03 防空監視所
私と加藤は高明和尚の屋敷を離れるとき、夕飯の支度があるという千尋と別れて、二人きりで防空監視所を目指すことになった。
山の中腹に建てられた防空監視所には、屯所だった屋敷から山の尾根を歩いて五分もかからない。
山道は雑草に覆われていたものの、敷石や丸太階段のおかげで迷うことがなかった。
私の前を歩いていた彼が、斜面に突き出したところに足を向ける。
そこは太平洋沖合に向いた集落側を望む砲台だったが、肝心の高射砲は終戦を待たず島から撤去されていたらしい。
GHQの調べでは防空監視に必要最低限の人員と装備を残して、人も機材も本土空襲激化の折に運び出されていたようだ。
「迫根島には、軍港もなければ飛行場もない。戦略的価値のない島に高射砲は、そもそも過剰防衛と言わざるを得ない」
「防空監視は、ていのよい言い訳かい」
「連合軍の上陸を恐れていたなら、浜のある北側を防衛する。わざわざ連合軍が、こんな辺鄙な集落を爆撃する意味もない」
「それはそうだね」
私は砲台跡から集落を見下ろすと、銃口が島民に向いていたなどと恐ろしい妄想に取り憑かれる。
しかし島に上陸した兵隊が島民を銃で脅して、穴を掘らせていたというのは少々行き過ぎた妄想だ。
戦時中は回りくどいことをせずとも、帝国軍人の横暴に逆らえる民間人などいなかったからだ。
大日本帝国とは、そういう国だったし、戦時下とは、そういう時代だった。
それくらいの見識は、時代を知らぬ私の中にも漫然としてある。
そして山を見上げれば、木々の合間に二階屋の掘っ立て小屋が見えた。
「加藤さん、あれが防空監視所ですね」
「見晴らしは良さそうだが、開けた場所が一方向とは空域監視に不向きだな」
「空は広く、機影を監視するだけなら充分ではないのですか」
「隠れて接近する航空機を観測するならば、より広域を見渡せる物見櫓くらい建てるものだ」
私は陸軍の一兵卒だったらしく、加藤のような戦略的知識を持ち合わせていない。
しかしGHQ将校の彼が違和感を覚えるのならば、島の防空監視所設置には別の目的があったと心に留めておく必要がある。
私たちは、そこから急勾配の丸太階段を登り小屋に辿り着いた。
小屋の入口には南京錠がかけられていたが、裏手に回ると勝手口が壊れて開いていた。
防空監視所は兵隊が突貫工事で建てた雨風がしのげる程度の簡素なもので、その気になれば誰でも忍び込めそうな造りである。
島に子供でもいれば、大人の目を盗んで遊ぶには格好の場所だろう。
「お前は、ここで待っていろ。まさかと思うが、ピストルでも残っていたら面倒だ」
加藤は『疑っているわけじゃない』と付け加えると、薄暗がりの壁に手を伸ばして裸電球を点ける。
それから軋む足元を確かめながら、ゆっくりと室内を奥に進んだ。
私が勝手口から物の散乱した広い部屋覗けば、大きなテーブルの周囲に椅子が八脚、壁際には鉄製の収納家具と無線機が置かれており、奥には二階に続く脚立のような急な階段が見える。
彼は一通り室内を観察して収納棚の鎖を解くと、銃棚が空っぽなのを確認して私を手招きした。
「国内の銃器は、GHQの命令で官憲が処分しています。よしんば島に武器の類が残されていても、既に誰かが持ち去っています」
「そうだな、しかし万が一はある」
私は改めて部屋を見回すと、床に散乱している物を拾い集める。
ほとんどが他愛もないガラクタや紙くずで、捜査に役立ちそうなものは、炭鉱入口を記した迫根島の地図くらいだろうか。
部屋の散らかりようは、終戦まで島に残っていた兵隊が慌ただしくここを放棄したからだろう。
島民に横暴を働いていた彼らが、後ろ盾を失って取るものもとりあえず逃げ出した。
そんな印象だった。
「加藤さん、これを見てみなさい」
「それは」
「迫根島本島の地図です」
私が地図をテーブルに広げると、加藤は影を落とさないように後ろに立った。
「島民の証言どおり、炭鉱入口は本島の北側にある浜沿いにしかありませんね。千尋さんの話では、迫根島は古くから露天掘りが行われたようですし、陸軍もそうした文献に基いて地下資源を調査していたのでしょう」
地図には迫根島の北西にある本家から日島寄りの北東に向かって八個の『○印』が書かれており、最東端の○印には赤筆で『✕』が殴り書きされていた。
どうやら東の属島寄りの炭鉱が、島民ら大勢が亡くなった例の崩落事故の現場らしい。
「地図には、日島と月島が描かれてないぞ」
「日島は墓地ですし、駐在さんは『月島には何もない』と言っていました。炭鉱開発は、本島だけで行われていたのではないですか」
私の考えを裏付けるように、加藤が島に持ち込んだ資料には、旧帝国陸軍が残した地下資源の調査報告が西から順に八ヶ所だったと書かれていた。
故に西から八番目に当たる最東端の✕印が、崩落事故の現場と考えて良いだろう。
「おい、他に手掛かりはないのか」
「この地図、ここに『野上洋平』の署名があります。野上家の長男が記した地図が、ここに捨て去られていることは気がかりですね」
「洋平は炭鉱開発の責任者だったのだから、やつの描いた地図が施設に残されていても不思議じゃない」
「それはそうですが……」
私だって、責任者だった洋平が炭鉱入口を記した地図を描いていても当たり前だと思う。
ただ問題は、地図が残されていた場所だ。
炭鉱施設や屯所と拘りがない防空監視所に残されている訳合いは、事故調査に訪れた憲兵の目を盗むためとも考えられる。
そうなると、この地図には秘密に通じる手掛かりが残されているかもしれない。
「目ぼしい書類を集めたら、日暮れ前に集会所に戻るぞ」
帰りしな二階に上がると、燃えるような夕焼け空に照らされて焦燥感に苛まれた。
とどのつまり、私たちは何を探しているのかさえ雲を掴むような状態なのだ。
※ ※ ※
「弓田はヴァンパイアだ」
ヴァンパイアとは、アイルランドの吸血鬼伝説に登場する人の生き血を啜る怪物のことだ。
加藤は血の気が引いた青白い肌の弓田を、得体の知れない怪物になぞらえている。
夜な夜な現れる白塗り特務曹長とは、確かに化け物と呼ぶに相応しい。
日が暮れて間もない宵の口、分家に用意された夕飯を肴に晩酌した彼は、鼻頭を赤くしながらお白洲を眺めると、やぶからぼうに話してきた。
「ヴァンパイアが歩き回り、お寺の坊主はフランケンシュタイン博士の怪物、透明人間の落とし種は好色のツインズ、この島はモンスターハウスか」
加藤は恰幅がいい高明和尚を怪物と呼んでいるが、それは君のことだと言ってやりたい。
彼は毛髪と瞳こそ黒く日本人と変わらないものの、やはり目が落ち窪み突き出した額は白人のそれなのだ。
がたいの良さなら引けを取らない和尚も、彫りの深い彼の前では三好清海入道が関の山だろう。
「お化けの正体なんてものは、昔から『枯れ尾花』だと相場が決まっている。そんなものに恐れをなすとは、君もずいぶんと小心だ」
「そうか。しかし島の連中だって、お前を弓田だと紹介したとき、びっくりして腰を抜かしたじゃないか」
加藤は思い出し笑いで振り向くと、私の顔を見て二度吹き出した。
「それは驚くだろう。彼らにとっては、悪夢のような男が再来したのだ」
「まあ、そうに違いないが」
「君も、私に負けず劣らず人が悪い」
加藤の言うとおり、島民の誰もが私を弓田だと知ると一様に動揺した。
本人を前にして白塗りお化けだと揶揄していたので、島民の反応は当然にも思われる。
だが耕造や島民は、本当にお化けを見たと驚いたのではないのか。
「でも加藤さん、彼らは本当に私を幽霊だと思って驚いたのかもしれません」
「正体は枯れ尾花だと、お前が言ったんだぜ」
「もちろん、私が弓田だと認めたわけではありません。その意味では、彼らが見た幽霊の正体は枯れ尾花です」
「何が言いたいんだ」
「弓田を怪物たらしめているのは、もしかすると島民かもしれません」
言い出しっぺの加藤は、その可能性に気付いていない様子である。
この島の人間は、弓田宗介が南方戦線で行方知れずになっている事実を知らない。
島民の証言でわかったのは事故直後、弓田の率いた部隊が陸軍技術本部の技官とともに広島鎮台に引き上げてしまい、それ以降は第11師管の兵隊が防空監視を引き継いだ事実だけだ。
白塗りの特務曹長は事故のどさくさに紛れて島から姿を消して、島を再び訪れることがなかった。
だから彼らは、
「弓田は、炭鉱の崩落事故に巻き込まれて死んだと誤認しているのではありませんか。だから私が弓田だと聞かされた島民は、みな驚いて腰を抜かしたという訳合いです」
「ふざけたことを抜かすな。弓田は島を引き払った後、東京に戻り南方戦線でMIAになったと記録にある。弓田が炭鉱で亡くなっているなら、南方戦線に出征したのは何者だ」
「これはあくまで私の推察するところですが、この島には弓田の消息を知る者がおりません。知る者がいるとすれば、同じ南方作戦に参加した責任者の洋平くらいなものですが、彼も事故直後に島を出て不帰者となっています」
「ふむ……。しかし事故の騒ぎがあれば、島の開発に着手した弓田も姿を表しただろう」
加藤は、私の仮説が気に食わない様子だ。
常識的に考えれば、弓田が島に残っていたならば事故現場に顔くらい出すもので、多くの島民も生存を知るところだろう。
そこで彼に思い出してほしいのは、誰一人として弓田の人相を知らぬのだから、そこに件の白塗りの特務曹長がいたとしても、それが本人だと確信を持って証言できる者がいるだろうか。
「君は弓田を得体の知れない不死者になぞらえたが、炭鉱の崩落事故をきっかけに島の開発が終焉したならば、事故が不死者の胸に杭を打ったと、島民が考えても得心がいく」
「お前のそれは推理じゃない。こじつけと言うんだ」
そこまで否定されれば、私の考えを加藤に言って聞かせなければならない。
「私は、崩落事故を開発に反対していた誰かの仕業だと疑っています。そうであれば犯行の目的は、弓田と賛同者の抹殺だったと考えれば筋が通る」
加藤は酔いが覚めた顔になり、雲のかかる夜空を見上げた。
私の推理を思案しているようで、名前を呼びかけてもピクリともしない。
仕方無しに席を立ったとき、彼は蚊が鳴くように『だが、あり得ない』と呟いた。
今にして思えば、このとき彼は何を否定したのか。
それを聞き出すべきだったと後悔する。