表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巌頭の鵜  作者: 梔虚月
25/32

最終章00 踏み絵

 幼イ君ヲ思イ出セバ、アノ日ノ事ハ誤リデ、取リ返シガツカナイ愚行ト恥ジル日日ヲ過ゴシテイル。ソレデモ恥ヲ偲ンデ申セバ、僕ハ、アノ日ガ有ルカラ、再ビ生キテ祖国ノ地ヲ踏ミタイト、今日マデ生キテイル。

 只願ハ叶ワナイ。僕ノ部隊ハ、フォン半島ニ上陸シタ豪州軍トノ闘イデ、既ニ壊滅ノ途ニアリ。手紙ハ君ニ届カナイ。其処故、本心ヲ申シテイル次第デス。

 

 佐野から預かった手紙の書き出しは、まるで不帰者の書いた遺書だった。

 手紙の内容からは、これがニューギニア島東部のフォン半島からダンピール海峡を渡り、私が収容されていたニューブリテン島の捕虜収容所に届いたことがわかる。

 佐野が従軍していた第20師団は昭和十八年、帝国海軍の船舶輸送の基地でもあったフィンシュハーフェンに派兵されており、同地で豪州軍と交戦している。

 フォン半島の先端にあるフィンシュハーフェンに上陸した豪州軍との戦いは熾烈を極めて、動員された第20師団二万五千名うち、生きて終戦を迎えられたのは千七百余名だった。

 私は手紙の送り主が佐野だと考えていたものの、報道班員の彼は激化する戦地を離れてニューブリテン島の捕虜収容所に収監されているのだから、手紙は海峡を渡る前に誰かに託されたのかもしれない。

 死を覚悟した手紙の主が、戦地を離れる従軍の記者に託した遺書だとするならば、それを佐野が私に託したことに意味があるように思われた。

 しかし私が好奇心に負けて封を開けなければ、手紙の主が誰なのかも見当が付かなかったはずで、こうして内容を盗み見ても、私の思う人に届けて良いのか悩ましい。

 彼は『手紙は然るべきとき、然るべき人が訪ねてきたら渡してほしい』と、託されているので、無理に探して届ける必要はない。

 いっその事、破り捨て約束を反故にしても咎める者もいない。

 

 君ノ瞳ヤ気丈ナ振舞イハ、母上様ニ似テイル。

 母上様ニ先立ツ不幸ヲ許セト、伝エテクダサイ。

  

 文中に度々出てくる母親に関する記述に、親子ほど歳の離れた女に宛てた想いに、思い当たる手紙の主は、南方戦線で戦死した千尋の兄だった。

 そうと思って読めば、想い人が母親に似ていると言うのに、その母親に先立つ不幸を詫ているのだから、二人の間柄が同じ母親を持つ兄妹だとしても不思議がない。

 そして兄を慕う千尋が、異母兄の洋平が父親の実子ではないと薄々気付いていたのは、兄と許されぬ関係にあったからではないか。

 一夜の過ちなのか、それとも合意の出来事だったのか、分家の双子が父親の洋平と千尋を毛嫌いする訳合いも存外、ただならぬ兄妹関係を察してのものかもしれない。

 あれこれ詮索すれば限がないものの、洋平が千尋に宛てた遺書だと仮定すれば、これほどしっくりする割符がなかった。

 そして仮にそうであれば、連合軍の将校と馴れ合っていた佐野が、洋平の遺書を私に託した訳合いに勘が働く。

 私が手紙の内容を理解して千尋に配達すれば、記憶喪失が詐病だった証拠になるし、過去を思い出したと疑われ兼ねない。

 手紙の役割は本来、弓田の名前と情報を継承した私が、組織の構成員だった洋平の遺書を配達が出来るか否かで、その真偽を見定める踏み絵だった。

 だが私は迫根島に渡航するまで、手紙の取引を帰国させる口実と捨て置いていたし、洋平を弓田一派と見抜いた今、過去の記憶の有無を見定める道具にならないのは明白である。

 なぜなら私は状況から手紙の配達先に辿り着いたのであり、決して過去の記憶を頼りに答えを出したわけではない。

 だから千尋に届けてしまえば気楽になるが、兄の遺書を所持していた訳合いを問われたとき、私自身も弓田一派だったと名乗り出ることに等しい。

 私が弓田一派でなければ、兄の遺書を託された理屈に合わないからだ。

 GHQや佐野に押し着せられたなどとの言い訳は、昨日までなら通用しても、今となっては、彼女の体ばかりか心まで弄ぶような悩ましい事態に陥る。

 二つ返事で受取った手紙だが、安請け合いにも程があった。

 しかし私が弓田だと決まった訳ではないし、手紙の主が洋平だと決まった訳でもない。

 そもそも私の思い込みで辻褄が合っているだけで、異母兄妹で育った千尋と洋平が相思相愛の関係にあったというのは、嫉妬の産物かもしれない。

 ただ私は過去を失って以来、喜怒哀楽の感情も乏しく、他人に対する興味も薄らいでいる。

 然るに嫉妬に駆られて目が曇るなんて、人並みの情が残っているとは思えない。

 私の洞察力が常人以上なのは、諜報部の士官である加藤が認めるところでもあり、その私が出した結論は限りなく真実を言い当てたと、心に留めて置く必要がある。


 窮地ヲ凌グ事有レバ、愛シキ君ト國ノタメ、僕ハ維新回天ノ捨テ石ニナラン。


 ただ送り主が共産主義に傾倒した弓田一派だったとすれば、手紙を結ぶ言葉に疑問もある。

 手紙を結ぶ言葉は勇ましく、想い人と帝国ために死地に赴く心意気が込められていたが、この『維新回天の捨て石にならん』とは、天皇親政を求める皇道派が、政界や軍閥に共産主義者を重用していた統制派に『天誅』と称して暗殺を行うときの決まり文句だ。

 弓田の属している組織が皇道派ならば、加藤の説明と矛盾しているし、洋平を弓田一派と疑った見立てにも狂いが生じてしまう。

 ただ昭和維新と称して武装蜂起したニ・ニ六事件の青年将校らが、それを口にしたとき、『我らが昭和維新を成す』と言って除けた統制派の将軍もいたので、維新の志は必ずしも皇道派の専売特許ではないのだが――

「そうか、そもそも土佐藩は板垣退助が明治維新の立役者にありながら、維新後も薩長藩閥政府に冷遇されて反勢力となった。しかし板垣退助の掲げた自由民権運動などの政治思想は、尊皇攘夷を求める皇道派よりも統制派に近い」

 言葉の意味に囚われて二元論で考えていたが、共産主義者を重用したとされる統制派は、皇道派それ以外と言われるほど政治思想や理念を旗印に集合した派閥ではなく、統制派そのものの存在を否定する声もある。

 しかし日本陸軍内には、自らの勢力拡大や改革の実現を目指して様々な会合が発足しており、それらを統制派と見るならば、彼らもまたそれぞれの昭和維新を目論んでいた。

 弓田の所属している組織が、薩長藩閥政府に冷遇された土佐藩の出身者で構成された統制派の会合であり、皇道派から大義名分を取り戻さんと口にしているならば、洋平が決意を認めた訳合いも諒解する。

 そして米国から軍資金をせしめていた組織が国家転覆を企んでいたなら、彼らが目指した国の在り方に興味を引かれずにいられない。


 ※ ※ ※


 私が後頭部を擦りながら『天誅か』と、寝息を立てている加藤の枕元で呟いたとき、襖が開いて千尋が顔を覗かせた。

「ねぇ、駐在さんと和尚さんが見えたわよ」

「ありがとう」

「崩落事故のあった坑道を捜索するなんて、本当に危なくないのかしら。もう二、三日すれば、本土から警察もやってくるわ」

 私は千尋に託けて、笠間と高明和尚を呼び出してもらった。

 加藤が崖から突き落とされたとき、関所の閂錠が閉じられていたならば、犯人は私たちが門に辿り着く前に庭へ戻り、暗がりに潜んでやり過ごしたに違いない。

 門の施錠が犯人の意図しなかった落ち度なのか、仕組まれた罠なのか、それを見極めるためには、邦久が逃げ込んでいた坑道を捜索する必要があった。

「千尋さん、事件の真相を知る者がいるなら、あの暗い穴蔵の奥底にいるはずです」

「それが父たち四人を殺した犯人でしたら、あなたが返り討ちにあう危険だってあるわ」

「心配はご無用です」

 犯人の狙いが弓田が米国から引出した莫大な軍資金ならば、事実を知っていただろう耕造や、資金回収をはかる加藤の殺害を試みたと考える。

 そして犯人が弓田の隠匿した宝の横取りを企んでいるのならば、迫根島に再び訪れた私から埋蔵場所を聞き出すために、生かしておくのが必定だった。

「私には、理解する必要がないと仰っしゃりたいのでしょう。男は、身を案じる女を疎ましく思うのですか」

「決して、そのようなことありません」

「私は、あなたのことを心配したらいけませんか」

「千尋さんこそ、私の心配を知らない」

「そうやって、いつまでも人を見下すのはお止めなさい」

 千尋は拳を振り上げたものの、もう片方の手で腕を制して大きく息を吐いた。

 私は親切を無碍にする非礼な言動を詫たが、それで許されるのならば、気の済むまで頬を叩いてほしかった。

「すまない……、でもわかってください」

「あなたは、兄に似ている」

 私が野上洋平に似ているとは、前にも何処かで聞いた気がする。

 あれは確か人の悪さが父親に似ていると、葵に罵られたときだった。

 だがそれは誤解だ。

 私は戦場で、よもや過去ばかりか人相まで失っていようとは思わない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=535176207&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ