客先での作業
第十章 客先での作業
私は栃木県のミマツ産業の工場に来ていた。
今日からしばらくの間、ここでの作業となる。2ヶ月くらいはこちらに滞在することになるだろう。週末には自宅に帰って月曜日にまたこちらに来るという生活だ。
ミマツ産業は私に専用のデスクを用意してくれていた。私はデスクにあるパソコンで、例の前段の回路の仕様書の修正作業に取り掛かることにした。まあ、この作業は検証作業の時にほぼ終わっているようなものなので、清書するという感じの楽なものだった。
私が作業を始めてしばらくすると遠藤統括部長が、私のデスクまで来た。
「秋村さん、ご苦労様です。わざわざこちらまで来ていただいてすみませんね。どうかよろしくお願いします。前にも言いましたが、うちの奥平をどんどん使っていただいて構いませんからね。あいつを指導するつもりで、鍛えてやって下さい。」
遠藤統括部長は笑顔で言った。
「こちらこそよろしくお願いいたします。奥平さんは優秀ですから、私が指導することなんてありませんよ。」
「いえいえ、秋村さんくらいキャリアのあるエンジニアの方から見れば奥平は、まだまだでしょう。彼は真面目なんですけど、何というかエンジニアの勘どころというか、そういうものがまだ足りないんですよね。秋村さんなら分かってくれまよね?」
確かにエンジニアというのは、技術力や知識が大切なのだが、遠藤統括部長の言う勘どころというか、いわゆる経験からくる勘のようなものが、実は大切なのだ。
遠藤統括部長も長年エンジニアとして活躍された人なので、同じような感覚を持ち合わせていらっしゃるようだ。
私は嬉しくなった。自社では、こんな上司はいないし、こんなふうに私にお願いしますと頭を下げてくれる人もいないからな。
私のモチベーションは一気に高まった。
遠藤統括部長という人はエンジニアの扱いが本当にうまい。
「奥平さんなら、私などすぐに追い越して凄いエンジニアになると思いますよ。とにかく今回の作業はトラブルの無いように工程通りに終わらせます。仕様書の修正は本日中に終わりますので後ほどご確認をお願いいたします。」
「今日中に仕様書の修正は終わるのですか?それはまた随分早いですね。」
「既に変更するところは決まってますし、変更内容も会社でまとめてきておりますので、後はワープロで清書するだけですから。」
「なるほど、さすがですね。」
「明日から回路図の修正作業に入ります。大まかな回路も出来ていますので、今週中には図面も終わらせようと思ってます。」
「工程表よりも前倒しですね。まあ、最初からそんなに飛ばさなくても大丈夫ですよ。無理しない程度に頑張って下さい。」
「はい。ありがとうございます。しかし、今週中にそこまで終わらせておけば、後で何かあった時にも対応できますから。こういう時は得てして何か起きたりしますから。」
こんなやり取りを遠藤統括部長とした後、私は再びパソコンに向かい、作業を続けた。
こちらでの作業はことのほかスムーズに進んだ。理由は明白だ。作業の邪魔をする奴がいないからだ。(もちろん原田のことだ。)
それどころか、奥平が単純なパソコンへの入力作業など私にとっては雑務の部類に入る仕事を進んで引き受けてくれるので、作業の進捗は私の予想をはるかに上回っていた。
翌週、予定通り回路図も仕上がり、実際に前段の回路の修正作業に入っていた。
この作業を始めて2日目の午後、私と奥平は遠藤統括部長に会議室に呼ばれた。
遠藤統括部長はいつになく険しい表情をしていた。
「秋村さん、作業の方は順調ですか?」
「はい。今のところ特に問題はありません。」
「そうですか…そうですよね。うーん…」
遠藤統括部長は少し困った顔で言った。
「実は、言いにくい事なんですが、ここへ来て仕様の追加をお願いできないかという相談なのですが…」
「え?今からですか?」
「はい。内容はこれを見ていただければ…」
遠藤統括部長からA4判2枚の追加仕様の内容が書かれた紙を渡された。
私と奥平はその内容をじっくり読んだ。
私はそこに書かれている追加仕様をすぐに理解できたが、なかなかのボリュームだ。
奥平はピンときていないようだったので、私は遠藤統括部長と奥平に、追加仕様を盛り込む具体的な方法をホワイトボードを使って説明した。
専門的なことは割愛するが、要するに演算するための回路を追加しなければならないということだ。
私の説明を一通り聞いた後、奥平が口を開いた。
「秋村さんの説明のおかげで具体的にどうすれば良いのかは理解できました。しかし、これだけの仕様追加となると、工程を見直さなければならないですね。」
「うーん…確かにそうなんだけど、納期は延ばせないんだよな…」
遠藤統括部長が言った。
私の予感は当たってしまったようだ。
やっぱり何か起きたな…。
まあこれまでの経験上、こんなことはよくある話ではあるが……。
「秋村さん、いかがでしょう。納期に間に合うようにこの仕様を追加できますかね。」
奥平は不安そうな顔で私を見ている。
私は頭の中で今後の工程を考えていた。
まあ、多少無理をすれば何とかなるだろう。
それに、ここで出来ませんなんて言うのもどうかと思うし…。
「遠藤さん、何とかやれると思います。もっとも余裕は全くありませんが…。場合によっては休日返上で作業させていただくことになると思いますけど…」
「すみませんねぇ。こちらの都合で無理な事をお願いして…。秋村さんにそう言っていただけると助かります。追加作業分の費用については御社の吉沢さんに私から相談させていただきますので、よろしくお願いします。奥平をどんどん使っていただいて構いませんので…」
「わかりました。やはり作業を前倒しで進めておいて良かったです。奥平さんにも随分助けて頂いたので、ここまで順調だったわけですから。奥平さん、引き続きよろしくお願いします。」
私は奥平に頭を下げた。
「秋村さん、こちらこそよろしくお願いします。」
奥平には気の毒だったが、この会議を境に作業はかなり大変なものになり、毎日深夜残業となってしまった。
何しろ仕様の修正、回路図の修正のやり直しだし、実際の基板の修正も当初予定していた量の倍になったのだから…。
しかも今回の追加仕様はまったくの新機能なので動作試験については倍ではすまないくらいの項目が追加となるのだ。
それでも1ヶ月間土日も返上して、毎日深夜1時、2時まで作業して、ようやく実機試験を実施できるところまできていた。
なんとか修正作業を工程表どおりに進めることはできた。
私も奥平も疲れ切っていた。遠藤統括部長も我々同様、休日も出勤して、我々が帰るまで必ず残っていた。当然相当疲労は溜まっている筈である。
「秋村さん、ご苦労様でした。なんとか実機試験が来週からできそうですね。」
「はい。毎日遅くまですみませんでした。」
「いやいや、こちらこそありがとうございます。この週末はゆっくり休んでください。来週からまた大変になりそうですけど引き続きよろしくお願いします。」
こんなふうに遠藤統括部長に言われると、これまでの疲れが吹き飛ぶ…。
やはりエンジニアは感謝されると調子にのる人種なんたと思ってしまうのだか、私は素直に嬉しかった。
私はとりあえず、週末はゆっくり休んで、月曜日の朝には一度会社に戻りこれまでの作業報告をしてから、またこちらで作業の続きをやると言う予定を遠藤統括部長と奥平に伝えて、ミマツ産業の工場を後にした。
私は疲労困憊ながらも、久しぶりに充実感を感じていた。
来週からの実機試験も絶対に工程表通りに終わらせてやろうと意気込んでいた。
しかし月曜日の朝、会社での出来事が私のモチベーションをどん底まで落とすことになる…。




