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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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07 終劇

 ダンピール海峡を望むニューギニア島東部のフォン半島の海岸線には、大勢の豪州軍が上陸しており、連合国に制空圏が掌握された青空には、米軍の双発機が我が物顔で飛び回っている。

 南方作戦に参加したのは第20師団二万五千余名の大軍だったが、一週間足らずで半数が死傷すると、戦線を内陸部まで後退せざるを得なかった。

 南方戦線を死守出来なければ、もはや野上洋平が予言したとおり大日本帝国の崩壊が濃厚であり、各国は戦後の覇権を見据えて浮足立って見える。

「私と君どちらが先に進むにしても、これでは生きて祖国の地を踏めないだろう」

 洋平は激化するフィンシュハーフェンの戦場を離れて、一度は制圧したラバウル奪還の命令でダンピール海峡を渡る私に言った。

 官帽を目深に被り人相を白塗りと色眼鏡で隠した私は、軍港ではない民間の港に停泊している軍隊輸送船に部下とともに乗り込もうというところ。

 私は弓田宗介であり、野上洋平という稀代の傀儡師に魅入られた人形だった。

「私はニューブリテン島に渡航したら、白旗を上げて連合国に投降するつもりだ。戦場を離脱するための乗船券は、もともとあなたの物だから譲りましょう」

 洋平の予言どおりならば、敗戦が確定している戦場で命を落とすこともない。

 そんなことは当人も心得ているのに、なぜフィンシュハーフェンに残って死に急ぐのか首を傾げる。

「多くの犠牲を強いてきた私には、この戦争の終末を見届ける義務もあれば、死ぬときくらいは素顔のまま、自分の名前を名乗りたい」

「あなたの本名が野上洋平なのか、それを知る術を持たないが、あなたが洋平であることを望んでいることは理解できる」

 きっと何十年と潜伏していた迫根島に、拭いきれない思い入れを残してきたのだろう。

 しかし彼が成し遂げようとしている結果は、誰が実行してくれるのか。

 私には、そんな重責を背負う覚悟がない。

「あなたは、自ら予言した戦後を見ずに死ねるのか」

「ああ、私の計画は非の打ち所がない。全てをやり遂げた今となっては、迫根島に残した者達のために身を捧げたいと考えている」

 祖国に残した家族のために敵と戦うとは、周囲の人間を謀っていた彼にしては、いやに殊勝なことを言うものだ。

 祖国も敵国も手玉に取って八面六臂の活躍で世界を翻弄した男が、誰かのために死ぬなんて、まるで人並みの願いを口にしている。

「あなたに、そんな利己的な願望があったとは驚きだ。だが、それは誤解だ。あなたは私を身代わりに自由を得た後、歴史に暗躍するために必ず生きて帰国を果たす」

「それと知って君は、弓田宗介の名前を引継いだ。君は佐野の書いた本を読んでやってきたので、私が凡庸な人間であると受け入れ難いのだろう。しかし私は、君が想像する以上に凡庸なのさ」

「あれから日本帝国は、あなたが予想したとおりに開戦となった。であれば、あなたの予想したとおりの戦後が訪れるはずだ」

「全てを終えた私は、やるべき事がなくなって舞台を下りる。だから君は身代わりを買って出て、私の代わりに私が見ていた世界を知りたいんじゃないのか」

 好奇心の強い私が洋平の見ている世界を知りたいから、弓田として生きるとは言い得て妙だが、第一次世界大戦後に軍籍を離れて迫根島に渡った彼が世帯を持つと、歳の離れた妹や娘に囲まれて平穏に暮らしていた。

 私が見つけた先読みに長けた天才の本質は、世間並みの暮らしを望む凡下の輩だと謙遜している。

 しかし彼は中央から遠く離れた孤島から、弓田宗介なる傀儡を操る傀儡師として暗躍している。

 洋平も自身が作り上げた弓田宗介の一面に過ぎないと言うのだから、私の興味は彼の個人的な才覚にあるのが明白だった。

 其れ故に私が成りたかったのは弓田ではなく、類まれなる才覚を持ちながら凡庸に生きる洋平である。

 彼が見てきた未来の姿に、私の本心は興味を禁じ得なかった。

「弓田少尉、出港の準備が整いました」

 商船に偽装した軍隊輸送船の甲板に立った兵隊が、私に向かって敬礼すると、その背後からカメラを構えた従軍の報道班員が、桟橋で見送る洋平を写真に収めた。

 佐野は本の取材に応じた弓田と私がすり替わり、フィルムに焼付けた男が弓田だと気付いていない様子なので、彼が家族に宛てた手紙を素直に届けてくれるのだろう。

 私は『あなたには、生きて帰国する義務がある』と告げて、佐野たちの待っていた甲板に飛び移る。

 私が敬礼すれば、甲板から見上げた彼は桟橋に腰掛けて返礼した。

「弓田の名前と容姿を恨んでいる部下も多ければ、ニューブリテン島では背中から撃たれぬように気を配れ」

 洋平の言葉で、後頭部に鋭い痛みが走る。

 予言者の忠告を聞いて、背後に立った何者かに撃たれる気がした。

「それも、あなたが見てきた未来なのかね」

「いいや、これは夢だよ」

 これは夢だと気付くときがある。

 私のそれは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を伴っており、精巧に作られた夢の世界は現実と寸分違わない。

 だから私にとって夢はもう一つの現実であり、ここが夢の世界か否か見抜くのが難しい。

「妹をよろしく、千尋はああ見えて弱い子だ」

 それでも何かをきっかけに、これは夢だと気付くときがある。

 ここが夢と気付いてからは世界が色褪せたものになり、それまでのあらましを忘却してしまう。

 私の頭は過去を取り戻そうと、夢の中を必死に手探っているのだろう。

 しかし残念ながら私が感知したと同時に、世界は糸が解れるように崩壊に向かう。

「ま、まてっ、私の名前を聞かせてくれ!」

 洋平の口元が動くものの、その声は私まで届かなかった。

 そして先程まで港の辺りで咲き誇っていたハイビスカスも、青空に羽ばたいていた海猫も背景に滲んではっきりしない。

 きっと頭の中の銃弾が夢を見せていることは察しがついたが、ここが私の過去を再現した世界なのか真偽のほどが定かではない。

 

 ※ ※ ※

 

 目を覚ませば、黴臭い本に囲まれた病室の天井が飛び込んだ。

 旅の終わりは、いつも東京・文京区本郷の病院である。

「起きたのか」

 視界を遮って覗き込んだのは、CISの加藤だった。

 高知市警察に釈放された私は、迫根島に戻ることなく東京に呼び戻されると、弓田の隠匿した埋蔵金捜索の任を解かれた。

 組織の首領がGHQの上層部に圧力をかけて、密かに醜聞の回収を企んだ彼らと手打ちにしたと推察される。

 米国が共産主義者に資金提供していた醜聞は、敗戦国であっても充分に交渉できる材料なのだろう。

「加藤さん、新聞を読んだかい」

「面白い記事でも載っていたか」

 私が読んでいた新聞記事には、警察予備隊の創設に続いて、A級戦犯として巣鴨プリズンに投獄していた戦前の為政者が減刑や釈放されたこと、それを『レッド・パージ』『逆コース』と報じた記事である。

 GHQは朝鮮半島有事が本格化する中で、極東の島国まで共産主義や社会主義が蔓延することを恐れて、占領政策で一度は解体した兵力を寄せ集めて再軍備、その陣頭指揮には戦争犯罪で投獄していた戦前の為政者たちを据えるのだ。

 占領政策の大転換は、まさに『逆コース』と呼ぶに相応しい。

 そもそも米国本土では終戦直後から反共産主義の兆候があり、米共和党のマッカーシー上院議員を筆頭に公然と不穏分子として赤狩りが行われているが、これに私の書いているレポートが何らかの影響を及ぼしているのならば、これほどの話題がなかった。

「GHQは戦後の占領政策で、戦争犯罪人として保守派の為政者や大勢の官僚を失職させて、治安維持法や秘密警察の廃止、内務省警保局の解体など、徹底して日本の民主化を推進してきた。その結果、共産主義者が扇動する労働争議も絶えなければ、政治不信を声高に叫ぶ急進的な若者が闊歩する社会を作り出した」

「民主主義とは、思想信条の自由に基づいた平等な社会なんだ。思想犯を取り締まり隔離することで成立する社会は、決して民主主義とは言えないぜ」

「いやいや、加藤さんと政治を語ろうと言う訳ではない。私は国の趨勢を、戦勝国に委ねるしかない敗戦国の悲哀を口にしているだけだ」

 では現在、マッカーシズムに酔いしれて思想取締りに興じる米国は民主主義と呼べるのだろうか。

 私のような政治に興味のない者には、敵国だった米国と歩調を合わせて、再軍備と保守派の為政者たちを復職させた男に興味がある。

 そいつは歴史の闇で暗躍して、決して表舞台に立つことがない男だ。

 この国の趨勢はGHQの思惑通りに操られるが、その背後には裏切りの真理を得た男がいる。

「そんな事より迫根島が島民がいなくなり、無人島になったのを知っているか」

「島で唯一の渡しだった船頭が、あの事件で殺された。物流が滞れば、孤島で暮らしていけるほどの産業もないからね」

「知っていたなら、なぜ女を探さない」

 なぜ、なぜだろう。

 全てを聞かされて高知市警察から釈放された直後は、どんな顔で千尋と会えば良いのかわからず、GHQの指示に従って本郷の病室に戻ってきた。

 洋平に託された1ドル札の記番号を確かめれば、これがGHQの醜聞の一部であると発覚するのだろう。

 だから1ドル札は、加藤の上司に掛け合って自由の身になるための交渉材料である。

 それでも私は行使せずに、島を離れた千尋を追いかけることがなかった。

「女性というのは兎に角、支度に時間がかかるものだ。千尋さんほどの美人ならば、尚更じゃないかね」

「はあ?」

 千尋さんは、私が本郷の病室で本に囲まれながら養生していると心得て、それでも面会に現れないのだ。

 しかし私は確信しているので、慌てることがない。

 暫くすれば、白地に桔梗の小紋が印象的な着物を羽織った彼女が、この黴臭い病室から私を連れ出してくれると知っている。

 

 なぜなら私も、未来を見てきたからだ。




長らくのお付き合いありがとうございました。

作者は感想や読了を頂けますと、小躍りして喜びます。

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