01 私は誰だ
私が初めて見た景色は、抜けるような青空だった。
初めて見た景色が空だとわかっているのに、それをいつどこで『空』だと知ったのか皆目検討がつかない。
しかし私の視界いっぱいに広がるのは、見紛う事なき空である。
そして手を天に翳してみれば自分のものであると認識できたし、青空の向こうには広大な宇宙があることも理解していた。
だから正確を期すれば空は、私が私と認識して初めて見た景色である。
些か奇妙な話ではあったが、考えを巡らせば大体の見当がついた。
私には、ここに至るまでの経緯がおそらく欠落しているのだ。
なぜなら頭上で眺めた指は細長く、野原に産み落とされた赤ん坊の指ではなかった。
私は自我を確立した人間であり、何かしらの理由でそれまでの素性を忘却している。
であれば、青空は見慣れたはずのものを未知のものに感じる未視感というやつだ。
でなければ、成熟した体躯の男が既知感を持って空を仰いでいる理屈に合わない。
次に視界を過ぎったのはメマトイである。
メマトイは死臭を嗅ぎつけたのか、ぶんぶんと騒がしく目端を飛び回っていたものの、私の瞬きに驚くと、肩透かしを食らって物憂げに飛んで逃げた。
ゆえに私は、すんでそうなっていたであろう想像がついた。
私は死の淵にあったのだろう。
鈍痛に後頭部を撫でてみればヌルリとした感触がする。
うだるような暑さで吹き出した汗が、仰向けに寝転んでいる私の頬を伝い泥混じりに頭を濡らしているのだろうか。
いやいや、メマトイが蛆虫を産み付けつようと集っていた。
起き上がろうと首に力を入れてみれば頭がズキズキと痛むので、さほどでないにしろ傷を負っているのは間違いない。
どうにか上半身を起こして見渡せば、木々の隙間から見える風景は暗く、また日の当たるところには赤く大輪の花が咲いている。
頭を垂れることなく太陽に向かっている花は、南方に咲くハイビスカスだと知っていた。
しかし、それもいつどこで誰に教わったのかはっきりしない。
重い体を引きずって木陰まで這い寄ると、適当な木に体を預けて現状を整理した。
どうやら私は森の開けた場所で記憶をなくして、仰向けに寝転んでいたようだ。
頭から血を流して倒れているのだから、寝転んでいたというのは少々語弊がある。
森を散策中に暴漢に襲われたのならば、のんきに周囲を観察などせずに、この場をすぐに立ち去らなければならない。
なぜなら犯人が、まだ近くで様子をうかがっているかもしれないからだ。
でもどうだろう。
暫し耳をすませば寄せ返す波の音、ヒッヒッヒッと吸い込み笑いのように極楽鳥が鳴くだけで人の気配を感じない。
野原と森を見渡しても、およそ命の危険を感じない。
むしろ私は目の前に広がる森や澄み渡った空を仰ぎながら、得体の知れない濁流から逃れて、ようやく岸にたどり着いて安堵した気分である。
私はカーキ色の上着を脱いで投げ出した片膝を引き寄せると、そこに腕を乗せて息を吐いた。
そうして改めて一息つくと、知識があるのに記憶がないというのは妙なものだと思った。
私は誰でどんな生活をしていたのかということを除けば、大抵のことが理解できるのである。
例えば私が背にしている木は、汽水域に生えるマングローブの一種でマレー語でブルンバン。
つまりここから遠くないところに海水と淡水が交わる河口があり、目の前にあるしっかりした大地の野原は、ここが汽水域から内陸に向かう森の鼻先だと予測できる。
ただ首をひねることもある。
直上からやや傾いた陽射しが木々の左方を照らしており、その反対に影が伸びている。
こちらを向いたハイビスカスが咲き誇るところ、要するに東側から見上げた太陽が北にある。
この暑さにハイビスカスとブルンバンである。
どこか見当がつかないが、私が記憶をなくして倒れていたのは南半球にある異国だと推察できる。
問題はここがどこかではなく、なぜ私がそんな異国に一人でいるのか。
私が、ここで産み落とされた赤ん坊でないのなら、何者かに連れてこられたのではないか。
暑さに負けて脱ぎ捨てたカーキ色の上着を見れば、その理由にも察しがついた。
上着の赤い襟章には星と一本線が描かれており、それは何やらの階級を表すものだろう。
私が羽織っていたのが軍服ならば、いやいや、明らかに大日本帝國陸軍が支給する軍服に相違ない。
そういった素性を探る知性と知識だけは、幸いにして持ち合わせている。
これらの現状から推理すると、私は南方戦線のおそらくニューギニア方面に派兵された軍人であり、戦場で記憶をなくした負傷兵ということになる。
ここをニューギニア方面と疑うには、私が体を預けているマングローブをマレー語で言い当てたことも手掛かりとなった。
また他にも気付いたことがある。
先ほど日に透かしてみた中指の第一関節は盛り上がっており、俗に言うペンだこがあったのは、私がよほど筆まめな性格だった証ではないか。
相手は恋人か家族か。
私は誰に宛てた手紙を熱心に書いていたのか。
ペンだこを見て筆まめの軍人と決めつけるのは早計だが、そうであってくれれば浪漫があるし、この窮地にあって励みにもなる。
記憶が戻ったわけではないが、知識を手掛りに大抵のことがわかると、幾分か地に足がついた心持ちになった。
しばらくすると深い森の奥から銃声が聴こえた。
銃声は間隔をおいて二発、三発、四発と、徐々に激しい銃撃戦を繰り広げた。
あぁ、あれが原因なのだ。
あれが原因で記憶をなくしたのだ。
そうであれば私は、異国で戦火に巻き込まれて記憶をなくした兵隊であろう。
自らの境遇を達観していた私は、三八式歩兵銃の銃声が米兵のM1カービンに圧されて遠く離れていくのを気にも留めなかった。
私は記憶をなくすことで、人が人の命を奪うことを以って良しとする戦場から逃れたのである。
私は黒い濁流、環状する運命の輪舞から逃げ失せた。
落ち着き払った私は森から現れた米兵が銃を構えても、慌てふためくことなく両手を挙げて降参した。
私は私に関する記憶をなくしているのだ。
だから私が仮に戦局を左右するような機密を握っていても、彼らは何の成果も得られない。
敵の捕虜となり殺されなければめっけもので、戦場を離れて誰も殺さないで済むのなら肩の荷が下りる。
私の生還を待ちわびる仲間や家族もいれば申し訳ない気持ちもあるが、すべてが忘却の彼方なのだから仕方ない。
こうあっては、運命に身を任せる方が気楽なものだ。
頭を負傷して記憶をなくした私は、今までの人生を白紙にして別人に生まれ変わった。
名声や軍功が砂塵に帰したことが悲劇であれ、今の私には無縁の出来事である。
またもって名声や軍功があったのかも忘れている。
だから南国の花々に囲まれて青い空を見上げると、私は負い目を感じることなく、それどころか早々に舞台を下りることに清々しさを感じた。
どんぱちが続いているので無責任だが、鼻歌が出る気分だった。
米兵にM1カービンの銃床で殴られて見上げた空は、それほど澄み渡っていたのである。
それが、ほどなくして太平洋戦争が終戦となる南の島での出来事だった。