静かな青春
黄色い葉が一枚、男の足元に落ちた。それは偶然に違いないのだろうけれど、早く立ち去れと誰かに言われているように男は感じてしまった。自分がそう感じたことにサエグサは俯きがちの顔をあげずにはっとした。後ろ向きになっていることを自覚させられたサエグサは、普段めったに笑わない口元を緩めて、少し空を仰ぎながらゆっくりと歩き出した。
5分前。
約束の時間は30分過ぎていた。サエグサは、駅前の街路樹の前で冷たい風に打たれながら一人の女性を待っていた。最後の一本だった煙草も短くなり、手持ち無沙汰になったところで時計を確認したところ、随分時間が経過していた。
30分。
これまでの女性との関わりあい、今後。行き交う人を視界に入れ煙草を片手に考え事をしていたサエグサにとってあっという間の時間だった。しかし、その思案も徒労に終わりそうだ。
約束の時間を30分過ぎたことの意味をわからないほどサエグサは愚かではないし、受け入れられないと嘆くほど若くもなかった。
それでも、まだ期待している自分を無碍に出来なくて、煙草もないのにサエグサはその場に留まった。
3年前。
サエグサは大学院生であった。研究室に泊まることも珍しくないほど、多くの時間を大学で過ごしていた。大学近くの喫茶店がサエグサ気に入りの店になるのは必然であったのならば、そこに努める女性にサエグサが好意を抱くのも必然といえるかもしれない。
ただし、その女性が既婚者であったのが必然だったのかどうかはわからない。その店に勤める女性はシラカワキョウコといった。女性にしては少し背の高い、明るさが押し付けがましくない品のある女性だった。サエグサが一目ぼれしたシラカワの左手の薬指には少しくすんだ指輪がはめられていた。
半年前。
サエグサは既に企業に就職していたがひと月に一度は、未だにシラカワが努める喫茶店に足を運んでいた。シラカワは結婚している、自分の好意が受け入れられることはない、そうわかっていても他に惹かれる人が出来るまではと言い聞かせ、サエグサは馴染み客を続けていた。口下手なサエグサにとって、自分の好意を隠すのはそう難しいことではなかった。事実、この店に2年間通っていてもサエグサがシラカワと交わした会話は、店員と客とに発生する会話以外には、数えるほどしかなかった。
ある時、カウンターに座る常連の年配女性とシラカワの会話が耳に入ってきた。その内容にサエグサは思わず手を止めた。
よかったよ、ここまで元気になって。本当に心配したのよ。イサミさんがナクナッテから何もなかったようにこの店続けるから。え?大丈夫じゃないわよ。本当にね。イサミさんも幸せね、貴女がお店守ってくれてるから。そう、苗字はそのままでいるの。そうね、キョウコさんもその方がいいものね。
ナクナッタというのは、亡くなったということか。サエグサは持っていたティーカップをテーブルに置いたあともしばらく動けなかった。
1日前。
シラカワを見れば恋しい気持ちとともに彼女の夫の姿を一緒に見てしまい、自制のためにほとんど余計な会話を謹んでいたサエグサだが、半年前に彼女の夫が故人であることを知ってからどうしても話しかける回数が増えていた。そして、彼女のことを随分知ってしまっていた。
好きな色は黄色、海より山が好き、勉強は苦手でスポーツの方が好きだがマラソンは苦手、料理は得意だがお菓子はよく失敗する、テレビは見ないがラジオは聞く、眠る前は音楽を聞く。毎月墓参りに行く。そして、墓前でたっぷりと会話をする。
そして同様にシラカワもサエグサのことを知った。
好きな色は黒、休日はもっぱら研究、持久力はある、1日1回はカップ麺を食べる、テレビもラジオも新聞も見ない、音楽はクラシック、特にバッハが好き。コーヒーが好きだが熱いコーヒーは飲めない。
サエグサは、自分の気持ちをシラカワにぶつけるべきか、シラカワの夫が既に亡くなっている事実を知ってからずっと悩んでいた。3年間彼女を見続けたサエグサには十二分に彼女の気持ちがわかっていた。シラカワは今でも亡き夫の帰りを待っており、もう自身のもとに帰ってくることはない夫を想い今も泣いている。
悩みながらも馴染み客を続けていたが、サエグサはいよいよ馴染み客でいることを終わらせる気になった。勤務先の研究所が移転することになり、転勤することになったためだ。転勤すれば、シラカワのいる喫茶店にはもう通えない。
これが最後になるかもしれないと思いながら、サエグサはシラカワに声をかけた。
サエグサとシラカワ以外、店には誰もいない。サエグサが自分の想いを告げたとき、シラカワはいつもの笑顔を崩さなかった。
「2人の未来に少しでもチャンスがあるなら明日の21時に駅前に来て欲しい。シラカワさんの旦那さんへの想いも丸ごと託して欲しい。託してくれるなら。」
夫の事がサエグサの口から出ると、シラカワは表情を僅かに崩し、その場で固まった。
困らせるつもりはないから、でも本気なので。
サエグサはシラカワの肩に右手をやり、その肩を引き寄せることなく「宜しくお願いします、ごちそう様でした」と告げて店を出た。
シラカワは崩した笑顔のまま、瞳を揺らしていたが、その瞳がうつしているものが自分ではないことをサエグサは十二分に承知していた。
2年後。
サエグサは休暇を利用して帰省していた。母校の教授に頼まれ、帰省している間に後輩の就職活動の肥やしになる話をするために研究室へ行き、慣れない質疑応答をこなした後、どうしても気になってしまいかつて通っていた喫茶店に足が向いてしまった。既に終わったことだし、最初こそ引き摺ったが最近はそう思い出すこともなかったが、いざ近くにくるとどうしても気になってしまう。店に入るつもりはない、何を言うでもない、それでも足が向いてしまう。その衝動にサエグサは素直に従った。
進むにつれ、意識していても運ぶ足が速まってしまうこともサエグサは気にしなかった。ただ、もし許されるなら、最後にひと目だけ彼女を見たい。そのことだけが頭を支配していた。
傍目からみてもわかるほどの早歩きでたどり着いたかつての常連店。
そこにあったはずの店は無くなっていた。更地になっている。きれいにまっさらだ。
サエグサの視界には、どうしてか、最後に見た、彼女の張り付いた笑顔が思い出された。
彼女の面影だけが残ると思われた更地の真ん中に黒い巾着袋があることに気づいたサエグサは、ひと目も憚らず更地に足を踏み入れる。
巾着袋を手にとったサエグサはその薄く角ばった感触で中身を少し期待する。
袋から中身を出したサエグサは期待通りの中身に、いつかと同じように口を緩めた。