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月の裏側

作者: 文星 結
掲載日:2026/07/08

「月の裏側はどんなだろうね」

そういった君はパイロットになる前に死んだ。

君がその言葉を口にしたのは、高校の屋上だった。

夏休み前の、妙に風の強い夜。僕らは部活をさぼって、立ち入り禁止の札を無視して、錆びた扉をこじ開けた。屋上には誰もいなくて、町の音が遠くでぼんやり鳴っていた。


君はフェンスに指をかけて、まっすぐ月を見ていた。

「なあ、月ってさ、いつも同じ面しか見せてないんだって」

「知ってる」

「じゃあ、裏側には何があると思う?」


僕は少し考えてから言った。

「クレーターとか、岩とかじゃないの」


君はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「夢がないなあ」

「だって月だろ」

「月だからだよ」

君はそう言って、目を輝かせた。

「あそこにはきっと、巨大都市があるんだよ。地球のどの国よりも大きい都市。銀色の塔が何百本も立ってて、空に道路があって、ビルの間を宇宙船が飛んでる」


僕は笑った。

「なんだそれ。映画じゃん」

「映画よりすごいかもしれないだろ。もしかしたら宇宙人だっているかもしれない。丸いやつとか、足が十本あるやつとか、透明なやつとか。俺たちが想像できないようなやつらが、月の裏側で普通に暮らしてるんだ」


君は両手を広げた。

「だって見えないんだぞ。見えないから、なんだってあるんだ。見れないからこそ夢があるんだよ」

そのときの君の声を、僕はいまでも覚えている。

本気だった。


君は本気で、月の裏側に巨大都市があるかもしれないと思っていた。本気で、宇宙人に会えるかもしれないと思っていた。自分がそこまで行けると本気で思っていた。

「俺はパイロットになる」

君は何度もそう言っていた。


教科書の端には飛行機の絵を描き、ノートの最後のページには滑走路の絵を描いていた。授業中、先生に当てられても答えられないくせに、飛行機の名前だけはやたら詳しかった。旅客機、戦闘機、輸送機、古いプロペラ機。君は空を飛ぶものなら何でも好きだった。


「まずは飛行機に乗る。できるだけ高く飛ぶ。それから、もっと上に行く。いつかロケットにも乗る」

「パイロットと宇宙飛行士は別だろ」

「細かいな。空はつながってるだろ。だったら同じだ」

君の理屈はいつも乱暴だった。でも、不思議と説得力があった。君が言うと、本当に空の先が宇宙まで一本の道になっている気がした。


君はよく、古いノートを僕に見せた。

表紙には大きな字で「月の裏側へ行く」と書いてあった。中には飛行機の絵、ロケットの絵、月の地図、宇宙人の落書き、そして見たこともない都市の絵があった。

月面にそびえる巨大な塔。丸い屋根の家々。空を走る透明な列車。月の地面から生えたような宮殿。その隣には、君の汚い字でこう書かれていた。


誰も見たことがない場所には、

誰も決められない未来がある。


僕はその言葉の意味を、当時はあまり分かっていなかった。

君が死んだのは、それから少し後のことだった。

雨の日だった。君は塾へ向かう途中、信号無視の車にはねられた。病院に運ばれたけれど、二度と目を覚まさなかった。

知らせを聞いたとき、僕は何も考えられなかった。


教室の中がやけに静かだった。担任の先生の声が遠く聞こえて、誰かが泣いていた。僕は窓の外ばかり見ていた。昼なのに空は暗く、厚い雲に覆われていた。月なんて見えるはずもなかった。

葬式の日、君の母さんが僕にノートを渡してくれた。

「この子、あなたと月の話をするのが好きだったみたいで」

僕は何も言えずに受け取った。


家に帰ってから、僕はそのノートを開いた。何度も見たはずの絵が、前とはまるで違って見えた。巨大都市も、宇宙人も、空飛ぶ列車も、全部が君の声で描かれているようだった。

ページの最後に、新しい文字を見つけた。


俺は月の裏側に行く。見えない場所を、見える場所にする。見に行って見たものを全部話してやるんだ。

都市に宇宙人にあいつを驚かしてやろう。

それを読んだ瞬間、胸の奥がつぶれた。

君は帰ってこなかった。

月の裏側に行くどころか、パイロットにさえなれなかった。空を飛ぶ前に、君はいなくなってしまった。


それから何年も、僕は月を見るのが嫌いだった。

夜空に月が出ていると、どうしても君を思い出した。巨大都市だの宇宙人だの、馬鹿みたいなことを真剣に話していた君の顔を思い出した。そして思うのだ。

君が見たかったものは、もう君には見えない。

その事実が、僕にはひどく残酷に思えた。


大人になってから、僕は空港で働くようになった。

パイロットではない。飛行機を飛ばす仕事でもない。ただ、飛行機が安全に飛べるように、裏側で支える仕事だった。天気を確認し、書類をそろえ、遅れがあれば連絡し、出発時刻を調整する。華やかではない。地味と言われるだろう。


それでも飛行機が滑走路を走り出す瞬間だけは、いまでも胸が熱くなる。

重い機体が少しずつ加速して、やがて地面を離れる。車輪が浮き、機体が空へ向かっていく。その姿を見るたびに、僕は君を思い出す。

君ならきっと、子どもみたいに笑っただろう。

「見ろよ、飛んだぞ」

そう言って、隣で肩を叩いてきただろう。

ある冬の夜、仕事帰りに空を見上げると、大きな月が出ていた。

満月だった。


白くて、明るくて、まるで地球を見張っているみたいだった。僕は駐車場で立ち止まり、鞄の中から君のノートを取り出した。何年も持ち歩いているせいで、表紙はぼろぼろになっていた。でも「月の裏側へ行く」という文字だけは、まだはっきり読めた。

そのとき、ふと思った。

君は月の裏側を見られなかった。

でも、君が信じていた月の裏側は、まだどこかに残っているんじゃないか。


巨大都市が本当にあるかどうかなんて、たぶん問題ではなかった。宇宙人がいるかどうかも、きっと大事なことじゃなかった。

君が言いたかったのは、見えない場所を信じる力のことだったのだと思う。


誰にも分からない場所がある。まだ誰も行ったことのない未来がある。だから人は、そこへ行こうとする。

僕はその夜、君のノートの最後のページに小さく書いた。


まだ見えない。だから、まだ希望がある。

数か月後、僕はある企画を見つけた。

月を周回する探査機に、一般の人から集めたメッセージを載せるというものだった。長い文章は送れない。名前と、短い言葉だけ。僕は迷わず応募した。

君の名前を書いた。

そして、その下にこう書いた。


月の裏側には、きっと誰も想像できないものがある。


送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめていた。馬鹿みたいだと思った。こんなのはただのデータだ。君が本当に月へ行くわけじゃない。

それでも、胸の奥で何かが少しだけ軽くなった。

しばらくしてメールが届いた。


「メッセージが選定されました」



打ち上げの日、僕は休みを取った。

部屋の電気を消して、パソコンの画面で中継を見た。膝の上には君のノートがあった。画面の中で、ロケットが白い煙をまとって立っていた。

カウントダウンが始まる。


十、九、八。

僕は君の声を思い出した。

月の裏側はどんなだろうね。

七、六、五。

巨大都市があるんだ。宇宙人もいるかもしれない。誰もが想像できないものがあるんだ。

四、三、二。

見れないからこそ夢がある。

一。


ロケットが光に包まれた。

炎が地面を照らし、白い機体がゆっくりと持ち上がる。最初は重そうに、でも次第に力強く、空へ昇っていく。僕は息を止めて画面を見つめた。

「行け」

気づけば、声が出ていた。

「あいつをのせて月の裏側まで」

ロケットは雲を突き抜け、やがて小さな光になった。

その光が消えたあとも、僕はしばらく画面を見ていた。君の名前が空へ行った。君の言葉が月へ向かった。君が信じた夢の、ほんのかけらだけでも、見えない場所へ届こうとしていた。


探査機が月の裏側を撮影した写真は、後日公開された。

そこには巨大都市はなかった。銀色の塔も、空飛ぶ列車も、透明な宇宙人も写っていなかった。あったのは無数のクレーターと、灰色の大地と、深い影だけだった。

でも僕は、がっかりしなかった。

むしろ、少し笑ってしまった。


なぜならその写真を見た瞬間、君ならきっとこう言うと思ったからだ。

「この下に都市があるのかもな」

きっと君は、ただの荒れた月面を見ても、夢を終わらせなかっただろう。見えないなら、まだあるかもしれない。写っていないなら、もっと奥に隠れているかもしれない。そうやって何度でも、世界の続きを想像したはずだ。

僕は画面の中の月の裏側を見つめた。


そこは静かだった。遠くて、冷たくて、誰にも触れられていない場所だった。

けれど、からっぽには見えなかった。

そこには君の夢があった。君の声があった。君が描いた巨大都市が、僕にだけは見えていた。

夜になって、僕はアパートの屋上に上がった。

空には半分の月が浮かんでいた。表側しか見えない。裏側はやっぱり見えない。

でも、もうそれでよかった。

見えないから、夢がある。


僕は君のノートを開き、最後に一行を書き足した。


君の夢は月の裏側まで飛んだよ。


風が吹いて、ページがめくれた。

遠くの空を、一機の飛行機が横切っていく。点滅する光はゆっくりと月へ近づき、ほんの一瞬、月のそばを通った。

僕はその光を見送りながら、小さくつぶやいた。

「なあ、月の裏側はどんなだった?」

返事はない。

けれど、君の笑い声が聞こえた気がした。

「すごかったよ」

そんな声が、夜空のどこかから。

僕は月を見上げた。


裏側は見えない。もしかしたら人間には見えない力が働いてるのかもしれない。だから今も、そこには巨大都市があるかもなんて考えた。

宇宙人が暮らしているかもしれない。誰もが想像できないものが、静かに待っているかもしれない。

そしてそのどこかに、君がいる気がした。


飛行機にも、ロケットにも乗れなかった君が、僕の知らない場所で、誰よりも遠くを見ている気がした。

見えないからこそ、夢がある。

君が教えてくれたその言葉を、僕はこれからも忘れない。

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