第十話 メグレー将軍
ラウラにそう言われることで頭の中では大いに納得した生徒たちではあったが、やはり年若い彼らには理性では分かっていても感情はコントロールしきれないものである。
モゼル・ル・デュック城に辿り付いてようやく、生徒たちは産まれて始めて戦場に出たという緊張感から解き放たれた。
五十年戦争で攻城戦におけるその実用性が大いに認められた大砲の砲撃に耐えうるように再設計され増強された分厚い城壁の、その確かな存在感が彼らに安全感をもたらしていたのだ。
もちろんヴィクトールとてその例外ではない。多少腕に覚えのあるヴィクトールは二、三人程度であるならば喧嘩で引けを取らないだけの自信はあるが、数百数千の人間がぶつかり、どこから玉が飛んでくるか分からない戦場であってはどう対処したらいいのかまったくといっていいほど思いつかず、生き残ることさえ自信が無い。
地面に下ろした背嚢にもたれる形で腰を落とす。周囲は同じようにして地面に座り込んだ生徒たちですぐに埋め尽くされた。
振り仰がないと空が見つからないほど高く詰まれた分厚い石積みの城壁にぐるりと周囲を取り囲まれるというのは息苦しいまでの圧迫感を感じるものだが、今だけはその負の感情を覆い隠すほどに安心感と言う名の正の感情が生徒たちの心に広がっていた。
生徒たちは仲の良いもの同士が集まっては生気を取り戻した顔を見合わせては会話に花を咲かせ、あちらこちらで笑い声を立てていた。
するとこの騒ぎを聞きつけたわけでもなかろうが、暫くの間、席を外していた教官たちが戻ってくるなり生徒たちを叱責する。
「まだ自由行動は許しておらんぞ! 隊列を崩すな! 再度、整列!!!」
教官たちは手当たり次第に生徒たちの襟首を掴まえどやしつけ、整列させようとやっきになった。その有様を教官たちの後ろにいる見慣れぬ顔をした数人の軍人が苦々しい顔で眺めている。
服装から察するにラインラント駐留軍の上級士官といったところであろうかとヴィクトールは思った。
教官たちが生徒たちを並べ終わるのを待って、その一団はもったいぶった歩き方で生徒たちの正面へと歩みを進める。
「ラインラント方面軍指揮官、メグレー軍団長に敬礼!!」
教官のその声に生徒たちは慌てて銃を垂直に立て、捧銃の敬礼を一斉に行った。
軍団長といえばラインラントに展開する三万もの軍を統率する最高司令官。軍組織の大物であるし、メグレー将軍といえば五十年戦争にてラインラントにおけるフランシアの勝利に貢献し、数々の武勲を立てたことで知られている。士官学校に入ったばかりのヒヨコ以下の彼らであってもその存在を知る数少ない軍人の一人であり、敬意を払うに十分たる存在であった。
「モゼル・ル・デュック城を預かるメグレーだ」
緊張の面持ちで直立不動の姿勢をとる生徒たちの様子を見て満足そうに頷くと、勲章をぶら下げた軍服に身を包んだ、立派な髭を鼻下に蓄えた、いかにも最前線を預かる軍人に相応しい面構えのその初老の男は威圧するような重々しい声を発した。
「諸君のうちの幾人かはこのラインラントに配属されることになるだろうし、そうでなくても昨今の微妙な国際情勢を考えれば、いつまた大規模な戦争が起きないとも限らない。そうなればいずれ軍人となる諸君らは国家の為に否応無く最前線に立って戦わねばならん。後学の為に前線の雰囲気を知ることは無駄ではない。単なる学校行事の一つだと物見遊山気分で過ごしてもらっては困る。士官学校における先達である士官たちの行動をつぶさに観察し、その口から漏れる言葉を一言半句たりとも聞き流さないことはもちろん、ひとりひとりの兵士に対しても同様に相対してもらいたい。いずれは諸君らの部下になる兵たちではあるが、その存在を決して軽んじてはならない。今は諸君らの遥かに及ばぬ経験と知識を身につけた軍隊の先輩にあたるのだから。彼らの行動をしっかりとよく見、彼らの話を聞くことで将来に役立つ何かを体得して帰ってもらいたい。以上だ」
先程までの緩んだ態度は何処へやら、軍人として毅然たる態度を見せる生徒たちを見て満足そうにメグレーは頷くと演説を打ち切った。
もっとも生徒たちが軍人として半人前の姿をメグレーの前で晒すのも、その態度がメグレーの演説で引き締まるのも例年のことであったから、それはどちらかというと、この何時戦闘が始まるとも限らない最前線に士官学校の一回生という半人前の軍人かつ貴族の子弟というあらゆる意味で足手纏いである存在を受け入れるという何かと気苦労の多いイベントの中でメグレーを気晴らしさせるという接待に近いイベントとなっていた。
そんなメグレーの内心を知ってか知らずか教官は天守に退くメグレーを追いかけて言葉をかけた。
「今年もご迷惑をかけます」
教官は深々と腰を折ってメグレーに頭を下げた。
メグレー将軍はヴィクトールらを引率してきたこの教官の士官学校の先輩に当たる。
とはいえ士官学校時代に二人の間に面識があったわけではなく、毎年研修に生徒を連れて訪れる士官学校の教官と、ラインラントを守護するモゼル・ル・デュック城の総責任者という間柄になってから知り合ったというのが本当のところだ。
であるから先輩に対する型通りの挨拶と言うよりは上役におもねるといった意味合いが強かった。
もっともメグレーは高名な将軍ではあり、ラインラントという超重要方面の総司令官と言う立場ではあるが、やはりこの年になっても最前線に回されていることから憶測できるように、出世街道から外れた存在であり、軍本部からしてみれば所詮は使い勝手のいい駒の一つに過ぎない。軍と言う組織の中で権力の傍にいるというわけではなかった。
それでも士官学校の教官よりは遥かに上の立場ではあるし、労多くして得るものが少なく、士官と同様に成り手のいないラインラント方面の司令官にそう簡単に辞められては困る軍本部としてはそれなりにその意向を尊重しなくてはならないから、媚を売っておいて損な相手では決して無いと教官は判断していたのだ。
「年次訓練だからな、仕方が無い。それに早く卒業生を回してもらわないと困るのはこちらなのだ。それを考えると拒否するわけにはいかんよ」
「相変らずの士官不足ですか」
「良質の士官が不足していて困っているのだ。大きな動きはないとはいえ、互いが共にラインラントの領有を主張している以上、年に二度三度と偶発的な衝突が起きることは避けられない。小さな戦でも犠牲者は出る。それが積み重なれば戦死者も馬鹿にならない数になる。兵の補充は簡単にきくが、士官はそうはいかん。他の部隊から有能な指揮官を回してもらおうとしても体よく断られるのが落ちだ。最前線の士官ということでなかなか希望者も現れん。だからこの際、半人前でもいいからまずは数が欲しいというのがこちらの本音でな」
教官はそのメグレーの愚痴の中に聞き逃せない情報を見つけ問い返した。
「ということはここ最近でも小さな衝突はあったということで・・・?」
いくら平民に門戸を開いたとはいえ、士官学校の生徒は今だ貴族階級が過半を占める。しかも引率してきた生徒たちの中には大貴族の子弟もいるのだ。その身に傷一つつくだけで下手をすれば教官と言う職が首になるだけでなく、現実の自分の首が飛ぶ危険性だって無いわけではない。
自身の責任問題に繋がるのを恐れた教官は実態を窺うようにメグレーに訊ねた。
その内心を見透かしたようにメグレーは少し皮肉げな笑いを口の端に浮かべ返答した。
「ここ数ヶ月ブルグントの連中は大人しい。前線でも動きは見られない。大事になるまいよ」
メグレーのその言葉に共感は心から安堵の表情を浮かべた。
「それを聞いて安心しました。では、また後ほど」
再度、頭を下げて退こうとする教官の後頭部にメグレーは今一度、念を押した。
「ああ、生徒どもが羽目を外して余計な騒ぎを起こさぬようにしっかりと手綱を握っておいてくれよ」
「重々と承知しております」
その時、その教官の脳裏にヴィクトールの顔が一瞬ちらりと浮かび、また何かしでかすのではないかと思ったとしても仕方がないことであろう。教師の立場からしてみれば、ヴィクトールは入学早々二件も学内を騒がせるような大事件を引き起こすという士官学校始まって以来、一、二を争う問題児なのだから。
もっとも当の本人であるヴィクトールにしてみれば自ら望んで引き起こしたことではなく、巻き込まれただけであるから大層不本意なことであったろうが。
何を不吉なことをと眉を顰めて頭を振ってその想像を頭から追い出そうとする教官を不思議そうに見ながらメグレーはぽつりと一言呟いた。
「確かにここ数ヶ月、ブルグントはまったく動きを見せていない。静かなものだ」
メグレーが赴任してからこんな平和な時間は記憶に無いほど毎日が極めて平凡に過ぎ去っており、退屈なほどだった。
「・・・・・・気味が悪いほどにな」
だが長年の戦場暮らしを続けてきたメグレーは知っている。嵐の前こそがいつも決まって何よりも平穏であることを。
教官の不安を余所に生徒たちは大きな事件を起こすことなく、大過なく翌日を迎えた。もっとも小さなハプニングが無いことは無かった。女子のテントに忍び込もうとした不埒者が幾人かいたのである。
だがその行為は男子生徒たちにとっては士官学校行事の中で行う初めての冒険であっても、彼らを引率する教官にとっては毎年の恒例行事に過ぎない。たちまちのうちに見つかってしまい、彼らは見せしめに罰として背嚢と銃を担いで幾時間も歩哨の如く立ち尽くさねばならなかった。
重装備のまま不動のまま立つと言うのは歩くよりも実は疲れるものである。それだけでなく彼らはろくに睡眠時間も与えられなかったためにまさに疲労困憊、ヘロヘロな状態で朝を迎えねばならなかった。
その有様を見てヴィクトールは彼らに大いに同情すると同時に安堵もした。
「いやいや、仲間に誘われたが断っておいて実に正解だった」
ヴィクトールには危険を冒してでも忍び込みたいほどの、特にお目当ての女生徒がいるわけではなかったが、士官学校と言う閉鎖空間から外へ出たという開放感から浮かれていたところがあり、女子のところに忍び込むというその冒険心をくすぐる提案には少しばかり心が動いただけに、単に疲れていてとても女性を口説いて一戦交えるほどの体力がないと言う理由からであっても、断るという判断を下した自分を褒めてやりたいほどであった。
なにしろ彼ら生徒には今日もモゼル・ル・デュック城内を見学したり、前線へ物資を輸送する部隊に同行するなど予定がびっちりと組まれているのだから。
もっともアルマンに言わせると、「士官学校内で女生徒に妊娠出産などされようものなら教官たちの進退問題にまで発展しかねない重大事件だ。教官たちだって無能じゃない。対策を十分に考えているだろう。やるだけ無駄さ」ということになるのであるが。
入学早々上級生相手に大立ち回りを演じ、三公女の一人であるラウラとの決闘騒ぎを起こしたヴィクトールはクラスの中で完全に浮いた存在になっていたのだが、少しずつ会話を重ね、日々の行動を見てもらうことでどうやらヴィクトールは皆が考えているような危険で野蛮な暴力的な人物ではなく、他の生徒と変わらない、ごくごくありふれた存在であると認識してもらうことに成功し、ようやくクラスの中でも打ち解けてきたところである。
そんなクラスの中でも親しい一部の生徒にラウラたち砲兵科のこれまた一部の生徒たちと混成班を編成してヴィクトールたちは前線へ弾薬を補給する部隊に同行することとなった。
もちろん最前線へ直接出るといったわけでなく、そこから一歩引いた物資集積基地兼指令所に届けるのである。
しかも普段なら行わないことだが、輸送隊が進発する一時間前に先行部隊をわざわざ派兵して行程の安全を確保してから行うといった念の入れようであった。
といっても緊張感を無くされても困るので、その裏事情は生徒たちには伝えられてはいない。
砲兵科と合同となったということでヴィクトールたちの班が運搬する荷物の中には軍事物資の中でもとりわけ重い砲弾が加わることとなり、歩兵科の生徒諸氏からは大いに不満の声が聞かれることとなった。
重い砲弾はさすがに馬車に乗せて運ぶものの、そのせいで馬車に積めなくなった銃弾や食料などが生徒たちの荷物に更に加わることになったからだ。
それに坂道やぬかるみ、車軸や車輪の故障など不意のアクシデントが起これば砲弾をも人力で運ばねばならないのだ。不満が出るなと言うのがおかしい。
例のラウラの横紙破りでこうなっただけに、ヴィクトールとしては若干の肩身の狭さを感じざるを得なかった。
ノルベールという名の、数年前士官学校を卒業したばかりの年若い士官に連れられヴィクトールらはモゼル・ル・デュック城を後にし、前線へと向けて進発した。




