06 巌頭の鵜
高知市警察の拘置所は、梅雨明けを待たず蒸し暑かった。
壁に背凭れて格子の窓を見上げれば、南国の収容所を思い出して、軍歌ラバウル小唄など口ずさみ世知辛い現実から気を紛らわした。
岡部に『知りたいことを教える』と、連れてこられた拘置所の滞在も三日目である。
さすがに名探偵気取りの警部補に一杯食わされたと、加藤の戻るのを待たずに本土まで同行したのを後悔する。
好奇心は猫を殺すと言うが、知りたがりの自分に自己嫌悪する。
「お前に面会だ」
看守に『お前』と呼び出されて牢屋を出ると、前手錠に結ばれた縄を引かれて廊下を歩いた。
面会室と書かれた鉄扉の向こうには、仏頂面の加藤がパイプ椅子に踏ん反り返っており、その隣には岡部が気不味い顔で畏まっている。
敵同士だった彼を見て安堵するのだから、いよいよ戦争も遠くになったのだろう。
「おい、俺の連れを縄で引き回すなんて、日本では事件を解決した立役者を罪人扱いするのか」
岡部は『彼は別件の容疑者なんです』と、参考人として出頭を命じた私の身柄拘束を弁明した。
私は迫根島連続殺人事件を解決したが、私が弓田宗介であれば余罪を背負った国賊でもある。
よもや弓田が数々の内乱罪容疑で、全国に指名手配されていたと知る由もない。
「あれが弓田か? 弓田と言うなら証拠を出せ! 証拠もなく牢屋にぶち込むとは、だから日本人は野蛮だと言われるんだ」
「ちょっと待て、戦場で記憶喪失だった私を『弓田宗介』だと言ったのは、君たちGHQじゃないか」
私を国賊扱いして全国を連れ回したのは、紛れもない連合国である。
「お前が弓田か否かは、俺たちが決めることだ」
加藤の言い分には首を傾げるところだし、彼らの都合で名前を挿げ替えられるのは気分が悪い。
だから高知市警察の岡部には、神戸周辺の出征者名簿にラバウル方面で戦死またはMIAとなった、貿易商の西谷和人がいないか確認を依頼している。
西谷和人なる人物がいたなら、それが私の正体であり、弓田宗介ではないと明らかになるからだ。
「ムッシュ加藤、彼の素性については高知市警察で調べております。復員省や関係各所に問い合わせていますので、一両日中に釈放して差し上げます」
岡部はイーゼル髭を撫でると、私が加藤から預かっていた革鞄を机に置いて立上り、私と加藤を二人だけ部屋に残して出ていった。
高知市警察にGHQの機密資料を盗み見られたと思った彼は、取り返した革鞄を漁って一息吐いている。
「笠間と刺し違えるつもりだった私が、君から預かった機密資料を持ち歩く訳がない。中身は隠しておいたので、安心したまえ」
「お前は、機転が利くんで助かるぜ。まさか、集会所に隠してないよな」
もともと高知市警察より先に島に戻った加藤が資料を引き上げる予定だったところ、事情を明かして市警の警官が持ち去ってしまった。
彼は、そういう気の回し方を知らない。
「ああ、千尋さんに預けた。加藤さんが渡航したら、すぐに返すよう託けている」
「はあ?」
GHQの機密資料は千尋に保管してもらっているので、警察が集会所を家探ししてもメモ一枚見つからない。
不祥事の責任を被った兄の無実を知る手掛かりならば、彼女にも背景を知る権利くらいあるだろう。
御婦人は組織や日本政府の回し者ではないし、私との関係を勘案すれば秘密を託すのに、これ以上の適任者がいない。
「しかし市警察が組織と繋がりがあるかも知れないと教えたのに、なぜ彼らに笠間を逮捕させたのかね。私に任せてくれれば、ちゃんと役目を果たしてやった」
「一旦は了承したが、お前に死なれたら色々と困るんでな……。俺の立場がない」
「何にせよ、君の気紛れで助かった命だ。感謝している」
私が頭を下げると、加藤は鼻頭を掻いて照れる。
彼が国家機密の漏洩よりも、私の命を優先してくれたのは嬉しかった。
私たちの関係を平和に資する友人と言えば聞こえが良いが、所詮は利用する者とされる者であり、そこに友情はなかったはずである。
戦争で銃口を向けあった私たちに、友情に近い間柄が芽生えているのならば、啀み合っていた両国の未来は明るいと信じられた。
私たちは秘密を共有することで、絆が強くなっているのだから、何が幸となるのかわからないものだ。
「ムッシュ加藤、彼と面会したいと申す者がつかえております。お預かりしていた証拠品の返却を確認したら、そろそろお引取りお願いできますか」
「俺以外に、こいつに面会だと?」
「ウィムッシュ」
加藤は顎に手を当てて私の顔を見据えたが、後々事情を聞き出そうと思ったのか、あっさり身を引いて拘置所を後にした。
しかしGHQ以外に身内がいなければ、岡部の言う面会者に心当たりがない。
彼は、いったい誰に引き合わせようと言うのか。
※ ※ ※
本当に両瞼を縫われるとは、いったい誰が予想出来ただろう。
加藤が部屋を出た直後、岡部の支持で目隠しを持った看守がやってきて、私の視界をぐるぐる巻いて塞ぐと、頭から深編笠を被せて手錠の縄を引かれた。
しばらく手を引かれるままに歩けば、街の雑踏が聞こえて、そこに停められていた自動車に乗せられる。
何が何やら見当がつかないので、隣に座った男のくせに香水臭い岡部に『どちらへ』と問い質した。
「私は、知りたいことを教えると言ったではありませんか。ムッシュは、我々のことを誤解しています」
「我々とは、土佐国の藩閥で構成された組織ですね」
「土佐藩閥とは、少し違いますな。そもそも弓田が属していた組織は、何の秘密もない統制派の会合に過ぎません。ムッシュは、一夕会をご存知ですか?」
「一夕会は、東条英機閣下が参加していた陸軍士官学校卒の幕僚将校らによる会合ですね」
「帝国陸軍内には当時、そうした学卒者の集まる会合は公然と存在していました。弓田が参加していた会合は、ある将軍を招いて作られた陸軍大学校卒を中心とした会合です」
そもそも統制派は軍内の規律統制を遵重するから『統制派』と呼ばれており、天皇親政や財閥規制など強い政治不信を抱いて集まった皇道派と違って様々な会合がある。
それに『非皇道派』とも呼ばれた統制派の殆どが陸軍大学校の出身者であれば、岡部の説明で弓田の属していた会合を特定出来るはずもなかった。
また二葉会や木曜会など複数の会合が合同した一夕会を例えに持ち出したのは、彼らの組織も完全集合された組織ではなく、複数の会合から離散集合された孤立点のような存在だと言うことだ。
しかし戦前から二葉会の東条英機が参加した一夕会に匹敵する統制派の会合が存在していたならば、その中心に見合う将軍は限られてくる。
「岡部さんが組織の構成員なら、どうしてGHQの手先である私に話を聞かせるのですか」
「どうして? 陸軍内には国を憂う様々な会合が存在しており、私が属していた会合も、そうした一つであれば何も疚しい組織ではありません。恥じることがなければ、何も隠す必要がないのです」
「しかしGHQは、弓田の属していた組織を共産主義者の集まりだと、民主主義の敵として探っています。岡部さんが、私に名乗り出るのは危険ではありませんか」
「県人会のような組織が、民主主義に抗う共産主義勢力ですか? ムッシュは、やっぱり誤解しているようだ。ムッシュもお連れさんも、スキャンダルの火消しで躍起になる進駐軍の上層部に騙されているんです」
「私がGHQに騙されている……。まあ、有り得ないこともないですね」
座席に深く座り直した私は、岡部の言葉を鵜呑みにした訳ではないが、加藤も弓田の隠匿した軍資金の回収に終始していれば、CISから全ての情報を開示されていないのは頷けた。
弓田宗介と目される私と旅している彼は、人の良さから秘密を留めておける性格ではないからだ。
「では、この目隠しの意味は?」
「そちらの上層部が秘密にしている事柄を、こちらの一存で明かすと言うのはフェアではありません。ですがムッシュが弓田宗介を名乗るのならば、どうしても確認することがあるのです」
岡部は、これから面会する相手で私の首実検するつもりだ。
ということは、笠間だけではなく高知市警察の岡部も、白塗りの左官の正体を知らないのだろう。
弓田の正体を知っている者が雇い主だけならば、私の面通しされる相手が組織の首領である。
これは面白いことになった。
つまり私は、知りたかった答えに一歩一歩近付いている。
私は深編笠の下で、密かに口角を上げて笑った。
※ ※ ※
玉砂利を踏みしめるタイヤの音、自動車の扉を開けば海猫の鳴き声と同時に、甘い香水が充満していた車内に潮風が吹き込んだ。
どうやら目的地に到着したようで、手錠が外された私の手を引いて立たせた岡部が、自動車に駆け寄ってきた何者かに引渡しを確認している。
「ムッシュ、私はここで待っていますが、くれぐれも余計な詮索を慎むようにお願いします」
私は黙ったまま頷くと、手を添えて背中を押す者に従って建物に入る。
上がり框で靴を脱がされれば、胸のすく檜の香り、庭の焚き火が爆ぜる音や時刻を告げる振り子の音、大層立派な日本家屋の光景が脳裏を掠めた。
軋む廊下を進めば、その年月の重さも感じられる。
畳敷きの部屋に入ると、それまで無言だった付添人が『座れ』と命令して、私の膝下に座布団を滑り込ませた。
暫くして衣擦れの音が私の手前で止むと、咳払い一つで付添人を部屋の外に追いやったようだ。
「笠を取って顔を見せろ」
矍鑠たる老人のような年季の入った声の主は、私の肩をしっかり掴んだかと思うと、もう片方で人相を覆い隠していた深編笠を取り上げた。
岡部は知りたいことを教えると言っていたが、むしろ彼らが知りたいことを知るべく私を呼び付けたのだろう。
組織の首領は『うむ』と、小さく唸り距離を取った。
「先に断っておくが、迫根島での出来事は笠間の事情聴取した岡部から聞いている。GHQが、ラバウルの戦場で倒れていたお前を弓田扱いしていることも知っている。お前が弓田ではないのは明白だが、迫根島での働きを聞いて一度会ってみたかった」
GHQは組織の全容を知らないと思われたが、彼の話を聞けば、そんなことは無さそうだ。
そもそも米国が弓田を通じて軍資金を提供していたのならば、交渉相手が得体の知れない組織のはずがなく、私の前に座している首領の正体を知らないはずもなかった。
「笠間巡査長という駐在は、俺の参加していた会合に顔を出していただけの末端に過ぎない。俺は奴が迫根島に赴任したことにも、埋蔵金を探していたことにも関与してない」
「それだけですか」
「弓田が迫根島に金を隠したとの噂は当時、会合に参加していた者ならば聞いたこともあっただろう。お前は弓田ではないし、今回の事件は俺と無関係に起きた事件だ。これ以上の真実はない」
「いいえ、お待ちください。それでは、私の疑問が一つも諒解出来ません」
私を呼びつけた首領は一方的に話を切り上げようとしたので、思わず引き留めてしまった。
GHQの上層部とも繋がりがあり、おそらくは大勢の為政者が投獄の身にあって、中央から遠く離れた四国まで足を運べる将軍であれば、正体を探ろうと深入りすれば生きて帰れない。
それと心得ているのに、どうしても知りたい衝動が抑えきれなかった。
「私が弓田ではないと仰るのに、事件の話を聞いてお会いになると決めたのなら、よもや弓田との疑念があったのではないですか」
目隠しをされて暗闇の中、退席の途にあった彼の所在がわからない。
それでも私は、話を続けて出方を待った。
「弓田という人物は目的のためならば手段を選ばぬ男であり、それを確実に実行するだけの知略にも優れていたと思います。世界情勢にも長けた彼は戦前、戦争を回避するように働きかけていた気配がある。そんな彼が不本意ながら開戦となったとき、迫根島に隠匿した埋蔵金を何に役立てようとしたのか」
私は『それが知りたい』と、まだそこにいるのかわからない首領に問いかけた。
全ての発端となった島民や兵隊を巻き込んだ炭鉱崩落事故、弓田が引き起こしたのであれば、その理由は埋蔵金の秘密を守るためだろう。
反対派から寝返った島民、弓田が率いた部下の兵隊、そして彼の身代わりとなった安藤恒夫を殺さなければならなかった真相が知りたい。
「私は、金の独り占めなんて俗物的な訳合いに納得が出来ません。なぜなら、あなたは未だに彼の帰りを待っておられる」
弓田が組織を裏切って金の持ち逃げを企んでいると考えていたものの、大勢の為政者が戦争犯罪人として巣鴨プリズンに投獄される中、弓田の雇い主は平然と自由に過ごしている。
これが弓田の作り出した状況であるならば、米国からせしめた軍資金は帝国崩壊を予見して、端から占領軍の醜聞を人質するつもりでいたのではないか。
「弓田は『全てを知る未来からきた』と、そんな冗談を言う男だった――」
私が背後からの声に振り返ると、首領は話を続けながら部屋の襖を閉めて回る。
「彼は開戦直後から日本帝国の敗戦を見越して、占領軍の統治下にあって彼らと対等に取引できる材料を探していた。大東亜戦争で連合国が疲弊した戦後、共産主義国家の台頭を考えれば、勝ちを焦る連合国を率いた米国から、共産主義に傾倒する組織に提供させた軍資金は、充分な交渉材料になり得る」
GHQは弓田の思惑通り、彼の足跡を辿って提供した金の回収に必死である。
しかし仲間だった兵隊や友好的な島民十三人を炭鉱崩落事故に見せかけて葬った訳合いには、どんな意図があるのだろうか。
弓田が今以て組織を裏切っていないのであれば、殺された兵隊と島民が組織を裏切った。
十三人は笠間と同じく、弓田が連合国との交渉材料に集めた醜聞を台無しにしようと企んで、彼に騙されて殺された。
「そうか。炭鉱崩落事故に見せかけて殺された十三人は、米国の弱みとなる金の横取りを企んでいたのですね」
「その中には、お前と同じく弓田の影武者だった者もいた」
「安藤恒夫……。弓田は炭鉱崩落事故を前にして、安藤恒夫の名前を騙って本土に引き揚げています」
「その者には、弓田の名前を穢された私怨もあっただろう。連絡員だった影武者が、迫根島に潜伏していた者の身内と強姦騒ぎを起こしてな。潔癖な彼の逆鱗に触れて、裏切者と一緒に生き埋めにされた」
千尋を辱めたのは、弓田の身代りに死んだ安藤恒夫だった。
目的のためならば手段を選ばない男は、常に白塗りで人相を隠して暗躍していた。
目的のためならば仲間も、友好的な島民も、そして自分の影武者だとしても決して裏切りを許さない。
「島に潜伏していた野上洋平は、妹を辱めた相手が弓田の影武者だと知っていたのですか」
「どうかな、この話を聞かせるのは初めてだ」
洋平が妹を辱めたのが弓田の仕業と信じていたなら、彼の命令に従って仲間や島民を殺すはずがない。
であれば私は、悲しい真実に突き当たる。
葵がサイレンの音に怯えるのは、迫根島を後にした弓田の代わりに、坑道の天井を崩落するのに利用されたからだ。
十三人の命を奪った炭鉱崩落事故、その引き金を知ってか知らずか引かされたことがトラウマになった。
彼は自分を慕う、年端のいかない子供を人殺しの道具にしている。
「私は弓田宗介を記号のような人物で、記憶のない私ですら弓田宗介に足り得るのだと考えていました。どうやら、大きな間違いだったようです。私は閣下の話を伺って、彼が心底恐ろしいと思います」
肩を下げた私は、これでようやく全ての謎が解けたと思った。
弓田は戦前から雇い主の身柄を担保するために、大日本帝国内で政治的革命を起こす組織の交渉役と偽り、敵国だった米国を唆して醜聞を手に入れた。
そうして手した醜聞を土佐国の息がかかった迫根島に隠匿したところ、組織の末端構成員である兵隊や、彼の志を知らぬ島民らにより横取りを画策されると、自らは不貞を働いた影武者を島に残して事故に見せかけて葬る。
弓田は雇い主の手配で日本から遠く離れた南方戦線に赴任して、私を身代わりに戦場のどさくさに紛れて歴史の闇に消えた。
「今回の事件に弓田の関与はなかった」
「しかし閣下、彼の残した米国の醜聞は戦後、閣下の身の保証やGHQとの交渉材料に資するものの、人々の心を掻き乱して、今回の埋蔵金騒動の引き金となっています」
果たして何処までが『全てを知る未来からきた』などと世迷い事を言い残した男の計画だったのか、それはさすがにわからない。
それでも弓田宗介なる人物が、類まれなる才覚の持ち主で、私なんかが彼であるはずがないのは理解出来る。
「お前は弓田ではないが、それだけの洞察力があれば弓田になり得たかも知れない。だが一つだけ間違っておる。俺は、弓田宗介の帰りを待っていない」
私の肩に手を置いた首領は、きっと戦後日本の試金石となる大人物なのだろう。
弓田は少なくとも、そう考えて自らを賭して敵国と通じる国賊との汚名を被っている。
「閣下、彼の軍服を着て戦場で死にかけていた私は、弓田の何だったのでしょうか」
「弓田に友人はいないが、敵もいない。彼に見初められた理由ならば、本人に聞くのが良いだろう」
私は深く頭を下げて土下座すると、首領は部屋を出て襖を閉じる。
一人残された部屋の空気は重く、余りの静けさに耳鳴りもした。
この世の果てに捨て置かれたと錯覚したのも束の間、暗闇からぬうっと伸びた白い手が襟元を掴んだ。
「GHQは君が騒いだところで、あの方の正体を承知して放任している。君がありのまま報告すれば、CISのお友達も左遷では済まないし、迫根島にいる者だって無事では済まないだろう」
「わかっています。GHQには、秘密を知った私を生かしておく意味がないでしょう。どうせ幾日と持たない私の命を惜しいとは思わないが、彼らに迷惑をかけたくない」
付添人は『立て』と命令して、華奢な体を引き上げた。
少し遠回りして海風が渡る庭に出た付添人は、そこで何やら私の胸ポケットに突っ込んで、それとは別に紙で包まれた飴玉を二個くれた。
ここが私の死に場所なのか、渡されたのは三途の川の渡し賃か。
飴玉二つでは向こう岸に辿り着けるはずもないが、握りしめると気休めになった。
「庭からの眺めは、どんな風景ですか」
私を連れ回した付添人に問いかけると、高台に建てられた屋敷の眼下には、海猫が飛んでいる太平洋が広がっていると教えてくれた。
「そうですか。ハイビスカスが咲いていれば、ここは野上家の庭に似ている」
付添人に『ハイビスカスが好きか』と聞かれたので、二度と目に出来ないのが名残惜しいと答えて項垂れた。
知り過ぎた私は、ここで殺されると直感している。
殺人事件の後日談を聞かずに、後味の悪さを残して舞台を下りるのだ。
私が殺される台本は最善ではないが、最悪の結果が回避される。
そんなことを独り善がりに考えていたとき、それまで感情を押し殺していた付添人の声が晴れやかになった。
「戦場で君に、その花の名前を教えたのは私だ。
迫根島の屋敷の話を聞かせたのも、この私だ」
「え?」
「君が口封じに殺されると考えているのだとしたら、私はそこまで非情ではない。君をダンピール海峡で見送った私には、ニューブリテン島で何があったのか知らないが、お互い天に救われた命、そう死に急ぐこともあるまい」
心臓の鼓動が跳ね上がり、全身の毛穴が開いて鳥肌が立った。
なぜ付添人は、弓田の身代わりだった私をラバウルの地に見送ったのか。
それは岡部に引き渡された付添人が、弓田宗介に他ならないからだ。
「あなたが――」
「私に友人はいなかったが、同じ未来を語れる理解者ならいた。君が戦場で、私と同じく過去も名前も捨てたのならば、今は友人と呼ぶべきかも知れない」
組織の首領は、弓田の帰りを待っていない。
なぜなら彼は、既に帰国していたからだ。
「私が、あなたと同じ未来を語る理解者だって? 過去と名前を捨てた友人? いいや、私はあなたみたいに人の生き死にを盤上の駒のように扱わない。あなたにとっては私だけじゃない、GHQも、雇い主も、家族も、みな盤上の駒でしかない!」
私は手探りに、弓田の胸ぐらを掴んで捻り上げる。
「あなたは計画を完遂するために、なぜ自らの子供まで利用した! 野上洋平!」
「本土に戻った弓田が私と別人ならば、妹を陵辱した彼の命令を聞くはずがない。それは不自然だ」
野上洋平、彼もまた弓田宗介になり得る人物だった。
むしろ洋平は迫根島に引き篭もり、歴史に暗躍する『弓田宗介』という架空の人物を作り出した張本人である。
弓田宗介が南方戦線で、影武者として銃を取っていた私に島の話を聞かせていたのならば、島に潜伏していた洋平こそがオリジナルの弓田だった。
そう考えれば、弓田が千尋のために影武者を殺した訳合いにも納得が出来る。
「そこまで徹底した現実主義者なら、千尋に宛てた手紙を佐野に託したのも、もはや偽計だったのだろうね」
「私は、そこまで非情ではない。君の代わりに残ったフィンシュハーフェンの戦いを生き残れる保証など、何処にもなかったんだ。あれは懺悔だよ」
「あなたの身代わりに頭を撃たれた私に、それを信じろと言うのですか」
弓田は食ってかかる私の腕を払い除けると、鳩尾を膝で蹴り上げて黙らせる。
彼は息を詰まらせて気を失う私の上体を強引に立たせて、異論を唱えたことに寛容さを消した。
「この国は戦争が終わり、私の計画でGHQの占領政策も骨抜きだ。この国はいずれ始まる混乱期を乗り切り、焼け野原から再び大国の仲間入りするだろう。全ては、私の計画したとおりの未来になる」
「ペテン師が人を見下すのも……、大概にしろ。千尋さんは、あ、あなたを、洋平さんを――」
「洋平は戦死した」
千尋は、兄の洋平を心から慕っていた。
その彼女に真実を告げずに立ち去ろうとは、何とも虫のいい話である。
「君も自由に生きろ、それだけの働きをした。必要なチケットは、そこに用意してやった」
弓田は私の胸を突くと、来た回廊に戻り玄関にいる岡部に私を引渡した。
高知市警察に到着して目隠しを外されたのは四時間後、手を開けば赤と青の包み紙に入った二個の飴玉が転げ落ちた。
彼は二十歳を過ぎる娘たちに、こんな子供騙しが通用すると考えているのか。
「自由を得るのに必要なチケット……、なるほど確かにそのようだ」
そして胸ポケットを探れば、一ドル紙幣が一枚仕舞われていた。
何はともあれ、これが全てである。
次回の更新が最終回となります。