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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
23/32

06 壁抜け男

 加藤を崖の上に引き上げたのは、港で船頭の供養に出ていた高明和尚と笠間、それに炭鉱崩落事故の現場で見張りの遺体を発見した下働きだった。

 和尚と駐在は港から本家に戻るとき、駐在所の方から逃げてきた下働きと出くわして、見張り役を殺した邦久が坑道から抜け出したと知る。

 慌てた三人は、坑道から解き放たれた殺人鬼が本家に向かっては一大事だと、何やら騒がしい本家に駆けつけて、崖下にいた加藤と私を引き上げてくれた次第だ。

 私が見張り役が殺されたと知ったのは二十三時、ロープを頼りに崖をよじ登った直後である。

「つまり炭鉱で見張りを殺した邦久が、門の向こう側に逃走しているんですね」

 笠間は手帳に書き留めると、施錠された関所を見つめている私の横に立った。

 駐在の拙速な見立ては、一見して非の打ち所がないように思われる。

 坑道に追い詰めた殺人鬼が、見張りを殺して集落まで逃げてきたというのは、筋が通った話ではあった。

「それはどうでしょう。存外、加藤さんが酒に酔って足を滑らせただけかもしれない。炭鉱で組長さんを殺した犯人が、門の向こう側にいるとは限りません」

 関所を迂回して集落側に行けないのであれば、犯人が施錠されていた門の向こうに逃亡できるはずがない。

 仏国の小説家マルセル・エイメの短編集には、壁を通り抜けることが出来るデュティユルという男が、その超能力で義賊となる『壁抜け男』という作品がある。

 壁抜け男であるデュティユルは当然、小説に登場する架空の人物であり、犯人に人智を超えた能力が備わっているはずがない。

 となると、考えられるのは門や閂錠が小細工されており、犯人が手品師のように壁を抜けたことになるのだが、見たところ小細工された可能性は無さそうだ。

「しかしGHQは『何者かに突き飛ばされた』と証言しているのでしょう?」

 笠間は、加藤が門の向こうで犯人に命を狙われたとするならば、私が悲鳴を聞いて駆けつけたとき、門が施錠されたままの意味合いを理解しているのか。

 日暮れに閉じられた門は、千尋が加藤を送り出したときに解錠れたものの、すぐに施錠されている。

 犯人が施錠された門の向こうを逃走しているならば、居間で雑談に興じていた私や葵、それに門から戻った千尋の目を盗んで通り過ぎて、壁抜けしたことになる。

 それは不可能だ。

「彼は『弓田に突き落とされた』と、言っていました」

 笠間は私が訂正すると、腕組みしながら小さく唸った。

 彼は、私を弓田宗介だと信じているからだ。

 私が弓田ならば、加藤を崖から突き落とした犯人である。

「どちらにせよ、GHQの意識が戻ればはっきりします。それまでは、彼は『何者かに突き飛ばされた』ことにしましょう」

 笠間は、しつこく念を押した。

「私には戦前の記憶がなければ、加藤さんが紹介した『弓田宗介』なのか、それを確かめる術がないのです」

「弓田さんが記憶喪失なのは、野上のお嬢さんから聞いて存じております。ですが、あなたを弓田だと紹介した被害者が殺されかけて、その彼が弓田を犯人だと証言している」

「確かに、私の犯行を疑われても仕方ないですね」

「被害者が崖から突き飛ばされたとき、弓田さんが野上のお嬢さんたちと仮通夜の席にいたのは確認済みです。アリバイのある弓田さんが無実なら、無駄に騒ぎ立てる必要もないでしょう」

 笠間は、これ以上の厄介事を増やしたくないのだろう。

 加藤が弓田――、即ち私に突き落とされたと言えば、サキや清美が騒ぎ出すに決まっている。

 私の疑惑を晴らしてくれる加藤は、あれから気を失ったまま、本家の部屋で介抱されていた。

 私は本来、こういった細かなことに拘る質なのだが、駐在が危惧の念を抱くのはわからなくもない。

 しぶしぶ同意した私は、関所の閂錠に仕掛けがないのを念入りに調べていたが、駐在に急かされて本家に戻ることにした。

 庭から出入りしていた居間は、雨戸でしっかり戸締まりされており、私と駐在は、玄関の敷居を跨いで奥座敷に向かう。

「駐在さん、一つ思いついたのですが、弓田が幽霊であれば壁抜けが出来ますね」

「こんな非常時に、馬鹿を言わないでください」

 弓田はラバウルで行方知れずになったが、死んでいるとは限らないのである。

 

 ※ ※ ※


 通夜振舞いが用意されていた奥座敷には野上家のサキ、千尋、高明和尚が神妙な面持ちで集まっており、そこに門の施錠を確認した笠間と私が加わった。

 夜更けとあれば、飯炊きの婆さんは就寝しているので、組長たちの遺体を発見した下働きが、気の抜けた顔で列席者にお茶を配っている。

 姿が見えない清美たち母娘は、別室で加藤の看病をしているらしい。

 分家の母娘が甲斐甲斐しく看病しているのは『GHQに恩を売りたいのでしょう』と、喪主を務めるサキが言った。

「犯人は門の向こうに閉じ込めたので、本家にいる皆さんは安全です」

 笠間の見立てに安堵したサキは『島民は無事なのか』と、襟を正して聞き返した。

 彼女の気遣いこそが、多くの島民に慕われるところだろう。

 迫根島に残る人々は、やもすると殺された区長より奥方を慕っているように見受けられた。

「騒ぎを大きくするよりも、夜明けまで静観している方が安全だと思うのですが。弓田さんは、どう思います」

 笠間は事件の処理続きで、精魂尽き果てた様子である。

 駐在所でサイレンを鳴らせば、島民は本家の庭に集まってくるものの、暗い夜道で殺人鬼に行き合い、被害が拡大する可能性が捨てきれない。

 犯人が無差別殺人を楽しんでいるのでなければ、手当たり次第に騒いで、無辜の民を巻込む事態は避けるべきだ。

 その点は、駐在の意見に賛成する。

 ただし私の見解は、全く別の意味合いで関所の開門に反対だった。

「ところで皆さん、事件当時の行動について聞かせてもらって構いませんか。まず最初の事件では、皆さんどちらにいました」

 幸いここには、最初の事件で犯人がいたであろう浜側にいた人物が揃っている。

 事件を整理するには、私たちの行動について確認する必要があった。

「私たちの行動ですか。それは、いったいどうしてです」

 隣に座っている千尋が、その場にいる者の顔をゆっくりと眺める。

 当主を亡くしたばかりの遺族を疑うのは、いくら厚顔無恥の私でも心苦しかった。

「もちろん、ここにいる皆さんを疑っているつもりはありません。しかし事件当時の行動を確認すれば、私たちの目が届かない盲点が浮かび上がる。見えない殺人鬼の足取りを掴むには、その盲点を探ることが重要なのです」

 詭弁である。

 私の推理では最初の事件のとき、浜側にいた者であれば、全員が犯行可能であり、ここにいない清美たち母娘だって容疑者だ。

 むしろ犯行が不可能なのは、雨で集落に閉じ籠っていた島民と、双子の姉に化けていた葵くらいである。

「わかりました」

 サキは耕造が殺された当時、台所に立つ家の者に昼食の献立を指示すると、屋敷の二階に上がり着物の繕いをしていた。

 疎開先から神戸、そして横浜で兄の遺髪を持ち帰った千尋の草臥れた着物を整頓していたところ、清美の悲鳴を聞いて居間まで下りてきたらしい。

 側で畏まっていた下働きが『二階から駆け下りてきた』と、証言を裏付けているが、二階に上がり奥方の所在を見ていた訳ではない。

「普段はこちら(今いる部屋)で針仕事をしますが、あの日は、清美さんと和尚さんがいらして、洋平さんの葬儀相談をしていたので、下りるのを遠慮しました」

 女の細腕で男を何人も撲殺出来ると思えないが、島民に慕われるサキであれば、協力者がいても不思議ではない。

 島民や家の者は、耕造殺しの現場でサキに疑惑の視線を送った私と加藤に、強い敵意を剥き出しにした。

 共犯者の存在を意識すれば、彼女を容疑者から外すのは難しい。

「では和尚さんと清美さんは、耕造さんが殺された現場の鼻先にいたのですね」

「ああ、しかし居間の襖障子は閉じていたし、耕造さんが庭に出なさったのも知らなかった。だから、いつ殺されたのかわからん」

 高明和尚は清美と葬儀日程などを打合せしていたが、長雨で道を塞がれた日島の菩提寺に渡る都合がつかないので、話合いが難航していた。

 そして葬儀相談の席には茜も同席していたものの、退屈な話題に欠伸をすると、すぐに中座している。

「茜さんは席を立って、どちらにいらしたのでしょうか」

 高明和尚が小首を傾けると、千尋が小さく手を上げた。

「あの子が部屋を出るのは見かけたけれど、何処に行ったのかまではわからないわ」

 千尋は当日、私と加藤の食事を分家に届けた後、本家の廊下で茜を見かけて自室に籠もっていたらしい。

 朝から雨が降っていれば、島の案内で呼ばれないだろうと、部屋でのんびり寛いでいた。

「駐在さんの言い分は、前に聞きましたね」

 寄港している船に気付いた笠間は、駐在所から港までの坂道を下っていたものの、清美の悲鳴で港を経由して本家に向かった。

 与吉の船が迫根島に寄港するのは月一、二度、私たちが上陸して三日目なので、誰かが船で上陸するか、島から呼びつけない限り予定外の停泊だった。

 港に向かった駐在の行動には、不自然がないように思える。

「お義姉さんには、話を聞かなくてもよろしいのですか」

「清美さんは、和尚さんの証言でわかります」

 と、清美が庭に出た訳合いを除けば、これが最初の事件が起きたとき、関係者が取っていた行動のあらましだろう。

 疑えば全員が疑わしく、信じれば一つの物語が見えてくる。

「どうです、何かわかりましたか」

「ええ、まあ大まかには」

「弓田さんの考えを、ぜひお聞かせください」

 笠間にせっつかれた私だが、本人たちを前して『証言が疑わしい』とも言えず、まずは犯人が用意しただろう物語を読み聞かせる。

「予定外の寄港を不審に思った駐在さんが港に向かったとき、犯人は与吉さんを殺害して島に上陸した。その後、犯人は本家の庭で耕造さんを殺害して、駐在所に向かう道で崩落事故のあった炭鉱跡を目指した。これなら、港から本家に駆けつけた駐在さんとすれ違わなかったのも、駐在所の無線機が壊されていたのも説明がつきます」

 本家、港、駐在所を繋ぐ道は、それぞれにあるのだから、笠間が上陸した犯人と鉢合わせなかった道理が通る。

 駐在は当初、耕造を殺した犯人が駐在所の無線機を破壊すると、呼びつけた与吉の船を強奪して島を脱出するつもりだと疑っていた。

 だから彼は疑念を払拭できずに、操舵室にいた私と加藤を容疑者だと言って退けたのだろう。

「なるほど、辻褄は合いますね」

 島民に防空監視所の無線機を壊した共犯者がいるのならば、これだって紛れもない事実として通用する。

「生意気を言ったわりには、何も新しい話が出てこなかった。しかもあんたらが耕造さんを本家の庭で殺してから、駐在所の無線機を壊して港に向かっても、港から本家に駆けつけた駐在とは行き合わない」

 高明和尚の言うとおり、彼らから見れば私と加藤も充分に容疑者なのだ。

「私たちは、サイレンを集会所で聞いています」

「だから犯人は、島の秘密を探っていた安藤邦久に決まっておる」

 高明和尚は、是が非でも邦久を犯人に仕立てたいように感じる。

 犯人が邦久でなければ、何か不都合でもあるのか。

 そもそも彼は行方知れずの兄を探していただけで、弓田一派が島に隠匿した宝を探していたわけではないのに、いつの間にか『宝探しにきた』のが、公然の秘密のように扱われている。

「和尚さんは、炭鉱崩落事故の犠牲者を訪ねてきた者がいないと言いました。それは、犠牲者の身元を確認した親族がいなかったと同義です。和尚さんは、なぜ犠牲者に邦久が探していた兄がいないと断言できたのですか」

「炭鉱に下りていた島外の鉱夫や兵隊の身元は、事故処理に来た広島鎮台から派遣された憲兵が確認しておる。たった一人、素性の知れない無縁仏で祀った者を除けばな」

「その無縁仏が、邦久の兄かもしれませんね」

 身元のわからない犠牲者がいるならば、まずは行方知れずの親族を探していた邦久の兄と疑うべきである。

 そこに炭鉱崩落事故の真相を曖昧に捨て置いてきた、迫根島に暮らす島民の秘密があるように思えた。

「よく考えてご覧なさい。炭鉱崩落事故では、身元不明の遺体が一つ転がっていた。邦久が迫根島に兄を訪ねてきたのなら、それが行方知れずの兄に他ならないじゃないですか」

 私は今、炭鉱崩落事故の真相に一歩近付いている。

 誰でも良いから、無縁仏の正体を教えてほしい。

「いいえ、それは有りえません。洋平さんが炭鉱の責任者になってからは、私が島の出入簿を管理しておりました。邦久が訪ねてきた安藤恒夫は、炭鉱崩落事故の前に本土に引き上げていますわ」

 サキは不用意に、私が知りたかった事実を意図もあっさり口にした。

 炭鉱崩落事故では、身元不明の遺体があったこと、島民が邦久の兄ではないと確信していたことである。

 立ち上がった私は、思わず声が上擦った。

「それで耕造さんや島の人たちは、私を『弓田宗介』だと紹介されて腰を抜かしたのですね。皆さんは、炭鉱崩落事故で無縁仏となった遺体を、弓田宗介特務曹長だと考えたのです」

 もやもやとした頭の中で点と点が結ばれたとき、それを口にせずにいられない病気のようだ。

「たからどうした」

 高明和尚は、この事実の意味合いが、如何に重要なのか理解していないようだ。

 彼らは、知っていた。

 炭鉱崩落事故で死んだ弓田特務曹長が、迫根島に宝を隠した事実を知っていた。

 だから島のあちらこちらを捜索する邦久が、宝探しに興じていると思い込んだ。

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