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「穢れ」と後宮を追われた蟲術姫の覚書 ~姫が一番手厚く守っていたのは、自分を陥れた寵姫の御殿でした~

作者: lilylibrary
掲載日:2026/04/03


 庭の蟷螂かまきりを手に乗せていただけで、女房たちは悲鳴を上げた。


 蟲愛むめ姫は慣れていた。

 もう十五年、ずっとこうだ。母上も、乳母も、侍女たちも、誰もがこちらを見る目は同じだった。


 ——気味が悪い、と。


「姫様、せめてお袖の上だけは……」


 唯一、逃げなかったのは女房の小萩だけだった。それでも小萩の顔はいつも困ったように曇っていて、蟲愛はそれを見るたびに、少しだけ胸が痛んだ。

 好きなものを好きだと言うだけで、人の顔を曇らせる。

 それが、蟲愛の十五年だった。


    *


 蟲愛が東宮の正妃候補として内裏に上がったのは、父の権勢による政略である。本人の意思ではない。

 宮中に入って最初にしたことは、庭の溝を覗き込むことだった。水が淀んでいる。蚊が湧く。

 蟲愛は誰にも告げず、その夜のうちに喰蚊蜻蛉(はむかとんぼ)を三匹放った。翌朝にはもう一匹、東の渡殿にも。


 蟲術。蟲を操り、蟲に働かせ、蟲で守る技。蟲愛が幼い頃から独学で身につけた、誰にも理解されない力だった。


 蟲愛は帳面をつけていた。どこに何の蟲を配したか、何を防いでいるか。几帳面な文字で、毎日書いた。

 誰に見せるためでもない。蟲たちの仕事を、自分だけでも覚えておきたかった。


 帳面の三頁目にはこう記されている。


「四月十二日。藤壺様の御殿の裏手、水溜まりに蚊の卵を確認。喰蚊魚蟲(はむかうおむし)を五匹放つ。御殿に最も近き場所ゆえ、多めに」


 藤壺。東宮の寵姫。美しく、聡く、宮中の誰もに愛される女人。蟲愛とは、何もかもが対照的だった。

 蟲愛は藤壺が嫌いではなかった。ただ、同じ場所にいて、一方だけが愛され、一方だけが疎まれる。その事実が、ときどき喉の奥に小さな棘のように刺さった。


 夜半、誰もいない庭を蟲愛は歩く。溝を覗き、水瓶を確かめ、蟲たちの様子を見て回る。裸足に土の冷たさが心地よかった。

 この時間だけが、蟲愛の時間だった。誰の顔も曇らせず、誰に気味悪がられることもなく、蟲たちとだけ向き合える時間。

 蟲愛は知っていた。この蟲たちがいなくなれば、都はたちまち疫に蝕まれる。しかしそれを告げたところで、信じる者はいまい。蟲を穢れとしか見ない者に、蟲が都を守っていると言って、何になるだろう。


 だから黙って、帳面だけを書いた。


 ある夜のことだった。藤壺付きの若い侍女が、蚊に刺されて高い熱を出した。蟲愛は薬蟲の体液から解熱の薬を調合し、侍女の部屋の前にそっと置いた。

 翌朝、侍女は回復していた。薬を見て首を傾げていたが、やがて忘れた。蟲愛が作ったとは、誰も思わない。蟲から薬を作るなどと言えば、ますます気味悪がられるだけだ。

 それでよかった。知られなくても、治ればいい。

 蟲愛はそう思って、帳面に一行書き足した。「侍女の熱、下がる。薬蟲の配合、この分量で良し」。


 その夜も、小萩だけが起きていた。庵の灯りの下で薬を作る姫の背中を、小萩は几帳の隙間から見ていた。——声はかけなかった。かけたところで、姫はきっと「何でもありませんよ」と笑うだけだから。


    *


 歌会の夜、藤壺が仕掛けた。


「蟲愛姫様にも、ぜひ一首」


 蟲愛の几帳が、侍女の手で引かれた。仕組まれていたのだと、後で知った。

 袖の上を、一匹の蟷螂が歩いていた。


 悲鳴。嫌悪。どよめき。東宮の顔が、はっきりと歪んだ。


「——なぜ、蟲などを愛でる?」


 蟲愛は答えた。いつもと同じ言葉を。


「蝶はもとは毛虫でございます。花を愛でても、根を愛でる方はおりません。——どちらも同じ命にございますのに」


 誰にも届かなかった。いつもと同じだった。

 ただ、蟲愛は気づいていた。几帳を引いた侍女の袖に、藤壺の香が移っていたことを。


 三日後、婚約破棄の勅が下された。

 罪状は「穢れをもって宮中の安寧を乱したこと」。藤壺が東宮に毎夜囁いていたのだ。蟲愛の蟲は呪詛である、あの姫がいるから体の調子が悪いのだ、と。

 実際には藤壺の不調はただの懐妊の兆しに過ぎなかった。しかし東宮はそれを蟲の呪いと信じた。

 蟲愛の言い分を聞く者は、一人もいなかった。弁明の場すら与えられなかった。


 追放の日、蟲愛は牛車に乗り、振り返らなかった。

 帳面を部屋に置いてきたことだけが心残りだった。あの蟲たちの記録。きっと誰にも読まれないまま、捨てられるのだろう。

 泣きはしなかった。泣いたところで、誰が聴くだろう。


 牛車の上を、白い蝶だけが追いかけてきた。


    *


 蟲愛が消えた都に、夏が来た。


 最初に異変が起きたのは庭だった。薔薇に黒い蟲がつき、一晩で喰い尽くされた。次に蚊が増えた。蟲愛が配していた蜻蛉も魚蟲も、術者のいない今、とうに死に絶えていた。

 蚊は疫を運ぶ。侍従が倒れ、女房が寝込み、藤壺付きの侍女が一人、帰らぬ人となった。


「蟲愛姫の呪いだ」と人々は囁いた。追放を恨んで蟲の禍を送っているのだ、と。

 蟲愛がいなくなったから蟲が暴れているのだという発想には、誰も至らなかった。

 守られていた者は、守られていたことに気づかない。

 あの若い侍女が高熱から回復したのも、誰の薬のおかげだったか、もう覚えている者はいなかった。


    *


 小萩は、あの日から眠れない夜を過ごしていた。


 蟲愛付きの女房だった小萩は、追放後も宮中に留め置かれていた。身分が低い。行く先もない。雑務をこなしながら、ずっと考えていた。


 ——姫様の蟲術を、証す手立てはないか。


 小萩は蟲術を知らない。蟲も怖い。正直に言えば、蟷螂を手に乗せる姫の姿に何度も身がすくんだ。

 けれど小萩は知っていた。姫様が毎晩、誰にも告げず裸足で庭を歩いていたことを。帳面に何かを書き続けていたことを。蚊に刺された侍女のために、黙って薬を調合していたことを。

 気味が悪いと思ったことは、ある。けれどそれ以上に、小萩にはわかっていた。


 あの方は、誰よりもこの都を大事にしていた。


 蟲愛の部屋は、疫病の混乱で誰も片づけていなかった。小萩は夜半に忍び込み、文箱の底から帳面を見つけた。

 開いた。几帳面な文字が並んでいた。日付、場所、蟲の名前、数。


「四月十二日。藤壺様の御殿の裏手、蚊の卵を確認。喰蚊魚蟲を五匹。御殿に近きゆえ、多めに」

「五月八日。東宮様の寝所近くの蛍池に害蟲。薬蟲を配す。東宮様はお蟲が苦手ゆえ、御目に触れぬよう夜半に」

「六月二日。侍女の熱、下がる。薬蟲の配合、この分量で良し」


 どの頁も同じだった。誰かのために蟲を配し、その誰かに気づかれないよう気を遣い、感謝されることなど最初から求めていない。

 そして繰り返し現れる言葉——「念を入れる」「多めに」「藤壺様の御殿に近きゆえ」。


 小萩の手が震えた。

 自分を追い出した人の住まいを、誰よりも手厚く守っていた。


 小萩は帳面を抱きしめ、声を殺して泣いた。蟲術はわからない。蟲も怖い。けれど、この帳面に書かれていることの意味は、小萩にはわかった。


 翌日から動いた。

 藤壺が東宮に嘘を吹き込んだ夜に居合わせた侍女を探し、証言を書き留めた。歌会の日、几帳を引く手配をした者を突き止めた。身分の低い女房に話を聞かせてくれる者は少なく、門前払いも嘲笑もあった。

 三月かかった。

 それでも、やめなかった。


 秋の初め——小萩は帝に直訴(じきそ)した。


    *


 帝は帳面を読んだ。


 一頁、一頁。蟲愛の文字を追った。蟲の名前、配置、季節ごとの対処。そして何度も現れる「藤壺様の御殿」という文字。


 帝は帳面を閉じ、しばらく黙った。


 やがて東宮を呼んだ。すべてを問い質した。

 藤壺の偽証、東宮の判断、追放の経緯。嘘をつき通せる場ではなかった。帳面という物証があり、侍女たちの証言があり、何より都を蝕む疫病そのものが、姫の不在を証明していた。


 東宮は蒼白になった。藤壺は泣き崩れた。


 帝はそれ以上、二人を見なかった。

 ただ、小萩に向き直って言った。


「——迎えに行きなさい」


    *


 辺境の秋は、都よりも早い。


 蟲愛は小さな庵で暮らしていた。荒れ地を少しずつ耕し、蟲に手伝わせ、花を咲かせた。蜻蛉が水面を滑り、蝶が舞い、名も知らぬ蟲たちが夜ごと声を上げる。


 誰も来ない場所だった。

 ここでも帳面はつけていた。癖のようなものだった。「九月三日、庵の裏手に新しい蟲を発見。羽が青い。名前はまだない」——誰にも見せない帳面を、誰にも見せないまま書き続ける。都にいた頃と、何も変わらない。


 好きなものを好きでいることに、誰かの許しは要らない。——そう自分に言い聞かせてきた。言い聞かせるたびに、少しだけ胸が痛んだ。本当は知っていた。許しが要らないのではない。許してくれる人が、いないだけだ。


 牛車の音がした。


 庵の戸を開けると、小萩が立っていた。

 三月ぶりの顔。少し痩せている。目の下に隈があった。


「……小萩?」


 小萩は何も言わず、深く頭を下げた。両手に帳面を捧げ持っていた。

 蟲愛はそれを見て、息を呑んだ。


「——あの帳面を、おまえが」


「はい」


「読んだの?」


「はい。全部」


 蟲愛の唇が、かすかに震えた。

 あの帳面は、誰に見せるつもりもなかった。蟲たちの仕事を自分だけが覚えていればいいと思って書いていた。自分がいなくなれば、ただの紙屑になるものだった。


「帝にもお見せしました」


「…………」


「姫様がずっと都を守っておいでだったこと。藤壺様の御殿を、誰よりも手厚く守っておいでだったこと。——帝は、全てお読みになりました」


 蟲愛は一歩後ずさった。戸惑いの色が、顔に浮かんだ。


「なぜ……あの帳面は、ただの覚え書きです。蟲の世話の記録で、誰かに見せるようなものでは……」


「覚え書き、でございますか」


 小萩の声が、静かに揺れた。


「では姫様。覚え書きに、なぜ毎頁『藤壺様のために』と書いてあるのですか。自分を追い出した方のために、なぜ夜ごと庭を歩いておいでだったのですか」


 蟲愛は答えられなかった。


 風が吹いた。庭の蟲たちが、ふいに静かになった。


「小萩」


「はい」


「おまえは、蟲が怖かったでしょう?」


 小萩は少し笑った。泣きそうな顔で。


「はい。今でも、少し」


「それなのに」


「——蟲は怖うございます。けれど姫様」


 小萩の声が、震えた。


「姫様がお一人で帳面をつけておいでだったこと。誰にも言わずに庭を回っておいでだったこと。蚊に刺された侍女のために、黙ってお薬を作っておいでだったこと。——私は全部見ておりました」


 蟲愛の目が、見開かれた。


「誰もご覧になっていないと、お思いだったでしょう」


 小萩の頬を、涙がつたった。


「でも私は見ておりました。ずっと。——ずっとです」


 秋の陽が、庵の土間に差し込んでいた。低い光が、二人の足元を温かく照らしていた。


「姫様。もう、お一人で抱えなくてよいのですよ」


 蟲愛は何も言えなかった。

 堪えようとして、堪えきれなかった。


 眉を抜かず、歯黒も塗らない。ありのままの顔のまま——蟲愛は初めて、人の前で泣いた。


 十五年分だった。好きなものを好きだと言うたびに向けられた視線。それでも守り続けた日々。誰にも気づかれないまま書き続けた帳面。——その全部を、たった一人が見ていてくれた。


 小萩が一歩近づいた。

 蟷螂を怖がった手で、姫の手を握った。


 白い蝶が一羽、庵の軒先を横切った。


    *


 その年の冬、都にひとつの令が出された。


「蟲術を穢れとせず、蟲守(むしもり)の官を設くること」。


 蟲愛は都に戻らなかった。けれど辺境の庵には、蟲術を学びたいという者が、ぽつりぽつりと訪れるようになった。


 ある日、眉を抜いていない少女がやって来た。


「姫様。蟲は、本当に穢れではないのですか」


「穢れてなどおりませんよ」


 蟲愛はそう言って、笑った。

 その隣で小萩が茶を淹れていた。蟷螂が縁側を歩いても、もう悲鳴は上がらない。


 蟲の声が、少しずつ、聴こえる人が増えていく。



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穢れではないけど蚊は病原の元になるから死滅させねば
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