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巌頭の鵜  作者: 梔虚月
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第一章00 序章

 昭和十六年夏の頃。

 島に上陸した兵隊は当初、広島の第11師管だった。

 これがに描いたような権威ばった兵隊たちで、島民に威を振るうのを躊躇う様子もないゴロツキだったらしい。

 ただでさえ排他的な離島の一過村では兵隊の駐屯を歓迎するはずもなく、排斥の機運は上陸のうちに至極当然にあった。

 東南の高台にある防空監視所を屯所にした分隊は、若い島民を集めて島のあちらこちらを塹壕だと防空壕だと称して穴だらけにした。

 太平洋戦争が激化する以前のことで、本土空襲があるでなし執拗な防空壕の設置が意味するところ、これが泥炭地の掘削土にあるのが瞭然たるものであった。

 これに半ば強制的に駆り出された島民の反感は、日増しに激しくなる。

 島民たちの不満は防空壕が島の石炭を掘り出す口実であれば、たかが兵卒の下士官に顎で使われている現状に高まるばかりだった。

 本土からの兵隊が島の大地を削り、泥炭石を怪し気な商船で運び出して金に替えている。

 軍の命令で穴を掘る若い島民にとっては、土地泥棒の片棒担ぎとの噂が如何に屈辱であったのかは想像に難くない。

 それに兵隊は島民に横暴で、食料やら酒を強奪紛いに持ち去る者がおれば、浜からあがる海女の強姦未遂をやらかす不届き者もいた。

 錦の御旗を掲げた兵隊の行為は、それこそ海賊と見紛うものだっただろう。

 やがて妻子の身を案じた島民が、町頭の目を盗んで島を逃げ出す事態に陥ると、屯所の焼き討ちという暴論を口にする者まで現れた。

 それもこれも規律の乱れを黙認する分隊長に責任があると、謀反を企てる島民は余所者の所業に疑いを払拭出来なくなり、ついに町頭の諌めさえ聞き入れられなくなる。

 それでも件の闇討ちに至らなかったのは、彼らの筆頭に立ったのが町頭の息子だったからだ。

 先頭に立った町頭の息子である野上洋平には、血気盛んな島民の怒りを宥めすかす公算があったやもしれない。

 なぜなら武器を持たぬ無力な島民が決起したところで、兵隊に暴動鎮圧の名目にして返り討ちにされるのが必定だった。

 しかし彼は年の瀬、島に残っていた働き盛りの島民五人と、防空監視所とは別に居を構えた伍長宅に詰め寄ったのである。

 私が話を聞くに、そこが島民の我慢の限界だと思われた。

 島民の怒りは、軍の横暴に閾値を超えたのだ。

「お前らは戦費調達を笠に着ているが、島を切り売って私腹を肥やしているんじゃないのか。だいたい防空監視は、陸軍航空総監部の任務だろう」

 伍長宅での話合いに同席したのが、陸軍技術本部から特命で渡航していた弓田宗介特務曹長だった。

 資源管理を行っている陸軍技術本部は島の掘削土を調査しており、かねてから島民が生計の足しにしていた露天掘りに目をつけていた。

 伍長は島民の不躾な来訪に青筋を立てたものの、その場に現れた上官は張り付いたような笑顔で洋平の話に耳を傾けた。

 そして島の窮状を一通り聞いた後、玄関先にいる島民に問うた。

「露天掘りで土地を失うのは、君らにとっても帝国にとっても大きな損失だ。双方ともに、島で坑内掘りが出来れば越したことはないだろう」

「目的は、やはり島の石炭だったのか」

「そうだ」

 弓田こそが第11師管を焚き付けて掘削土の搬出を唆した張本人と解ったのは、このときだった。

 洋平は後述、弓田が憤る島民たちに坑夫として賃金を支払う現地徴用を申し出る厚顔無恥と、兵長であった伍長を皆の前で叱責することで、島民の怒りを鎮める離れ業をやってのけたと言った。

 また彼の容姿については官帽を目深に被り、笑みを携える唇は女のように薄紅を引いており、男化粧の風体に底知れぬ不敵さが垣間見えたとも言っている。

 白粉を施した顔は男装の麗人というものではなく、ただただ人相を白く塗りつぶした異様なものだった。

「この時勢にあって帝国軍人に意見具申するのは、さぞや勇気のいることだ。君には人望もあるし、物事の本質を見抜く才覚もある」

 弓田の柔らかな口調と物腰の柔らさは人たらしの才に裏打ちされているようで、およそ軍人というよりも扇動家であった。

 彼は平伏す島民を従えた洋平が震えるのを見ると、ゆっくりと近付いて小声で話しかけた。

「そうと知りながら、ここに踏込む豪胆さもある」

 町頭の息子は、島民を拐かした罪で手打ちにされかねない状況である。

 弓田は思案顔で背筋を伸すと、軍刀の柄を指でコツコツ鳴らした。

 横暴の限りを尽くした伍長の上官は顎を撫でながら、土間で畏まる島民を品定めした。

 島民は裸電球を背にした彼の表情を窺い知ることができなかったが、次の瞬間、右に首を傾げた口元は上弦の月のようだったと言う。

 そして瞳は、まるで蛙と対峙した蛇のようであり、何か面白いことを閃いて歓喜する子供のようでもあった。

「炭坑の管理は、師管を引き揚げて君に任せよう。島の管理は、私の所属する広島鎮台の直轄にしようじゃないか。これは、君の勇気に敬意を払った最大限の譲歩だ」

 弓田の口から事情を詳らかにされた島民たちは、住み慣れた土地での徴用を確約されて振り上げた拳が行き場をなくした。

 戦争中のことである。

 目の前に現れた特務曹長の提案は、集まった島民に魅力的なものだった。

 後先にもそれが、弓田が島民と交わした約束の全てだった。

 そして年が明けて数日のうち、伍長が率いた第11師管と弓田特務曹長麾下の小隊が入替り島に駐屯するのだが、これが横暴を働いた分隊と同じ帝国軍人と思えぬほど規律正しい集団であった。

 弓田は約束どおり、島の炭坑開発を町頭の息子である洋平に任せてくれたし、彼と行動を共にした五人の島民は炭坑の働き手に徴用してくれた。

 当然ながら洋平と連れ立った男衆の話を聞いても心を閉ざす島民もいたが、そうした者には赤紙が届いて戦地に送られて、代わりに島外からの坑夫が仕事を引き継いだ。

 不思議なことはない。

 陸軍技術本部から広島鎮台に出向していた特務曹長は、それだけの権力を掌握している得難い人物だったということだ。

 そうして彼に反発する島民が徐々にいなくなり、島は炭坑開発に突き進むよう様変わりした。

 しかし一年近くが過ぎた昭和十七年秋の頃、かの人物が洋平を無電で呼び出すと、事態がきな臭い方向に動き出したらしい。

 その咆哮が、島民ら十三人を巻き込んだ炭坑の崩落事故だった。

 

 ※ ※ ※

 

 これは洋平の妹である御婦人が口伝するところであり、真偽のほどは定かではない。

 だが私は、それでも彼女の語って聞かせる言葉に嘘偽りがないと思った。

 戦争の記憶も遠くなれば、崩落事故を報じた新聞記事の切抜き以上に詳細を知る術がないのである。

 彼女の話は、島民が私の兵隊服を忌避する真相を紐解く鍵なのだ。

「炭坑の崩落事故があり、炭坑開発は不発に終わったんですね」

 私は月夜の晩、障子を隔てた寝所で御婦人の独白に耳を傾けていたが、彼女が一息吐いたので問うてみた。

 障子に映る女は、月明かりに照らされて影絵のように佇んでいる。

「そうです」

 御婦人は縁台に凛と座していたが、唇に人差し指を押し当てる仕草に言葉を失う。

 彼女の言葉に嘘はないが、知らないことも当然ある。

 肉親からの口伝であれば、目が曇って見えない真実も当然あるだろう。

「この島は地盤の弱さから、坑内掘りに不適格の『丙種に指定された』と、兄が弓田から連絡を受けた後です」

 息を呑んだ私は長く沈黙した後、いよいよ事件の確信に迫る決意を固めた。

 弓田が島で偽計をめぐらしており、事故に見せかけて島民や部下を生き埋めにしているのならば、島を離れていた特務曹長に代わり口封じを実行した者がいる。

 私は彼の腹心が実行したと考えていたが、それではまるで彼女の兄こそが弓田の腹心なのだ。

「島民は地盤の弱さを知りながら、穴を掘っていたことになる。もしも被害者が事実を知らなかったのならば、炭坑開発の責任者だったお兄さんが意図的に仕組んだ可能性が否定できません」

 御婦人は障子に手をかけて少しだけ開くと、顔を半分だけ覗かせて私の様子を窺っている。

 どうして彼女は、私に兄の嫌疑を打ち明けている。

 私は、どんな顔をすれば良いのかわからなかった。

「崩落事故の報告のために広島鎮台に赴いた兄は、九州に疎開していた私にもそれと告げると、その足で弓田の推薦状をもらい帝都の兵学校に通うとのことでした」

「お兄さんは、自ら兵役を志願したのですか」

「兄の兵役は、責任の追求から身を隠す手段だったと思います」

 炭坑崩落が洋平の手引で、彼の南方戦線への出征に弓田が一枚噛んでいたならば合点がいく。

 事故ではなく故意の殺人ならば、実行犯を島に留めておけなかったということだろう。

 しかし話を聞いても、弓田が炭坑もろとも島民を葬った理由がわからなかった。

 そこまでして隠蔽したい秘密とは、いったい何だったのか。

「私たちには窺い知れない訳合いがあったとしても、話を聞くに、お兄さんが弓田に心酔していたとは思えません。もしかすると、彼は脅されていたと考えられませんか」

「あなたは、ご存知なんでしょう」

 私は、彼女の踵を返した一言で理解した。

「なるほど、私の仕業だとお疑いなのですね」

 自ら背負った業の深さを悟った。

 なぜなら私は、化粧を落とした弓田宗介なのである。

 

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