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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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04 サイレン

 私は自身の潔白に囚われて、加藤の言葉に耳を貸さなかった。

 CISの彼は弓田が国体護持を揺るがす国賊だと確信しており、迫根島の秘密に必死で迫ろうとしている。

 日本人ではない彼が、まして日本を恨んでも責められない生い立ちの日系米国人が、私なんかより余程も日本の在り方に熱心だ。

 大局に立てば、私が如何に無責任な男だったと気付かされる。

 私に課せられた役割は、自らを盲目の鵜として逆心の徒を炙り出すことだったのに、いつの間にか縫い合わされていた目を見開いて、あろうことか鵜匠の彼に苦言を呈していた。

 私たちが探していたものは、炭鉱の崩落事故の真相ではなかったはずだ。

 手段が目的化していると言えば陳腐だが、私は島にサイレンが鳴り響くまで、そうした本来の目的を忘れていた。

 私の後悔は与えられた使命に真摯になるべきだと、犠牲者が出るまで思いが至らなかったことだ。

 

 ※ ※ ※

 

 翌日は朝から小雨が降っていた。

 加藤は奥座敷にこもり、島に持ち込んだGHQの資料とにらめっこである。

 私が昨夜聞かせた推理に思うところがあったのか、いつもより口数も少ない彼に部屋を追い出されてしまった。

「なぁ兵隊さん、今日も村に行きなさるの」

 和傘をさした朱色の着物が、白砂の玉砂利を踏みしめながら私に寄ってくる。

 私は首を横に振ると、戯れに自分の横に座るように言った。

 どうせ相手も暇つぶしで話しかけてきたのだから、世間話にでも付き合ってもらおうとの腹積もりである。

「お嬢さんは、姉の茜だね」

「そうよ。よくわかったわね」

 見分けのつかない双子は朱色の着物が茜で、群青の着物を好んで着るのが葵だと紹介されており、あからさまな違いに気付かない方がどうかしている。

 隣に腰を下ろした彼女は、振袖を雨で濡らさぬように腰元でまとめると、結上げた髪に手を当てて後ろに流して整えた。

 本家の千尋は戦時中、母方の故郷である九州に疎開していたらしいが、迫根島出身の清美や双子は行く宛もなく島に残っていたという。

 彼女たちの母親は娘に入婿を取らせようと画策しており、私なんかも候補にあがっているらしい。

 然るに私が何処の馬の骨とも知れない名無しの権兵衛ともいかず、弓田か否かなどと証言をしないだろう。

 それは千尋の見立てだが、大きな兵隊さんを好いている双子は母親の計略に乗るだろうか。

 存外あっさり、私の謂れを否定するかも知れない。

「お嬢さんは、弓田宗介を知っているのでしょう。どうです、私はその者と瓜二つですか」

 茜は私の言っている意味がわからない様子で、肩をすくめてため息を吐いた。

 彼女は呆れた顔でこちらに振り返り、人差し指を赤い蕾のような唇に当てた。

「お母様には、私の物覚えが悪いと叱られるのだけれど、兵隊さんは自分が誰かもわからないなんて、ずいぶんお馬鹿さんなのね」

「馬鹿とは酷い言い草だね」

「兵隊さんは、彼に似てないわ」

「似てないかい」

「彼は化粧を欠かさない洒落者で、田舎者に素顔なんて晒さない。それに兵隊さんみたいに、私たちを子供のように扱う無作法もしなかったもの」

 双子も結局、男化粧の人相しか知らない。

 例え知っていても事の真偽を語る気は、更々ないのだろう。

 それが清美の躾けならば、まずは母親に話を聞くのが最善である。

 私は『茜さん』と、名前を呼んでから、

「清美さんと葵さんの姿が見えないようですが、雨の中をどちらにお出かけですか」

 茜は、ちょっとした気遣いに困惑している。

 子供扱いを嫌ったわりに、名前を呼ばれて目を泳がすのは、それだけ心が幼い証拠なのだ。

 彼女の話によると、清美は妹を連れて、戦死した洋平の葬儀相談に高明和尚と本家に出向いているらしい。

 意に逆らった息子に勘当を申し付けた耕造だが、日島の菩提寺に遺髪の埋葬を認めた。

 区長が死んだ息子に寛容なのは、本家を追い出して村八分しても火事と葬式は別なのだろう。

「浜の方にいるのは今、茜さんを除いた野上家の皆さんと、日島の高明さんですね」

 振り袖で顔半分を隠した茜は、うんうんと二回頷いた。

 それから加藤がこもっている奥座敷を見ると、私に『大きい兵隊さんは』と聞いてきた。

 やはり双子のお目当ては、筋骨隆々として逞しい大きな男である。

 彼に比べれば末成りの私だが、それでも容姿の程はまずまずだと自負していた。

 このような憂き目を見るに、敗軍の兵隊である情けなさを感じる。

 普段は負け犬根性を嘲笑する私も、つくづく日本人だと辟易した。

「加藤さんは今朝から調べ物しているので、騒いで迷惑をかけてはいけません。茜さんは、私が話し相手で不服ですか」

「そんなことはないわ。兵隊さんも、なかなかの男前ですものね」

 つまらん意地を張ったとき、茜は庭向こうの自宅に誘ってきた。

 私が渋ると、彼女は着物の胸元を指で抜いて身体を預けてくる。

 胸元に頬を当てた彼女は、固い蕾をゆるく開いて吐息をもらした。

「なぁ兵隊さん、ここでは大きい兵隊さんが邪魔なんでしょう」

 うなじから香る艶めかしい女の匂いが、私の鼻腔をくすぐりながら半身に甘い痺れを走らせる。

 そうした経験があるか否かも忘れているが、手に手を置いて細指を絡める仕草は、女が男を誘う所作に他ならない。

「ほら……」

 やがて彼女の手に導かれるように、私の手の甲が胸に押し当てられると、我に返って身を引いた。

「いいじゃない。大人は誰だってしているわ」

「ですが……これはどうした心変わりですか。貴女方は、加藤さんにご執心だと思っていました」

 私は私に関する記憶を除けば、他の誰よりも博識で賢いなどと自惚れていた。

 世間の仕組みは大抵覚えているし、人情の機微だって人並み以上に窺い知ることができる。

 それを以てしても、私に凭れ掛かる女の企みがわからなかった。

 女はご無沙汰であろう私だが、好色に弄ばれる訳合いに心当りがないうちは、おいそれと踏み切ることができない。

 それが、臆病な自分に言い聞かせた言い訳である。

「兵隊さんは、私より本家の叔母さんが良いのね。だから、私を抱いてくれないのでしょう」

「千尋さん」

 失念していた想いに気付かされると、女の手管に目が眩んだことを恥じた。

 先に手を出せば、朝三暮四とはいかない。

「ここまでしたのだから、私を好いてくれても良いでしょう」

「淑女は、そうやすやす自分を差し出すものではありません」

「寂しい者同士、楽しくやれば良いじゃない」

 私の前から手を回した茜は、嘲斎坊に微笑んでいる。

 なるほど、彼女は稚拙にも男を誑かしているのだ。

 女を武器にすれば、私が舞い上がって熱を上げると考えている。

 彼女の企みがわかると、返って愛らしくもあった。

「貴方がその覚悟ならば、提案に乗るのも悪くありません」

「そうでしょう」

「ですが弱りました。私はこう見えて、女の服をひん剥いて、ひぃひぃと鳴かせるのに飽きることがありません。雨でやることがなければ尚更、貴女が壊れるまで弄り倒してしまいます」

 私は軽薄な顔で、着物の裾から覗く白い太腿に触れる仕草を見せる。

 骨ばった指が秘所を探ろうとした途端、彼女は斜に構えて手を払い除けた。

「やらしい男」

 顔を上気させた彼女は、破廉恥な言葉を浴びせた私を蔑んだ。

 私の推察どおり、受け売りに男を惑わす娘は男慣れしていなかった。

「おや、寂しい者同士で慰めようと、私をお誘いになったのは貴女です」

 彼女が逃げるように立ち上がったので、私は朱色の振袖を握りしめて軒先に留めた。

 それから和傘を手渡して、

「お姉さんの着物を汚しては、叱られるのではありませんか」

「その手を離さないと、大声で叫ぶわよ」

「いくらでも叫びなさい。ここに人がきて困るのは貴女でしょう」

「あんたいけず!」

 彼女は今さっき誘惑した口を尖らせると、私の意地悪を罵った。

 一回り上の大人を騙そうとは、背伸びした少女の可愛げがある。

 しかし私を騙し通せると考えるとは、何とも浅はかな行動だ。

「私が茜さんに心を奪われれば、お姉さんを出し抜けると考えた。残念ながら私は、それほど女に飢えてはいません。そうですよね、葵さん」

 私を睨みつけた朱色の着物は、姉に成り代わって男を誑かそうとした葵である。

 私が恋敵に恋慕の情を抱けば、その隙をついて加藤を掠め取れる算段だ。

「いけず」

「お互い様です」

 葵は謀を見抜かれると、傘を奪い取り庭を背にした。

 何某かの事情で集落にも通えず、本家のある浜にも顔を出しづらければ、彼女は狭い庭の行き来しか世間を知らぬおぼこ娘なのだ。

 耳年増に男を誘ってみたものの、ちょっと脅せば馬脚をあらわにした。

「あんた、人の悪さは彼に似ているわ」

「彼とは弓田かい」

「お母様を泣かせた男よ」

「あぁ、洋平さんのことか」

「あんたは、女を泣かせるのが得意なんでしょう」

 泣かせるの意味合いに解釈の違いがあるのが、なんとも生娘らしくて微笑ましい。

 しかし葵が似ていると言ったのが、弓田ではなかったのは些か拍子抜けだった。

 彼女の年頃を考えれば父親を嫌うのも、それが故人であれば違和感もあるが、自尊心の強い清美が、島に上陸した軍属と懇ろな関係にあったとは思えない。

「茜の着物と取替えこして見抜いたのは、お父様とあんただけよ」

「それは申し訳ない」

 和傘を肩に担いだ葵は、頬を膨らませてお冠の様子だ。

 何とも愛嬌があり、自分の娘であれば頭の一つも撫でてやりたい。

 そのとき、浜の方からサイレンが聴こえた。

 サイレンは地鳴りのように低く、敵を威嚇する犬の唸りが如く気分をざわつかせる。

「葵さん、このサイレンは何の合図ですか」

 私が見上げると、和傘を投げ出した葵が両耳を塞いで唇を噛み締めていた。

「葵さん、どうかしましたか」

 葵はサイレンの音に酷く怯えており、肩を抱いた私を突き飛ばすと雨の降る庭に駆け出した。

「いやぁ! いやあ! なんで、なんでサイレンが鳴んのよ! 止めて! あのサイレンを今すぐ止めて!」

「なんなのですっ、このサイレンには、どんな訳合いがあると言うのですか」

「いやーっ!」

 サイレンはますます大きくなり、発狂する葵の悲鳴に負けじと島中に鳴り響いた。

 これが迫根島に恐怖の幕開けを告げる開演ブザーだと、このときの私は露程も思わなかった。

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