第四話 Iris de Navarre
士官候補生とはいえ中身はまだ若い男女、噂が何よりも好物である。
ヴィクトールとアルマンが女生徒を助ける為に上級生相手に大立ち回りを演じたという話題は士官学校を、とりわけ一年生の間を瞬く間に駆け巡り、放課後の校舎の清掃という名の一週間の罰ゲームを終える頃にはすっかり二人は有名人となっていた。
話を広めたのはアルマンとヴィクトールが助けたあの小柄な可愛らしい少女、エミリエンヌである。感謝の気持ちを示すためにと称してエミリエンヌが精力的に噂を話して回ったのだ。
だが彼女は実際に起きた事件に尾びれどころか背びれ胸びれ、おまけに腹びれまでつけて面白おかしく拡大して話した為、一週間後にはヴィトールとアルマンが立ち向かった上級生の数は五十人にまで膨れ上がるというとんでもないことになっていた。
二対五十である。そこまで数の差があるにもかかわらずに向かって行くというのは人として勇敢であることを通り過ぎて、単なる頭のねじが緩んだ戦闘狂にしか思えない。
おかげで有名になると同時にクラスの中でさえ少しばかり皆と距離を置かれて、どこか浮いた存在になっている。
とはいえヴィクトールはその噂をいちいち訂正する必要を認めなかった。
これから学生生活を送る上で虚名であっても一目置かれることは悪いことではなかったし、何よりもエミリエンヌは根がお喋り好きなだけでなく、元来が社交的で顔が広く、いったい何人の人間に噂を広め、そしてその噂を聞いた人間がさらにどのくらいにまで噂を広めたかは誰にも分からないくらいだったのだ。そんな状態ではとても訂正して回る気にならなくても仕方がないであろう。
「やっぱり・・・避けられてるよなぁ俺たち」
日に日にクラスメートとの会話が減っていることに思いを廻らしながら、ヴィクトールはため息混じりにそう呟いた。
こちらから話題を振ってもなかなか会話に付き合ってくれない。直ぐに会話は途切れてしまう。中には同級生なのに敬語を使ってくるやつまでいる。
「そうかな? 気のせいじゃないかな?」
気に病むヴィクトールとは正反対に元来、一人で読書をすることを好むタイプの人間であるアルマンはこの状態を却って好都合とばかりに意に介さない。
しかもこの原因を作った張本人であるエミリエンヌに至っては、「えへへへへへへ、気のせいだよぉ。でもそうなら、このまま二人を独り占めできるから、それならそれでかまわないしぃ!」などとヴィクトールの机に行儀悪くお尻を載せて暢気に足をばたつかせながら言う有様だった。
こうなれば時間が解決するのを待つしかないかとヴィクトールは心の中で小さくため息を付いた。
人の噂も七十五日と言う。どんな噂もいずれは下火となって消えてしまう。
特に毎日が刺激に満ちた学園生活を送る、飽きっぽい若者である学生たちだ。そのうち何か皆の気を惹く新しい話題が出てくることだろう。時間はそれほど必要ないに違いない。こちらが普通に接すればそのうち元の扱いに戻るだろう。
などと自分に都合のいい言い訳を並べてヴィクトールは己を慰めるしかなかった。
だがそんなヴィクトールの慎ましくも真摯な願望は三日と持たずに崩壊することとなる。
それは一人の女生徒がヴィクトールらのクラスの教室の入り口に立ったことから始まった。
「ここがその噂の二人がいるというクラスね」
少女は上級生五十人を二人で倒したというヴィクトールらの噂を聞いて顔を見にやってきたのだった。
少女は両足を肩幅に広げて腰に両手を当てて教室の出入り口を塞ぐ格好で仁王立ちする。
おかげで通行を阻害されることとなった生徒たちから迷惑げな視線が突き刺さるが、少女は一向に意に介する気配を見せなかった。
腰まで伸びた栗色の長い髪、スカートから覗く肉付きの良い脚線美が印象的だ。両目に宿る強い光が少女の若さと勝気さとを同時に表していた。
少女は大股で教室に入ると威圧するかのようにぐるりと周囲を見回し、ひとりひとり顔を確認する。
だが噂を耳にしただけで本人と直接面識がない彼女にはヴィクトールとアルマンが教室内のどの人物であるか看破する手段はなかった。
「・・・見たら分かると思ったんだけど」
上級生相手に喧嘩を売り、勝利するような男たちだ。ヴィクトールたちの姿を喧嘩に場馴れした常に殺気を身にまとっている尖った男たちであろうと予想していた。そして彼女はそう言った男たちが持つ特有の臭いと言うか存在感といったようなものを見抜く眼力をこれまでの生活で会得していると自負していた。
だが教室の中に並んだ顔はどいつもこいつも平和ボケした甘ちゃんな顔ばかりである。
そんなはずはないと彼女は入り口傍の女生徒に声をかけて捉まえた。
「ちょっと尋ねるけど、いい?」
「いいよ、何?」
「上級生と戦ったヴィクトールとアルマンとか言う男子生徒はどこ? もしかして教室に今はいないとか?」
自身の人を見る目が確かであって欲しいという願望込みで少女は女生徒にヴィクトールらの居所が他ではないのかと尋ねたが、その考えは女生徒によってあっけなく否定されてしまう。
「こ、声が大きいってば。絡まれたらどうするのよ。ほら・・・あそこ、窓際にピンクの髪の女の子といる二人組がそうよ」
怯えながら遠慮がちに出された指の先を視線で辿ると、そこには女生徒の言葉通りに皆と少し距離を取るような形で一角を占める三人の姿があった。短めのスカートであることも気にせずに机を椅子代わりにして座るピンク色のツインテールをした小柄な少女がまず目に入る。次いで彼女を挟むような形で前後に座っている、正確には前後に座っていた二人の真ん中にエミリエンヌが割り入ったというべきなのだが、ともかくもそういう形の二人の男子生徒を見出した。一人は明るい茶髪を持った長身の一般人にしては恰幅の良い男だ。もっとも士官学校に内部においては標準的な体格でもある。もう一人などは洒落たメガネをかけた黒髪の、細身で華奢な男子生徒だった。
少女の思い描いていた一騎当千の勇者の姿とはとても似ても似つかぬ姿ではあったが、なるほど言われてみれば、どことなく特別な雰囲気がある二人である。
少女はにんまりと大きく笑みを作ると大きく歩幅を広げて二人の下へと歩み寄った。
たわいない会話で時間を潰していたヴィクトールら三人も、向こうから積極的に近づいてくる人影を久々に認め、興味を抱いた。
少女は教室の出入り口に立った時と同じように肩幅に足を広げて腰に両手をあて、やや尊大な表情をして三人の前に立つと口を開いた。
「私は砲兵科のラウラ。知ってる?」
自分の名を告げると昂然と胸を張る少女だったが、あいにくとヴィクトールもアルマンもその少女の顔に見覚えはなかった。
「いや・・・他のクラスの女子まではさすがに知らないな。アルマン、お前知ってるか?」
「ヴィクトールが知らないものを僕が知っているわけがないだろう?」
エミリエンヌほどではないがヴィクトールも社交的なほうだ。こういう噂が広がってしまって全てがパーになってしまったが、入学以来、クラスの女子にも如才なく話しかけ結構な数とそれなりに親しくなっていた。それを当てこすって言ったのである。
「なんだか棘のある言い方だな」
「そうか? 君の気のせいじゃないかな? 何か君に身に覚えがあるのならば、そうじゃないかもしれないけどね」
「お前なぁ・・・それが窮地を救ってやった恩人に対する言葉か!?」
ヴィクトールが不満を口にしてアルマンに抗議するが、それよりももっと不満を露にした人物がその場に現れた。ラウラと名乗った先程の少女である。
「いいかげんにして! 私を無視しないで!!」
少女は誇り高かった。自身が無視されるような形で会話が行われることに我慢がならなかったのだ。
「あ、ごめんごめん。・・・でも、やっぱり思い出せないな。どこかで会ったことあったかな?」
目鼻立ちの整った美人である。一度会ったことがあるのならば、男ならばめったなことでは忘れないとまで思わせるだけの美貌の持ち主であるのだが、ヴィクトールは記憶をひっくり返しても、彼女に関するものを一片たりとも思い出せなかった。
どうにも少女の正体が分からずに疑問符を胸に浮かべてきょとんとするヴィクトールに少女が次げた次の一言はとんでもない一言だった。
「ないわ。今日が正真正銘の初対面よ」
「・・・じゃあ分かるわけがない」
自分のことを知っているかなどと訊ねる人物が実は初対面であるなどといったい誰が想像できるだろうか。少女の頭がおかしいのではないかと疑いたくなるレベルの話である。
アルマンもエミリエンヌも思いは同じだったらしく、『うわっ・・・』とでも言いたげな表情を浮かべて少女を見つめていた。
「ならばナヴァールのラウラと言ったら分かるかしら?」
ラウラがそう言うとヴィクトールもアルマンも押し黙った。それだけで二人にも意味は通じた。
「顔は知りませんでしたが、名前だけは存じております」
ヴィクトールは言葉遣いを改め、そう返答した。
「当然ね」
ラウラはようやく自分の期待していたような反応が二人から返って来たことに満足げな表情を浮かべ頷いた。
ナヴァールのラウラという名前を聞いただけで一年生なら誰でも、いや士官学校内なら誰でもがその正体を知っていたし、フランシア国内でも知識階級にある者ならばほとんどの者がその存在を知っていたのである。
王立陸軍士官学校の門戸が平民に解放された初年度と言うことで今年の一年生は注目されたが、それ以外にも貴族社会の耳目を集める要因が今年は存在した。その名を聞いただけで誰もが唸るような大物の子女が三人入学したからである。
父を有力貴族の当主として持つその三人は揃って女子であり、またその美貌と才知とが共に卓越しているという点でも一致していた。その年の士官学校の一年生の袖の色が青紫であったこともあって、アイリスの三公女という渾名まで既に付くほど有名になっていた。
ラウラ・ルイーズ・ド・ナヴァールはそのアイリスの三公女の一人である。
「でも驚いた・・・五十人もの上級生を叩きのめしたと聞いていたから、怪力無双の大男かと期待して来たのに、意外と二人とも線が細いわね。私は男らしい逞しい男が好きなんだけど、まぁ・・・こういうタイプも一人二人いるのも悪くないわね」
褒めているんだか褒められていないのか判断に困るセリフを言われ、二人とも苦笑いを浮かべるしかなかった。
「お褒めに預かった・・・と考えてよろしいので?」
「当然! ナヴァール家は王国の盾として辺境地域を三百年守り通してきた部門の家よ。辺境地域ではね、金や爵位や小賢しい知識なんてものは何の役にも立たないの。明確な殺意を持った凶悪な敵を倒す勇気と力だけが全て。だから私は強い男が好きよ!」
「はぁ・・・それはどうも」
「気に入ったわ。あなたたちに私の騎士になる栄誉を授けてあげる。特別よ」
そう言うと白い手袋をはめた右手をすっと二人の前に差し出した。忠誠の証にキスをしろということらしい。
騎士と言うがなんていうことはない、取り巻きになれということである。アクセサリー気分で有名人を取り巻きにして練り歩き、周囲に見せびらかせたいという、いかにも貴族の子弟っぽい考えだった。一種の見得の様なものであろう。恋人でも友達でもなくて取り巻きというのが、いかにも大貴族の令嬢らしいものの考え方である。
こちらの気持ちなど一切お構い無しの一方通行な気持ちの押し付けだったがヴィクトールは不思議と悪感情は抱かなかった。ただ自分と同じ貴族といっても、大貴族ともなると色々と考えが違うものだ、と面白く思っただけだ。
だがそれまで黙っていたエミリエンヌが口を開いた。
「残念でした! ヴィっくんとアーちんは既にエミリのものだから!」
エミリエンヌは彼女の幸せな時間をぶち壊した突然の闖入者に、真っ赤な頬を鬼灯のように膨らまして抗議の視線を飛ばしていた。
「いや、別にお前のものでもないし」
ヴィクトールは冷静に突っ込みを入れる。
「え~ そんなぁ! エミリのピンチを助けてくれたじゃん! 危ないことをしてまで助けようとしたのは、なぁぜ? それはね! こんなにも可愛いエミリに一目惚れしたからに決まってるよ! ほらほら~意地を張らずに素直になっちゃいなさい♪」
エミリエンヌはきゃっと叫んで頬に両掌を当てて照れて見せると、ヴィクトールの額を指先で突ついた。
「別にエミリエンヌを助けようと思ったわけじゃないんだけどなぁ」
あれは上級生たちの傲慢不遜な思考が許せなかったからというのが第一の理由だ。あえて言えばアルマンを助けようとしたくらいは言い張れないこともない。
だがアルマンはともかくヴィクトールは上級生たちに喧嘩を売った時、エミリエンヌの顔どころか影さえも見ていなかったのだ。その理屈は通らない。
「照れなくてもいいのに!」
そう言うとエミリエンヌはラウラに見せ付けるようにわざと大げさにヴィクトールの首にしがみき顔にキスしようとする。
「く、首がッ・・・絞まる!」
女の子にキスされるのは大歓迎なのだが、命が関わる状態と言うならば話は別だ。ヴィクトールはエミリエンヌを大慌てで身体から引き剥がす。
「なる。すでに先約があったのね」
ラウラは残念さを隠すことなく声に滲ませ、そう言った。
「そういうこと! だから諦めてあっち行って!!」
エミリエンヌはラウラに向けて舌を出すと、しっしっと手で犬を追い払うような仕草をする。
だがその程度でラウラがあっさりと引き下がるということはなかった。
「人のものと聞くとさらに欲しくなるわね」
「性格悪いなぁ・・・」
そのエミリエンヌの口から出た言葉と一言半句たりとも違わない言葉を胸中に思い描いていたヴィクトールとアルマンだったが、さすがに大貴族のご令嬢である本人を目の前にして口に出す勇気はなかった。
だからそれがエミリエンヌの恐れを知らぬ豪胆さを示すものなのか、それとも遠慮を知らぬ馬鹿さ加減を示すものなのかどちらなのかは分からなかったが、とにかくその常人離れした感覚は十分に感嘆すべき事柄であるようヴィクトールには思われた。
「で、おちびちゃん。あなたはどこの家の出身なのかしら? 伯爵? 男爵?」
「うっ・・・貴族じゃないし平民だケド」
エミリエンヌの言葉にラウラは勝ち誇った表情を浮かべた。
「そう、それは残念ね。そこへ行くと私は違うわ! 私は三百年の歴史を誇るナヴァール辺境伯家の生まれ、しかも兄弟は妹二人しかいない。つまり私ともし結婚すれば名誉と伝統あるナヴァール辺境伯家を手に入れることができるのよ! 結構なことだと思わない? もちろん私に相応しいだけの人物と私が認めればの話だけど。そうでなくても私のような気高き魂に仕えることが出来るだけでも光栄なこととは思わない!?」
己の言葉に酔いしれたのか陶酔しきった表情で歌い上げるように語ったラウラにヴィクトールとアルマンが首を傾げながら突き返した返事は冷淡なものだった。
「いや別に」