月の裏側
「月の裏側はどんなだろうね」
そういった君はパイロットになる前に死んだ。
君がその言葉を口にしたのは、高校の屋上だった。
夏休み前の、妙に風の強い夜。僕らは部活をさぼって、立ち入り禁止の札を無視して、錆びた扉をこじ開けた。屋上には誰もいなくて、町の音が遠くでぼんやり鳴っていた。
君はフェンスに指をかけて、まっすぐ月を見ていた。
「なあ、月ってさ、いつも同じ面しか見せてないんだって」
「知ってる」
「じゃあ、裏側には何があると思う?」
僕は少し考えてから言った。
「クレーターとか、岩とかじゃないの」
君はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「夢がないなあ」
「だって月だろ」
「月だからだよ」
君はそう言って、目を輝かせた。
「あそこにはきっと、巨大都市があるんだよ。地球のどの国よりも大きい都市。銀色の塔が何百本も立ってて、空に道路があって、ビルの間を宇宙船が飛んでる」
僕は笑った。
「なんだそれ。映画じゃん」
「映画よりすごいかもしれないだろ。もしかしたら宇宙人だっているかもしれない。丸いやつとか、足が十本あるやつとか、透明なやつとか。俺たちが想像できないようなやつらが、月の裏側で普通に暮らしてるんだ」
君は両手を広げた。
「だって見えないんだぞ。見えないから、なんだってあるんだ。見れないからこそ夢があるんだよ」
そのときの君の声を、僕はいまでも覚えている。
本気だった。
君は本気で、月の裏側に巨大都市があるかもしれないと思っていた。本気で、宇宙人に会えるかもしれないと思っていた。自分がそこまで行けると本気で思っていた。
「俺はパイロットになる」
君は何度もそう言っていた。
教科書の端には飛行機の絵を描き、ノートの最後のページには滑走路の絵を描いていた。授業中、先生に当てられても答えられないくせに、飛行機の名前だけはやたら詳しかった。旅客機、戦闘機、輸送機、古いプロペラ機。君は空を飛ぶものなら何でも好きだった。
「まずは飛行機に乗る。できるだけ高く飛ぶ。それから、もっと上に行く。いつかロケットにも乗る」
「パイロットと宇宙飛行士は別だろ」
「細かいな。空はつながってるだろ。だったら同じだ」
君の理屈はいつも乱暴だった。でも、不思議と説得力があった。君が言うと、本当に空の先が宇宙まで一本の道になっている気がした。
君はよく、古いノートを僕に見せた。
表紙には大きな字で「月の裏側へ行く」と書いてあった。中には飛行機の絵、ロケットの絵、月の地図、宇宙人の落書き、そして見たこともない都市の絵があった。
月面にそびえる巨大な塔。丸い屋根の家々。空を走る透明な列車。月の地面から生えたような宮殿。その隣には、君の汚い字でこう書かれていた。
誰も見たことがない場所には、
誰も決められない未来がある。
僕はその言葉の意味を、当時はあまり分かっていなかった。
君が死んだのは、それから少し後のことだった。
雨の日だった。君は塾へ向かう途中、信号無視の車にはねられた。病院に運ばれたけれど、二度と目を覚まさなかった。
知らせを聞いたとき、僕は何も考えられなかった。
教室の中がやけに静かだった。担任の先生の声が遠く聞こえて、誰かが泣いていた。僕は窓の外ばかり見ていた。昼なのに空は暗く、厚い雲に覆われていた。月なんて見えるはずもなかった。
葬式の日、君の母さんが僕にノートを渡してくれた。
「この子、あなたと月の話をするのが好きだったみたいで」
僕は何も言えずに受け取った。
家に帰ってから、僕はそのノートを開いた。何度も見たはずの絵が、前とはまるで違って見えた。巨大都市も、宇宙人も、空飛ぶ列車も、全部が君の声で描かれているようだった。
ページの最後に、新しい文字を見つけた。
俺は月の裏側に行く。見えない場所を、見える場所にする。見に行って見たものを全部話してやるんだ。
都市に宇宙人にあいつを驚かしてやろう。
それを読んだ瞬間、胸の奥がつぶれた。
君は帰ってこなかった。
月の裏側に行くどころか、パイロットにさえなれなかった。空を飛ぶ前に、君はいなくなってしまった。
それから何年も、僕は月を見るのが嫌いだった。
夜空に月が出ていると、どうしても君を思い出した。巨大都市だの宇宙人だの、馬鹿みたいなことを真剣に話していた君の顔を思い出した。そして思うのだ。
君が見たかったものは、もう君には見えない。
その事実が、僕にはひどく残酷に思えた。
大人になってから、僕は空港で働くようになった。
パイロットではない。飛行機を飛ばす仕事でもない。ただ、飛行機が安全に飛べるように、裏側で支える仕事だった。天気を確認し、書類をそろえ、遅れがあれば連絡し、出発時刻を調整する。華やかではない。地味と言われるだろう。
それでも飛行機が滑走路を走り出す瞬間だけは、いまでも胸が熱くなる。
重い機体が少しずつ加速して、やがて地面を離れる。車輪が浮き、機体が空へ向かっていく。その姿を見るたびに、僕は君を思い出す。
君ならきっと、子どもみたいに笑っただろう。
「見ろよ、飛んだぞ」
そう言って、隣で肩を叩いてきただろう。
ある冬の夜、仕事帰りに空を見上げると、大きな月が出ていた。
満月だった。
白くて、明るくて、まるで地球を見張っているみたいだった。僕は駐車場で立ち止まり、鞄の中から君のノートを取り出した。何年も持ち歩いているせいで、表紙はぼろぼろになっていた。でも「月の裏側へ行く」という文字だけは、まだはっきり読めた。
そのとき、ふと思った。
君は月の裏側を見られなかった。
でも、君が信じていた月の裏側は、まだどこかに残っているんじゃないか。
巨大都市が本当にあるかどうかなんて、たぶん問題ではなかった。宇宙人がいるかどうかも、きっと大事なことじゃなかった。
君が言いたかったのは、見えない場所を信じる力のことだったのだと思う。
誰にも分からない場所がある。まだ誰も行ったことのない未来がある。だから人は、そこへ行こうとする。
僕はその夜、君のノートの最後のページに小さく書いた。
まだ見えない。だから、まだ希望がある。
数か月後、僕はある企画を見つけた。
月を周回する探査機に、一般の人から集めたメッセージを載せるというものだった。長い文章は送れない。名前と、短い言葉だけ。僕は迷わず応募した。
君の名前を書いた。
そして、その下にこう書いた。
月の裏側には、きっと誰も想像できないものがある。
送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめていた。馬鹿みたいだと思った。こんなのはただのデータだ。君が本当に月へ行くわけじゃない。
それでも、胸の奥で何かが少しだけ軽くなった。
しばらくしてメールが届いた。
「メッセージが選定されました」
打ち上げの日、僕は休みを取った。
部屋の電気を消して、パソコンの画面で中継を見た。膝の上には君のノートがあった。画面の中で、ロケットが白い煙をまとって立っていた。
カウントダウンが始まる。
十、九、八。
僕は君の声を思い出した。
月の裏側はどんなだろうね。
七、六、五。
巨大都市があるんだ。宇宙人もいるかもしれない。誰もが想像できないものがあるんだ。
四、三、二。
見れないからこそ夢がある。
一。
ロケットが光に包まれた。
炎が地面を照らし、白い機体がゆっくりと持ち上がる。最初は重そうに、でも次第に力強く、空へ昇っていく。僕は息を止めて画面を見つめた。
「行け」
気づけば、声が出ていた。
「あいつをのせて月の裏側まで」
ロケットは雲を突き抜け、やがて小さな光になった。
その光が消えたあとも、僕はしばらく画面を見ていた。君の名前が空へ行った。君の言葉が月へ向かった。君が信じた夢の、ほんのかけらだけでも、見えない場所へ届こうとしていた。
探査機が月の裏側を撮影した写真は、後日公開された。
そこには巨大都市はなかった。銀色の塔も、空飛ぶ列車も、透明な宇宙人も写っていなかった。あったのは無数のクレーターと、灰色の大地と、深い影だけだった。
でも僕は、がっかりしなかった。
むしろ、少し笑ってしまった。
なぜならその写真を見た瞬間、君ならきっとこう言うと思ったからだ。
「この下に都市があるのかもな」
きっと君は、ただの荒れた月面を見ても、夢を終わらせなかっただろう。見えないなら、まだあるかもしれない。写っていないなら、もっと奥に隠れているかもしれない。そうやって何度でも、世界の続きを想像したはずだ。
僕は画面の中の月の裏側を見つめた。
そこは静かだった。遠くて、冷たくて、誰にも触れられていない場所だった。
けれど、からっぽには見えなかった。
そこには君の夢があった。君の声があった。君が描いた巨大都市が、僕にだけは見えていた。
夜になって、僕はアパートの屋上に上がった。
空には半分の月が浮かんでいた。表側しか見えない。裏側はやっぱり見えない。
でも、もうそれでよかった。
見えないから、夢がある。
僕は君のノートを開き、最後に一行を書き足した。
君の夢は月の裏側まで飛んだよ。
風が吹いて、ページがめくれた。
遠くの空を、一機の飛行機が横切っていく。点滅する光はゆっくりと月へ近づき、ほんの一瞬、月のそばを通った。
僕はその光を見送りながら、小さくつぶやいた。
「なあ、月の裏側はどんなだった?」
返事はない。
けれど、君の笑い声が聞こえた気がした。
「すごかったよ」
そんな声が、夜空のどこかから。
僕は月を見上げた。
裏側は見えない。もしかしたら人間には見えない力が働いてるのかもしれない。だから今も、そこには巨大都市があるかもなんて考えた。
宇宙人が暮らしているかもしれない。誰もが想像できないものが、静かに待っているかもしれない。
そしてそのどこかに、君がいる気がした。
飛行機にも、ロケットにも乗れなかった君が、僕の知らない場所で、誰よりも遠くを見ている気がした。
見えないからこそ、夢がある。
君が教えてくれたその言葉を、僕はこれからも忘れない。




