表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巌頭の鵜  作者: 梔虚月
29/32

04 裏切者は誰か

 CISの情報によれば、加藤が私を連れ回していた各所は、弓田宗介が拘ったとされる騒乱事件や事故の現場であり、迫根島が彼が拘ったとされる最後の現場だった。

 加藤が『お前との旅は、これが最後かもしれない』と言ったのは、そういう訳合いがあった。

 迫根島の旅は、私が過去を取り戻す最後の好機なのだろう。

 しかし、これより先に道はないのか。

 その日の朝早く、土砂に流された日島に渡る山道に立った。

 私たちが渡航する前日、運悪く道が塞がれなければ寺に隠れた邦久を見つけることが容易だったし、高明和尚が坑道が日島に続いていると、もっと早く白状していれば、やはり邦久を捕えるのも容易だった。

 これより先にも道はあった。

 ただそれは何者かの妨害により、閉ざされていただけなのだ。

 

 ※ ※ ※


 集会所の庭に面した部屋に座卓を用意すると、加藤から預かった新聞の切抜きや資料を机上に並べた。

 障子を開け放った縁側には、例によって双子がちょこんと腰掛けて、頭を抱える私を興味津々に見ている。

「茜さん、葵さん、私の邪魔をしてはなりませんよ」

 悪戯好きな双子が屈託のない笑顔で『はい』と、素直に返事をしたので拍子抜けする。

 私が息を吐いて資料に視線を落とすと、双子は分家の方に走って消えた。

 彼女たちは底意地が悪い訳ではなく、もしかすると自分に真正直で可愛らしいのかも知れない。

 悪戯で人を困らせるのも素朴さだと思えば、双子が男を誑かす好色などと言う評価は、都会慣れした私の色眼鏡なのだろう。

「そもそも双子は戦争中、まだ小学校ではないか」

 双子が高等小学校(10〜14歳)に進学していたのか定かではないものの、年頃を考えれば男を誑かすような年齢ではない。

 彼女たちは迫根島を訪れた弓田を慕っている風だったが、彼の手先だったと考えるのは無理がある。

 だが炭鉱崩落事故が故意によるならば、邦久の兄を騙って本土に戻った弓田の代わりに、坑道の天井を落とした実行犯がいたはずだ。

 野上洋平が組織の人間ならば、彼の犯行を疑って然るべきだし、その責任を回避するために南方戦線に出征したならば辻褄が合う。

 しかし坑道で生き埋めになったのが、長男とともに反対派から寝返った島民であり、弓田の率いた兵隊だったのが気にかかる。

 それに炭鉱崩落事故を報じたのが組織に雇われた記者ではなく、弓田の人脈で呼ばれた佐野なのも疑念が残った。

 新聞の切抜きを読めば、責任者である洋平が坑内掘り不適格に指定された炭鉱開発を無理強いしたことが、事故の要因だったとされている。

 これについて広島から派遣された憲兵の調書によると、責任者だった野上洋平の名前が伏せられており、弓田宗介の名前に差し替えられていた。

 上陸した憲兵に落ち度を咎められた弓田は、事故の責任から逃れるように、軍籍を満州以南(関東軍)から南方戦線に動員された第二十師団に移している。

 熾烈を極めている南方戦線に軍籍を移した弓田は、階級こそ特務曹長から少尉に昇格しているが、事実上の懲罰人事だったことは明らかだ。

 これでは炭鉱崩落事故の責任から逃れて戦場に身を隠したかったのは、洋平ではなく弓田と言うことになってしまう。

 加藤の資料で判明している弓田の人脈は、どれも彼の部隊に所属する下級の軍人か、帝国陸軍との繋がりがない民間企業や報道機関ばかりである。

 また軍籍の異動を命じたのも正式な辞令であれば、CISも人事に拘った上官を特定出来ていない。

「しかしニ・ニ六事件を堺に皇道派の会合が鳴りを潜めていれば、弓田の人事には統制派の会合が絡んでいたのだろう。問題は雇い主による懲罰なのか、それとも弓田の望んだ逃亡手段だったのか」

 ときに邦久の兄として、戦場に倒れていた記憶喪失の私として、存在を曖昧に生きている弓田宗介が、敵国と通じるために与えられた記号だったとしても、過去を持たない架空の人物ではない。

 資料によれば弓田宗介の出自は孤児であり、弓田姓を名乗ったのは東京・中野に作られた後方勤務要員養成所(後の陸軍中野学校)の入所が最初である。

 そして後方勤務要員養成所は開戦によりゲリラ戦術教育機関となっていたが、そもそもはスパイ技術養成機関であり、彼の経歴や容姿その他が作り物なのは明らかだ。

 佐野の著作によるところ、匿名の陸軍関係者の経歴が陸軍大学校の出身と紹介されており、学歴に偽りがなければ素性を知る手掛かりになる。

 経歴不詳の『弓田宗介』が与えられた名前なのは、交渉役として利用していた米国も心得ているし、彼が所属している組織だって理解していた。

 しかし弓田を組織に重用した人物は、彼の素性を存じた上で雇っているだろう。

 いやいや、むしろ雇い主である者を措いて誰も素性を知らない可能性がある。

 陸軍大学校を卒業した彼が後方勤務要員養成所に入所したのも、迫根島での炭鉱崩落事故後に関東軍(満州)から南方戦線に動員された第20師団に軍籍を異動したのも、雇い主の手引きだとすれば、思い当たる統制派の人物は多くない。

 それに雇い主を関東軍の誰かとするならば、生粋の日本人との先入観を捨てるべきかもしれない。

「外地の出身であれば、過去を消すのに都合が良かろう」

 生粋の日本人を教育して売国の組織に忠誠を誓わせるよりも、外地の出身者を飼い馴らした方が手っ取り早い。

 私の妄想でしかないのだが、CISでさえ出自や経歴が掴めないのだから、そんな人間が日本に存在しなかったと考えれば筋が通る。

 私は座卓に広げた資料を革鞄に戻すと、腕を左右に広げて仰向けになった。

 天井を見上げた私は、白塗りの雇い主に思いを馳せる。

 問題は、そこなのだ。

 そいつを特定できれば、全てが諒解するはずだ。

「弓田の素性を詮索しても、今は時間の無駄ということか」

 弓田は派手な格好で全国を飛び回り、各地で動乱を引き起こしているのに誰も素顔を知らない。

 白塗りの彼は化粧に目を釘付けにすることで、素顔を晒しても誰にも見つからず、そして誰もが弓田という記号に成り得る。

 しかし知りたいのは実在さえ怪しい彼の素性ではなく、雇い主であり、組織の首領なのだから、深淵を覗き込んで命を落す必要もなかろう。

 柱時計が正午の鐘を打ったので、私は起き上がり縁側に席を移した。

 そろそろ待人が、風呂敷を抱えて現れる頃合いだった。

「こんな昼間から、私にご用ですか」

 千尋が昼食を届けに来たので袖を引いて部屋に上げると、小さく身を捩って手を振り解いた。

 頬を赤らめた彼女は奥座敷を指差しているが、布団が敷いてある訳は、ただ不精で万年床にしてあるだけだ。

「ご、誤解です」

「では、いったい?」

「千尋さんに、聞きたいことがあります。お兄さんの遺髪を届けた戦友は、じつは炭鉱崩落事故を報じた新聞記者ではありませんか」

「ええ、そのようですね」

 千尋は座卓に向き合って座ると、風呂敷を解いて握り飯とお新香を並べた。

 今以て騙している様子もなければ、『聞かれないから答えなかった』と、子供じみた言い訳もしないだろう。

 私は後手に障子を閉めると、何から話せば良いのか思案した。

 千尋が佐野から兄の遺髪を受取っているならば、私が手紙を託されたと聞いているはずだ。

 異母兄を慕っている彼女が知っていて、手紙の件を切出さない訳合いが気にかかる。

 それに終戦、横浜からの帰路に立寄った神戸では、いったい誰と会っていたのだろうか。

 私は夢に見たことがあり、自分が過去に神戸で居を構えていたと考えている。

 よもや彼女が度々神戸を訪ねているのは、私を探していたのではあるまいか。

 聞きたいことは多いのだが、先ず何から聞けば良いのか。

「私は、兄に罪を擦り付けた弓田宗介を恨んでおります。佐野という新聞記者には、弓田の正体を聞き出そうと疎開先から連絡を取っておりました」

 千尋は戦争中、母親の実家である九州の疎開先で炭鉱崩落事故の署名記事を頼りに、当時新聞社に務めていた佐野に連絡を取ったらしい。

「では玉音放送を神戸で聞いたのは、佐野に面会していたのですか」

「いいえ、佐野さんは南方作戦に従軍しています。神戸には、弓田の素性を探る人物がいると聞いておりました」

 佐野も弓田も終戦間近、第20師団とともに南方戦線に出征しており、神戸にいる訳がなかった。

「弓田の素性を探る人物が、神戸にいたのですね。佐野が、そう申したのですか」

「兄が坑内掘り不適格だと知りながら、島民を見殺したかのような記事を書いた佐野さんは、弓田に騙されたと悔いている様子でした。私は弓田が兄を悪事に利用したと考えており、事故の真相を知りたいと申し出たとき、私と同じく弓田の素性を探る者が神戸にいると聞かされたんです」

 炭鉱崩落事故の責任を洋平に追つ被せたのは、馴染みの新聞記者を手配した弓田だったのだろう。

 佐野が連絡してきた千尋に後悔の弁を述べていたのならば、なぜラバウルまで彼の部隊と同行していたのか。

 弓田に利用されていた彼も、白塗りの素顔を暴こうと同行していたというのは、満更でもない話ではある。

 記者は須らく覗き見趣味があり、得体の知れない兵隊に騙されたとあっては、記者の矜持にも反しただろう。

 そして――

「弓田の素性を探る者が、戦前の神戸にいたのですね」

「佐野さんは開戦の機運に一石を投じたいと、進歩的だった弓田宗介を取材して本を書いたんです。本では匿名だったにも関わらず、貿易商を名乗る西谷和人が弓田を訪ねてきたそうです」

 貿易商の西谷和人とは、初めて聞く名前だった。

 西谷和人が神戸で暮らしていたのならば、それが私ではなかろうか。

「佐野は、なぜ貿易商が弓田の素性を探っていると思ったのでしょう」

「弓田の見識を拝聴したいと接見を申し出た貿易商ですが、佐野さんは商売人ではなく、弓田の素性を探っている同業者と考えたようですわ。彼は職業柄、独特の雰囲気を感じ取れると言ってました」

「独特の雰囲気?」

「西谷は、自分と同類だと直感したそうです」

 佐野の同業ということは、貿易商を名乗った人物は新聞記者だったのか。

 報道班員として弓田と戦場を共にした佐野は、その立場を利用されるだけ登場人物ではなかったようだ。

 戦友の妹に弓田の素性に繋がる手掛かりを明け透けに話していれば、連合軍に隠れて私に手紙を託した訳合いも、私の過去に繋がる手掛かりとも思える。

「千尋さんは、西谷和人に会えば弓田の素性に迫る手掛かりが得られると考えた」

「そのとおりです」

 千尋が手を差し伸べるので、私は握り飯を一つ手にして頬張ると、ゆっくりと咀嚼しながら次の言葉を待った。

 浅からぬ関係となった彼女には、もはや私を翻弄する意味がないからだ。

「佐野さんから聞いた貿易会社の住所は、空襲で焼け野原になっていました。神戸の街をほうぼうを探しているとき、会えずじまいで戦争が終わったんです」

「横浜から迫根島に戻る途中、神戸に立寄ったのも」

「戦争が終わり佐野さんが復員していれば、西谷も神戸に戻っているかもしれません。でも役場で調べてもらっても、西谷和人の所在はわかりませんでした。本籍地は、神戸ではないのかも知れないわ」

 佐野は、同房だった私が何者か知って洋平の遺書を渡した。

 千尋は、私が何者か聞かされた上で口を噤んでいた。

 神戸で貿易商を営む西谷和人が、どうやら私で正解である。

 ただし佐野の直感を信じれば、西谷和人は職業を騙っており、名前だって偽名の可能性が高い。

 ジョン・ドウよりは、しっくりする呼び名ではあるが。

「千尋さんは、私が弓田の素性を探っていた西谷和人だと思っています。ご存知の通り、私は過去を忘れているので西谷和人だと断定できませんが」

「あなたは初めて会ったとき、私に『弓田宗介』と名乗ったのを忘れましたか。それに何度も、弓田ではないと言い切れないとも言いましたわ。私は結局、西谷和人なる人物と会えずじまいなんですよ」

「それでも千尋さんは、佐野から西谷和人が戦場で過去の記憶を失ったと聞いていたでしょう。彼には『手紙は然るべきとき、然るべき人が訪ねてきたら渡してほしい』と、洋平さんの書いた手紙を預かっています」

「それは――」

「貴女は、私に全てを打ち明けるべきでした。違いますか」

 私は机に身を乗り出して、萎縮している千尋を問い詰めた。

 彼女は次の瞬間、私の頬を叩いて立ち上がる。

 目に涙を浮かべた彼女は、気が逸り目を吊り上げた私を見下ろした。

「あなたは、いつもそうやって人を見下しているわ。佐野さんも弓田の素顔を知らなければ、捕虜収容所で連合軍から紹介されたあなたが『弓田ではない』と、断言が出来なかったんです」

 手紙は私の過去を繋ぐと同時に、詐病や弓田を疑う踏み絵として託されていた。

 私たちは、全員が人相を隠した顔のない男に弄ばれている。

「あなたは、私がどんなに弓田を恐れているのか知らないから、そうやって簡単に他人を信じろなんて言えるのよ。あなたが彼じゃないと確信するのに、どれほどの勇気が必要だったと思うの」

「恐れている? 千尋さんは、疎開していて弓田を知らないと――」

「良いわ、そこまで何もかも知りたいのなら聞かせてあげる。この島に上陸した兵隊は素行が悪くて、島の女を手籠めにしようとする不届き者が大勢いた。私が一人で疎開していた理由は当時、反対派をまとめていた兄のもとを訪れていた弓田に……、弓田に無理やり乱暴されて、島に留まることが出来なかったのよ」

 千尋の頬を伝う大粒の涙は、口元を覆い隠した手に塞き止められて行き場をなくすと、後から後から白くか細い指を濡らしている。

 気丈な振る舞い、強がりな性格、動もすると男勝りとも思えた彼女の態度は、人間不信に起因するものだったと思い知らされた。

 肩を丸くして俯いた彼女は、まるで子供のように泣きじゃくる。

 御婦人は、かのように小さく儚げな人だったのか。

 私は、男女の機微に疎い無粋者である。

「洋平さんは、それを知っていたんですか」

 こくりと頷いた千尋は、洋平の配慮で大事に至らなかったと言った。

 妹のことで腹を立てた兄は、弓田に掴みかかって大立ち回りを演じたものの、事が表沙汰にならないように彼女を疎開させている。

 ただそれは、弓田の悪事を隠蔽するよりも、不祥事に巻き込まれた妹の行く末を案じてのことだったであろう。

 小さな島であれば、強姦された区長の娘との噂は立ち所に広まってしまう。

 そして手紙の文面に書かれた詫びる言葉は、無関係な妹を巻き込んでしまった日を後悔していたのかも知れない。

 手紙の内容を見誤ったとすると、千尋を抱いた夜、彼女の漏らした言葉の意味合いを履き違えている。

 千尋は、私が弓田ではないと確信するために抱かれたのだ。

「私が軽率でした。千尋さんの心を傷付けてしまった」

 無粋者の私は、心の隅で洋平に嫉妬して目が曇っていた。

 千尋は私が弓田ではないと知りたがっていたのに、聞かれる度に踏み躙り、体まで差し出した彼女を兄と関係を結んだ不埒な女だと蔑んでさえいる。

 これでは人を見下していると言われても、頭ではなく性格が悪いと罵られても当たり前だ。

「千尋さん、佐野から託された手紙を受取ってください。失礼ですが、手紙の内容は確認させてもらいました」

 私は懐に忍ばせていた手紙を取り出すと、泣き腫らした目を袖口で拭った千尋に手渡した。

 彼女は封筒から出した便箋を黙読して、読み終えた手紙を胸に抱くと目を閉じた。

 洋平は何かしらの目的で迫根島に潜入していたが、だからといって親子ほど歳の離れた妹に、愛情を感じない鉄面皮ではなかった。

 彼は生まれた時から兄と慕ってくる妹の将来を慮り、組織が島に上陸する前に遠く離れた土地に匿っている。

 そんな男が弓田の横暴に拳を振るうのも辞さなければ、彼の所属した組織が敵国に利する売国集団だったのかも疑わしい。

 GHQの意向に沿わない組織だが、それが日本人の総意にそぐわないとは限らないのである。

「兄は優しい人でした。弓田さえ現れなければ、誠実で正義感も強くて立派な方でしたわ」

「はい。洋平さんは、きっとそのような人だったでしょう。手紙の文面を理解すれば、大義に殉じる心意気が伝わってきます」

 迫根島を視察に訪れた弓田は、組織の尖兵として送り込まれた洋平と、島に部隊を率いる前から密会していたのだろう。

 千尋の兄が、組織の構成員なのは間違いない。

 しかし彼らは同じ組織に属していながら、南方戦線に赴く行動原理において性質を違えている。

 判じ物を完成させる最後の欠片が、彼女の告白でピタリと嵌った。

 組織は戦後、なぜか弓田の隠した軍資金を迫根島から引き上げていない。

 引き上げたくても引き上げられない事情があるのならば、それは連合軍からせしめた軍資金を島に隠匿した弓田の裏切りで掠め取られてしまったのではないか。

 洋平が弓田の推薦状で帝都の兵学校に進学して、彼と同じ南方戦線に配属されたのは、裏切者の監視または始末するための方便だ。

 手紙の文末に書かれた『僕ハ維新回天ノ捨テ石ニナラン』と、戦場にて天誅を下す相手は弓田であり、本物の国賊と成り果てた裏切者を討ち果たさんとする覚悟である。

 彼らの属した組織の本質は知らないが、敵国と通じていた組織には、情勢を利用して大義を成さんとする覚悟があるように見受けられた。

 そんな洋平から千尋を託された私とあっては、もう余裕綽々ではいられない。

「千尋さん、この島に眠る埋蔵金を待ち逃げして、何もかも忘れて本土で暮らしませんか。加藤さんのいない今なら、金を掘り起こすのに好都合です」

「え?」

「深い穴の底に埋めてしまえば、誰にも見つからないでしょう。しかし金というのは、必要なときに持ち出せなければ意味がない。弓田が、いつでも持ち出せるように金を隠しているなら、じつは心当たりがあるのです」

「からかわないで下さい」

「いいえ、冗談ではありません。私は千尋さんが……、そのつまりですね……、好きなのです。私は船でお見かけしたときより、貴女のことが好きなのです」

 もっと早く本心を伝えるべきなのは、私の方だった。

 髪を掻き上げた私が、上目遣いに千尋を見れば微笑んでいる。

 了承したと考えて良さそうだ。

「好きです」

「存じておりますわ」

 弓田の隠した金を持ち逃げするかは別として、残りの生涯を彼女と添い遂げたいのは偽らざる本心である。

 私は千尋を手招きすると、顔を寄せて耳打ちした。

 一計を案じた私は、今度こそ全てを彼女に伝えたのである。


 ※ ※ ※


 私は千尋を送った本家で懐中電灯を借りると、八番目の坑道を通って日島に上陸した。

 坑道から這い上がった桟橋では、加藤から託された革鞄の中身を整理して背負い直すと、丸太を横にしただけの急な階段を見上げてため息を吐いた。

 まだ昼下がりなので気温も高く、うだる暑さに階段を踏む一歩一歩、額から汗が滴り落ちる。

 島民の菩提寺である寺の参門まで登りきった私は、振り返ることなく炭鉱の安全祈願に置かれた供養塔を目指した。

 島の風習で土葬だった墓地だが、昭和に入って火葬が徹底されており、不幸にも島で最初に荼毘に付されたのが、島民を含む十三人の犠牲者だったのである。

「弓田さん、どうして日島にいるんですか」

 私が呼び声に振り向けば、そこには駐在の笠間が手に警棒を構えて立っていた。

次回、殺人事件の謎解きです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=535176207&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ