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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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05 弓田の亡霊

 事件というものは、こちらの都合で起きるものではない。

 殺人鬼は、私の与り知らないところで罪を重ねていたようだ。

 犯人を追い詰めた坑道の見張りをしていたのは、老齢にして畑仕事に性を出していた組長だった男と、おそらくは集落で最も若い五十代半ばの島民であった。

 彼らは炭鉱入口が見える岩場に陣取って焚火で暖を取り、翌朝の坑道捜索まで寝ずの番人を決め込んでいたらしい。

 上陸した殺人鬼が漁で鍛えた屈強な男だったとしても、鍬と鎌を携えた二人を相手に大立ち回りを演じるとは思えないし、しっかり閉じた板壁を壊して出てくる様子があれば、本家まで知らせに走っても充分だったろう。

 まさか追い詰められた犯人が、捨て鉢に飛び出してくるまいとの目算もあったと思われる。

 彼らに夕飯を届けに出かけた野上家の下働きが、焚き火の側に二人がいないことを不審に考えて、封鎖されているはずの炭鉱入口に近付くと、一人は炭鉱の入口付近に、一人は炭鉱先の藪にうつ伏せに倒れていた。

 炭鉱を封鎖していた板塀は、藪で倒れていた男の足元に転がっていた。

「ひぃッ、し、死んでいる!」

 見張りの島民が、頭をかち割られて血を流して死んでいたのである。

 周囲の気配は、提灯に照らされる白波の音で掻き消されており、明かりの届かない真っ暗な森の木々は、風にざわざわと人影のように揺れていた。

 組長たちの遺体を発見した下働きは、まだそこらに殺人鬼が潜んでいないかと、提灯の明かりを落として息を殺した。

 その恐怖たるや、想像を絶していたであろう。

 もちろん下働きの証言が正しく、真犯人でないならばだ。

 そして用心した下働きが暗い道を駐在所に辿り着いたとき、既に時刻は遺体発見より半時(一時間)ほど経過していた。

 現場から駐在所までは、何事もなければ十分もあれば辿り着けると言うので、この下働きの行動が如何に慎重だったのかわかる。

 また犯行時刻は、笠間が二人を残して捜索を切り上げたのが十九時少し前、仮通夜の支度が一段落した下働きが二十一時前に出かけたと言うのだから、間の二時間余りということになる。

 風呂を上がった私が事の詳細を知ったのは、さらに半時ほど経った二十三時頃だった。

 駐在所から本家までは、小走りに十分もあれば辿り着くのに、なぜ私が事の詳細を知るまで一刻(二時間)ほどを要したのか。

 先に集会所に向かった加藤が、門の向こう側で手傷を負った経緯とともに、ここで語ろうと思う。

 

 ※ ※ ※


 洋平の形見を纏った私が風呂を上がると、耕造の遺体が寝かされた居間の軒先に、藍色の着物を着た双子の片割れが腰を下ろしていた。

 物憂げな表情で脚を遊ばせる彼女は、一人で退屈して見える。

 居間から奥の座敷を覗けば、飯炊き婆さんが食器を片付けているだけで、他の遺族の姿が見えなかった。

「茜さんたちは見えないようですが、葵さんがロウソクの番ですか」

「そう。朝までは長丁場だから、先に買ってでたのよ」

 朱色の着物を着た葵には、昼間に騙されたばかりだった。

 私は探りを入れてみたが、名前を呼ばれて悪戯に笑う様子もなければ、夜通し灯明をしている双子は葵で間違いなさそうだ。

「なにさ……。昼間からかったのが、そんなに憎たらしい」

 昼の一件を言い得ているので、確かに葵で間違いない。

 彼女は退屈凌ぎなのか、縁側を叩いて私を隣に座らせた。

「兵隊さんには、聞きたいことがあるわ」

「それは奇遇ですね。私も、葵さんに聞きたいことがあります」

 私が先を譲ると、葵は後ろに手をついて遊ばせていた脚を揃えた。

 星空を見上げた彼女は『兵隊さんは、人を殺したことがあるの?』と、意表を突く言葉で私を困惑させた。

 祖父の死を目の当たりにして感傷的なのか、とくに私を犯人と疑っている訳ではなさそうだ。

「そうですね。私が忘れているだけで、人を殺したのかもしれません」

「人を殺したのに忘れている?」

 ラバウルの戦場で目覚めた私は、捕虜収容所までの道すがら敵味方問わず大勢の遺体を目にしたものの、私が彼らを殺したのか問われれば、記憶がないので定かではない。

 しかし惨状の中で生き残っていたのだから、そのうちの誰かは、私が殺したのだろうとは思った。

「私は、戦争で人を殺したのか覚えていません。しかし、それは逃げの答弁なのです。私が兵隊だったのなら、きっと大勢を殺しているのでしょう」

 記憶のない私が答えられるのは、その程度である。

 戦場にいて敵を殺していないと断言できず、記憶がないのを免罪符に割り切ることもできない。

「兵隊さんは、人を殺したのを忘れているだけ?」

「私には忘れたい記憶だったし、身の上の不幸で唯一の得利かもしれません」

 それでも、このような事件に巻き込まれれば、嫌でも死屍累々の戦場を思い出して吐き気を催すのだから、これは記憶ではなく心に深く染み付いて、決して落ちない穢れだ。

「わかるわ」

 私の肩にもたれた葵は、何に同意したのか溜め息を吐いて身を預けた。

 彼女には、よもや私を誑かす気がないと思われた。

 なぜなら膝に手を置いた甘えた仕草は、年端のいかない幼子のそれだった。

 早熟の双子は、聞けば二十歳半ばの千尋より五つ下の小娘である。

「で、兵隊さんは何が聞きたいのよ」

「ああ……いや、またの機会にしましょう」

 双子が集落に足を踏み入れない訳合いと、あのときサイレンの音に怯えた訳合いを聞くつもりだったが、亡くなった祖父の前で聞き出すには、相応しくないと言葉を飲んだ。

「そう言えば、千尋さんはどうしました」

「私よりも、叔母さんのことばかり気になさるのね」

「いいえ、彼女はロウソクの番があると席を立ったのです。姿が見えないので、どちらにいるのかと思っただけです」

「ほら、そちらに」

 葵は私に寄り掛かったまま、関所の方から戻ってくる千尋を指さした。

 千尋はどうやら、集会所に向かった加藤を門まで送り届けた帰りのようで、身を寄せている私たちに気付くと鼻をツンとして素通りする。

 どうして彼女とは、間の悪いところに鉢合わせるのか。

 これでは、まるで私と葵が仲睦まじいと誤解を与える。

「叔母さん、大きい兵隊さんと何を話していたのよ。門のところに行きなさったには、ずいぶんと長かったじゃない」

 葵は千尋を呼び止めると、私の腕に胸を押し付けた。

 加藤から私に鞍替えしたのか、千尋を嫉妬させようとの企みか、単なる悪ふざけにも見える。

「お父さんのことで、話を聞かれていただけよ。戦争中のことなら、和尚さんに聞くように言ったわ」

 千尋が引き返してきたので、葵の手をそっと振り解いて居間に上がり、険悪な雰囲気の彼女たちに背を向けた。

「それだけにしては、ずいぶん戻るのが遅かったわ。叔母さん、大きい兵隊さんと良い事してなさったんじゃない」

「良い事って、どんなことよ」

「良い事は良い事じゃない。大きい兵隊さんは、叔母さんに興味があるから連れなさったのでしょう」

 着物の袖で口元を隠した葵が、ニンマリした目で千尋を見ていた。

 御婦人たちの会話は、どうも苦手である。

 物事の本質に触れず、それでいてねちっこく相手の腹の中を探る陰湿さを感じてしまう。

「やらしい娘ね……、耳年増も大概になさい。彼が集会所に戻るなら、誰かが戸締りしなくては駄目でしょう」

「でも叔母さん――」

「あなたは何処にいたのよ、さっきまで居間にいなかったじゃないのさ」

 語気を荒げた千尋は、玄関に戻らず沓脱石で草履を脱ぐと、二人から身を置いた私の横に立った。

「あなたも大概になさい」

「私は、葵さんと話していただけです」

 千尋に忠告された私は顔の前で手を横に振ると、親族に邪な思いがなかったと弁明した。

 呆れた彼女が肩を竦めた次の瞬間、集落の方で男の悲鳴が聞こえた。

 それは狼の遠吠えのようで、断末魔の叫びのようで、ただならぬ事態を想起させるに充分な声量だった。

「加藤さん?」

 誰に問いかけた言葉ではなかったが、そこにいた全員が声の主を千尋と別れたばかりの加藤と疑わなかった。

 彼は酒が弱いくせにスキットルにウイスキーを持ち歩いており、通夜振舞いの席でもずいぶん飲んでいた。

 風呂上りで酔いが回っていたならば、泥濘んだ細道で足でも滑らせたのではあるまいか。

 私たちは慌てて庭に飛び出すと、垣根沿いに関所まで向かった。

 日中は見通しが効く門までの道だったが、灯りを持たずに進むのは困難で、外側の垣根を頼りに駆けつけるしかなかった。

 私が閂錠の横木を外すと、それを後からやってきた千尋と葵に託して先を急いだ。

「加藤さん! 何かありましたか!」

 私が何度呼びかけても応える者はなく、暗い崖下を覗き込んでも、本家から漏れた灯りに波飛沫がちらりと見えるだけだった。

 追いつけ来た千尋が、加藤に渡した提灯が崖下の岩場で小さく燃えているのを発見すると、それより手前の横に突き出た岩に人影があった。

 道を踏み外した彼は、運良くそこに引っ掛かり、どうにか崖下の岩に激突を避けられたようだ。

「加藤さん! 今すぐ引き上げるから、それまで気をしっかりなさい!」

 私は千尋と葵に灯りとロープを取りに行かせると、手頃な枝や岩を掴んで急勾配の斜面を加藤のところまで下りた。

 彼の横に立って崖を見上げると、よくぞここに辿り着けたと自分自身の度胸に感心した。

 落ちてくる大男を受け止めたのは、それほど切立った絶壁の中程だった。

「う……う……うっ」

 加藤に息があるのを確認した私は、人心地ついて『いま助けがくる』と、脚を抱えて呻く彼を安心させた。

「これに懲りたら、酒を飲むのを控えなさい」

 よもや私と加藤が念入りに調べた集落側に殺人鬼が紛れ込むなど、あり得ないと思われた。

 だから細道から崖下を覗き込んだとき、彼が十六尺ほど下の突き出た岩場に倒れているのを見つけても、酔った彼がうっかり道を踏み外したと考えた。

「ユ……ダ……だ。俺は……、ユダに突き落とされた」

「弓田宗介? 加藤さんは、寝ぼけているのかい。弓田は、ラバウルでMIAになったのだろう。それとも君は、私が裏切ったなんて言うんじゃないだろうね」

 息も絶え絶え半身を起こした加藤は、強打した全身の痛みを押し殺して肩で息しながら呼吸を整えた。

「お前がユダか……、そうだな、ユダは裏切り者の象徴だ」

 加藤は記憶が混乱している様子で、弓田宗介と新約聖書に登場するユダを取り違えている。

 イスカリオテ・ユダは、新約聖書マルコの福音書3章19節で、イエス・キリストを銀貨三十枚で司祭に売った弟子として描かれており、裏切り者の代名詞である。

 彼はクリスチャンだから、そんな風に私の言葉を取り間違えたのだろう。

「俺を崖下に……突き落とした奴は……、道化のような白い顔……、女のような白い顔……だった」

 私に背中を抱えられた加藤は、そう言い残すと、言うだけ言って気が晴れたのか目を閉じて意識を失った。

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