある」

「弓田宗介……。それが私の名前なのか」

 初めて聞く名前だった。

 弓田宗介は、私が私と認識して初めて聞く名前だった。

 加藤は膝に手を置いて立ち上がると、宿主が敷いていた布団に寝転んで背を向ける。

 それから独りごちるように、咳払いしてから話を続けた。

「CISの任務は、日本の治安機関に関する施策をマッカーサー元帥に助言することだ。ラバウルで消息を絶った弓田の一派が日本に現存するならば、これを自由と民主主義の潜在的な脅威として認識する。脳無しのお前が弓田宗介なのか、それは差し迫った問題でない」

「迫根島には、逆心をいだく弓田一派の組織に関する情報が残されている」

「なぜ陸軍将校の弓田宗介が、とくに戦略的価値のない迫根島の防空監視所に派遣されたのか。島には、彼が率いた小隊の行動記録から辿り着いた。一介の部隊長にすぎない弓田の率いた連中が逆心の徒だったのならば、その黒幕が日本にいたはずだ」

 加藤たちCISは、旧帝国陸軍の上層部に共産主義に傾倒した勢力が存在しており、今でも国体護持に異を唱える残党がいると考えているらしい。

 弓田に上層部のお墨付きがなければ、軍内部でシンパを集って活動が出来ない。

 彼の話を聞くと、私の素性を探る旅の目的が見えてきた。

「私を連れてきたのは、島民に首実検するためか。君は、趣味が悪い」

「なぜだ?」

 CISは私と一緒に弓田の関わりがある土地を訪ねて、彼の後ろ盾になっていた人物を特定するつもりだ。

 小船でかがり火を焚いて、驚いた鮎を鵜を用いて漁をする鵜飼いという漁法がある。

 某ら悪巧みをしていた弓田が迫根島に戻れば、それをきっかけに川面をはねる鮎もいよう。

 その逆心の徒を捕る鵜匠が加藤で、喉に縄を巻いた鵜が私である。

 また鵜飼いに使用する鵜を捕獲するには、囮となる鵜の両瞼を縫い付けて盲目として巌頭に置き、そこに集まってくる鵜を捕獲する。

 囮となる最初の鵜が、盲目の鵜こそが、記憶を失くした私に与えられた役目だ。

「君は、過去というしがらみがない私に、足枷を嵌めて自由を縛りたいのだろう。もしも島に渡って、私が弓田宗介なる人物だと証言する者がいれば、その人物にも迷惑をかけるし、それに私の正体が国体護持の破壊を目論んでいる狂人だと聞かされれば、いくら私でも自責の念に駆られる」

「そうか。それは悪かったな」

 振り返らずに手を煽った加藤には、話を続ける気がなかった。

 それでも私は、湯呑みにブランデーを手酌で注ぐと、彼の背中に問いかけた。

「だが、それも誤解だ。私がここにいる理由は、私が日本人だからに他ならないが、それだって頭に残された知識に基づいて、それが自然の成り行きだと身を任せているだけだ。私の正体が狂人だったとしても、今の私にはあずかり知らぬことだよ」

 嫌な予感は、記憶を失ったラバウルからあった。

 濁流を逃れて岸に辿り着いた安堵感は、過去と決別した安堵感に相違なかった。

 私は間を置いて『だが悔い改めるまでもない』と、話を切り上げた。

 加藤は酒に弱く、私が話し終える前に寝ていたようだ。

 私は窓から雨の降る町を眺めていると、憂鬱な気持ちにもなるし、長いため息も吐いてしまう。

 ただ、それは先を急ぎたいが故ではない。

 そもそも私は、彼の都合で連れ回されているだけで逸る気持ちがあるでなし、私が過去を思い出せば迷惑する人がいると聞かされていれば、なおのこと足取りが重かった。

 気もそぞろに軒先から空を見上げれば、雨雲は北東の内陸に向かって流れている。

 海の方には、雲間から月明かりが差し込んでいた。

「加藤さん、雨が止みますね」

 私は、観たくもない活動写真に付き合わされる気分なのである。

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