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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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04 時限爆弾

 風呂上りの加藤は、私が廊下に一人で立っているのを見てすれ違いに鼻で笑った。

「あの娘はどうした。記憶とともに、女の口説き方も忘れちまったのか」

 どうやら加藤は、私が千尋に置き去りにされたと思ったらしい。

「私は、千尋さんを口説こうとしてないよ。ただ御婦人には、今も想いを寄せている人がいるようだ」

「そいつは、ご愁傷様」

 千尋が異母兄の洋平を好いていたならば『いたようだ』と、訂正するべきなのだろうが、空虚なさまを見ると現在進行形に思われる。

 歳の離れた兄に寄せる想いが、兄妹の情なのか、恋慕の情なのか、私には窺い知ることができないものの、彼女が妻の清美や双子を差し置いて、遠方の横浜で兄の復員を待っていたと言うのだから、それくらい心待ちにしていた相手だったのは確かだ。

「せっかく体を綺麗にしても、脱いだ服を着るのは不快だな。先に集会所に戻っているから、俺を気にせず長湯して良いぞ」

「加藤さん、殺人鬼のいる島で、一人で出歩くのは危ないからお止しなさい」

「何を言ってるんだ。門の向こう側に耕造殺しの犯人がいないのは、俺とお前で確認済みだし、いざとなれば俺にはこいつもある」

 加藤は上着を捲ると、腰にぶら下げた自動拳銃ベクターCPⅠを見せつけた。

 犯人と目される邦久は坑道に閉じ込められており、実行犯が私たちの目を盗んで関所の向こう側に逃げていないのは太鼓判を押す。

「しかし加藤さん、この事件が私たちの上陸が引き金になっているなら、やはり犯人の狙いは私たちということです」

「なぜ犯人は、俺たちを狙わずに耕造や船頭を殺したんだ。こんな事になれば、俺たちだって身構えるぞ」

 加藤の言うとおり、そこは私も疑問ではある。

 無差別殺人の殺人鬼が島に上陸したのでなければ、二人が殺されたことには訳合いがあるのだろう。

 島にある無線機が的確に破壊されており、逃走の痕跡すら残さなかった犯人が、単なる無差別殺人を目的としているとは思えない。

「俺のことは良いから、ゆっくり湯に浸かって大いに頭を使え。こういうときのために、お前を連れ歩いているんだ」

 加藤は、私の背中を押して脱衣所に押し込んだ。

 彼は、私に何を期待しているのか。


 ※ ※ ※

 

 私は脱衣籠に脱いだ服を畳むと、千尋から預かった洋平の服を別の籠に置いて浴室の引戸を開けた。

 心休まる檜が香る湯気は、緊張に強張っていた私の身体を解してくれるようで、深く息を吸い込むと、暫しの安息に身を委ねることにした。

 浴室の窓は、互い違いに斜め格子木が縦に組まれており、その僅かな隙間から外で薪をくべる者に、熱いぬるいと指示が出せる。

 しかし野上家の下働きは今、炭鉱の見張りに出ている島民に夕飯を届けに出かけて留守だった。

 湯船から湯を木桶に汲んで湯浴みした私は、ずいぶん冷めた、それでいて夏であれば充分な熱さの湯に身を沈める。

 湯船で手足を伸ばした私は、自分の体を目視するのが嫌いだった。

 細い手足は女のようで、肋骨が浮いて腰骨の飛び出した半身は、まるで死人と見紛うからだ。

 徐に頭の古傷を指で擦れば、頭蓋に小さな凹みを見つけた。

 ここから脳の中心まで貫いた弾丸は、時限式爆弾のように今も少しずつ鉛毒を放出して、私の命を奪おうとしている。

 私は普段、脳に痛覚がないのが幸いして、刻一刻と近付いてくる死の恐怖を忘却していた。

「医者は、はっきり言わないが、加藤さんが私との旅も『これが最後』と言ったのは、そういう意味合いもあるのだろう」

 やはり言葉にすると、逃れられない現実に直面して気分が滅入る。

 病室を書庫のようにして、空っぽ頭に知識を山のように詰め込んだところで、壊れてしまった私の過去が戻ることもなければ、残された人生に希望を見出すこともできなかった。

 私は結局、過去の自分が何を成し得たのか知ることも、未来の自分が何を成し得ることができるのかも、わからぬままに消える。

 ただ天涯孤独の私が行き倒れたところで、誰も気にしないであろうと思えば気楽なものだった。

 私は何も成しえず消える。

「それも、迫根島に渡るまでのことだ。今は知りたいと願う気持ち、生きたいと願う気持ちが勝っている」

 私は主体的に島の秘密を暴きたいと考えているし、自分の過去にも興味を引かれずにいられなくなった。

 そして私が消えてなくなる日には、島で出会った千尋に泣いてほしいとの欲もでた。

 ここに生きた証を残すには、耕造と与吉を殺して逃げている犯人を捕まえて、御婦人の無念を晴らしてやりたい。

 それに島の秘密が、私の過去に繋がるならば、是が非でも解き明かしたい。

 もともと好奇心の強い私である。

 限られた時間とあれば、これが私の過去と未来を知る最後の好機である。

 湯に鼻まで浸かった私は、格子の隙間から月を見上げると、視界の端に朱色の着物が玄関の方に戻るのが見えた。

 あれは双子の姉、朱色の着物を好んで着る茜であろう。

 踏みしめる砂利音で、小走りに行くのがわかった。

 双子は祖父が亡くなった夜、何を忙しくしているのか、続いて廊下をドタドタと走る音も聞こえる。

 私は温まった頃合いで湯船から上がり、シャボンを手に体を洗うと、無造作に伸びた髪にも指を通して洗髪した。

 そして体が冷える前に浴室を後にすると、千尋にとって兄の形見であろう白ワイシャツに袖を通して、煤色のズボンを穿いて一息ついた。

 彼の形見は誂え物のようで、私が置いて残した物のように感じる。

 だが、それは誤解だ。

 千尋に慕われる兄が、私であれば良いという願望でしかない。

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