03 野心家の兄
私は加藤を通夜振舞いの席から連れ出すと、居間の縁側から続く目隠しの廊下を歩いて風呂場に向かった。
庭の端にある風呂場までの廊下は、浜と集落を行き来する庭と平行に伸びており、視線の辺りに格子窓があった。
「なんだ、一緒に入るんじゃないよな」
加藤はフロリダの日本人街に育っているが、生活様式は欧米のそれで、同性といえども個室の入浴を好んでいた。
私に男色の趣味がないのは勿論だが、集団行動が原則の軍隊育ちの彼が、人前で脱衣するのを嫌がる訳合いを勘繰ってしまう。
男に襲われた経験から、過剰に嫌がるのではないのか。
「加藤さんには、折り入って話があるから呼び出したのです。野上洋平の生い立ちを聞いて、彼が弓田一派の構成員だと思いませんでしたか」
「うん? 野上洋平が迫根島に渡ったのは、戦争が始まる十年以上前じゃないか」
「サキは大正十二年に島に渡ってきた洋平が、翌年には清美と結婚していたと言うのですから、ここに来たとき彼が成人していたのは明らかです」
「だからって野上家の長男が、開戦の十年以上前から弓田の尖兵として上陸していたと言うのは暴論だ」
加藤は、両手を腰に当てて言い放った。
「アメリカ人の君には、ピンとこないかもしれません。ですが大正十二年頃と言えば、自由民権運動を唱えた土佐藩士だった板垣退助の没後間もなくです。高知は当時、薩長藩閥政府から議会を取り戻したとの気運に満ちていた。革新的な政治結社が、その頃から存在していたとしても驚くこともありません」
日系アメリカ人の加藤に高知界隈に革新的な政治結社が存在したとの仮説は、やや説明を有する話ではある。
弓田宗介なる佐官が、そもそも帝国陸軍内部で共産主義に傾倒する組織を結成したのでなければ、彼の所属する一派は開戦より先に存在していたと考えるのが自然だ。
組織がそうした政治結社と仮定した場合、監獄島である孤島で、土佐藩から税の分一奉行を任命されていた野上家に、組織の一員を潜り込ませていたと言うのは全くの眉唾ではない。
むしろ土佐藩の息がかかった孤島は、討幕を志す者が身を隠すにもってこいのアジトだったろうし、そうした島だったから開戦して間もなく、弓田が迫根島に部隊を率いて上陸できたとも考えられる。
「しかし野上家の長男が共産主義者だったとしても、それが事件と何の関係があるんだ」
革新的な政治結社がお題目通り共産主義に傾倒しているのか、私には知る術がない。
しかしCISの加藤が、事ある毎に弓田の組織を共産主義勢力だと言うのだから、きっとそうなのだろう程度に感知している。
弓田が身を寄せていた共産主義勢力の黒幕を調べているCISには、元より疑問を挟む余地がない話なのだろう。
「君は鈍いな……。今回の殺人事件が戦中の炭鉱崩落事故に端を発していると考えれば、少なくとも耕造が殺された訳合いに関係してくる」
加藤にとって殺人事件は、組織の全容解明と弓田が隠匿した宝の捜索、そのオマケくらいにしか考えてないようだ。
「もしもラバウルで戦死した長男が組織の尖兵だとすれば、被害者は洋平を本当に『自分の実子として受け入れていた』のか」
「お前は、耕造の口から秘密が漏れるのを恐れた組織が、口封じに殺したと言うだな。だが組織が、人を殺してまで守りたい秘密とは何だ」
「加藤さん、それがわかれば苦労しません。しかしですよ。耕造さんは、加藤さんが島の秘密を暴くと言ったとき、私を弓田と紹介したとき、明らかに狼狽したのも事実ではありませんか」
耕造が殺された今となっては、弓田一派が隠したい秘密が何なのか探る術がない。
ただ一つだけ確かなのは、雲を掴むような宝の捜索や、炭鉱崩落事故の真相にも自ずと活路が開けてくる。
「しかしな……、耕造が身の危険を感じていたなら、なぜ俺たちに事情を明かして助けを乞わなかった」
加藤は首をひねっているが、それが耕造の殺された訳合いならば、被害者は犯人と秘密を共有している限り、注意を払う必要がなかったからだ。
被害者と犯人が共有する秘密とは、私が察するにCISが捜索している宝であろう。
「耕造さんも、まさか殺されるとは思わなかったのでしょう。やもすると耕造さん自身が――」
物音に気付いた私は言葉を止めると、背後からの視線に振り返る。
そこに立っていたのは、私と加藤の着替えを抱えた千尋だった。
「あ、間に合って良かったわ。これ兄のですが、お風呂上がりに着てください」
千尋は風呂場の前で話していた私と加藤に、兄の洋平が本家に残していた洋服を届けにきたらしい。
細身の私ならともかく、渡された糊の効いたワイシャツと綿パンを広げた加藤は、よく吟味もしないで断った。
「加藤さんには、寸法が合わなかったわね。でも、あなたにはぴったりで良かった」
「ありがとうございます」
私は千尋の気遣いを有難く受取ると、加藤に先を譲って千尋と二人きりになった。
いや、彼が気を回してくれた。
脱衣所の木戸をくぐった彼が、顔を覗かせて意味深に笑ったのが証拠である。
とはいえ千尋と残されても、二人で興じる話題があるでなし、虫の鳴く声に居心地が悪い沈黙が続いた。
「何か難しい話でした」
「え、何がです」
「二人とも難しい顔で話していたから、そこに隠れて声をかけるのが遅れてしまったわ」
千尋は、廊下の向かいにある暗い部屋を指差した。
「いつから聞いてました」
「兄が実子なのか疑わしいと……。いいえ、お二人が部屋を後にして、すぐに追いかけてきたので」
「では、全て聞かれてしまった。と言うことですね。貴女たちに聞かせる話ではなかったのに、これは参りました」
ラバウルで戦死した野上洋平の遺族には、息子であれ、兄であれ、夫であれ、父であれ、親族を弓田の仲間と疑っているとは知られたくなかった。
故に席を外して加藤を呼び出したのに、選りに選って一番聞かれたくない千尋に聞かれたのは失態だった。
彼女は、兄を慕っているように見受けられるからだ。
「私の兄が、島の開発に訪れた弓田の仲間だったとすれば、反対から一転して賛成した理由にも頷けますわ。兄が島頭の息子という地位を利用して、反対派を切り崩したのでしょう」
「千尋さん、私はそのように疑っていません――」
千尋のひやりとした人差し指が、言い訳する私の唇に触れた。
お静かに。
私を制した彼女は、まだ脱衣所にいる加藤に話を聞かれたくない様子だ。
「あなたが言うとおり兄は、野心家の一面を覗かせることがありました。今にして思えば、父の息子を名乗った兄が、迫根島に厄介事を持ち込んだと言われても否定できません」
「千尋さんは、どうしてそのように考えたのですか」
洋平の出自を疑う千尋は、私と出会う以前から疑惑を感じていたのだろうか。
そうでなければ、私と加藤の話を立ち聞きしただけで、事情が諒解するはずがなかった。
しかし顛末は、格子窓をちらりと横切る双子によって有耶無耶にされる。
「あら、あの子たち何処に行くのかしら」
玄関から庭に回った双子は、朱色と藍色の和装外套を纏って居間に向かっていた。
何やら悪戯でも思い付いたのか、二人仲良く手を繋いで玉砂利を踏みしめている。
仮通夜の最中なのに、クスクスと笑い声が漏れ聞こえた。
「茜さんと葵さんは、いつもあんな調子ですか」
「どうかしら、私も島に戻ったばかりでわからない。でも、あの子たちは幼少の頃から姉妹仲が良かったわね」
千尋はロウソクと線香の番があるからと、居間に戻ると言った。
仮通夜であれば遺族を長々引き留める訳にもいかず、私は見送るつもりで会釈した。
ただ私は好奇心に負けて、去りゆく千尋の背中に語りかける。
「千尋さん、先ほどの訳合いですが」
「私は、兄を好いておりました」
「いや、それは私も充分に存じております。ですから、貴女が洋平さんを疑っていた訳合いを問うているのです」
千尋は私に意図するところが伝わらないと感じたようで、寂し気に俯くと、心ここにあらずという有り様で暗い部屋に消えた。
言葉の真意は、いずれ彼女の口から聞けるだろう。
それまでは、心の奥底に秘めておこうと思った。