たぶん、怖い
店内の光が、やけに白く感じる。
ドアの閉まる音が、遅れて耳に届く。さっきまで聞いていたはずの音が、ここに入った途端に薄くなる。レジの電子音。棚に何かを戻す音。どれも遠い。
足元が軽い。そのまま前に進めば、どこかに抜ける。一度立ち止まり、床を踏む。靴底の感触を確かめる。大丈夫だとわかってから、もう一度歩く。
難航していた宅録を終えて、そのまま近所のコンビニまで来た。今回はうまくいったと思う。音のバランスも、前よりはまともだ。なんとか最後まで形になった。少なくとも、今の自分にできるところまでいけた。
それなのに、店内に入った途端、何かが抜ける。さっきまであった手応えが、どこにも残っていない。代わりに、軽さだけが残る。軽い。軽すぎてこのまま消えても誰も困らない気がする。
腹が減っていることに気づく。思えば、朝から何も食べていない。途中でコーヒーを飲んだだけで、何も口にしていなかった。弁当でもいいかと思う。考えるのが面倒だった。冷蔵ケースの前に立つ。光が強い。中の弁当が、少しだけ浮いて見える。値札の数字が、頭に入らない。一つ一つ見ても、どれも同じに見える。何を選んでも変わらない気がする。そのとき、隣に人がいることに気づく。
女だった。手に小さなトートバッグを持っている。使い込まれているのか、少しだけ色が抜けている。中に何が入っているのかは見えないが、軽そうだった。弁当の前に立っている。手は動いていない。値札も見ていない。ただ、その場にいる。一瞬だけ目が合うが、すぐに逸らされる。
「決まらないんですか」
言ったあとで、余計なことを言ったと思う。普段なら、他人に話しかけたりしない。店で見かけた知らない人に、わざわざ声をかける理由もない。
「……別に、お腹空いてないんで」
それだけ言い、そのまま横をすり抜けていく。何の匂いもしなかった。香水でも、柔軟剤でも、煙草でもない。人が通ったときに普通なら少し残るはずのものが、何もない。残された空間だけが、少し空く。冷蔵ケースの光だけが、やけに白い。
お腹が空いていないのに、どうして弁当の前にいたのか考える。うまく理由が思いつかない。考えても仕方がないので、適当に値引きシールの貼られた弁当を取る。唐揚げ弁当だった。レジで会計を済ませる。店員は何も言わず、機械みたいにバーコードを通す。ビニール袋が開く音だけが乾いている。袋を受け取って外に出る。
夜が、少し静かすぎる。さっきまであったはずの音が、どこかに引いている。通りの向こうの車の音も、信号の電子音も、どこか遠い。
入口の横に、女がいた。壁にもたれて、何もしていない。スマホも見ていない。誰かを待っているようにも見えない。ただその場に立っている。
「帰らないんですか」
自分でもなんでまた声をかけたのかわからない。女は少しだけ顔を上げる。
「……帰るとこ、ないんで」
それだけ言って、また視線を落とす。車が一台通り過ぎる。音はすぐに遠くなる。そのあとに残る静けさが、やけに長い。ここに立っている理由が、急にわからなくなる。弁当の袋が手の中で軽い。中身が入っているはずなのに、重さがはっきりしない。女は動かない。このままでも、特に困っているようには見えない。だからといって、放っておく理由も見つからない。何か言おうと思う。うまく言葉が出てこない。
「……その」
一度、止まる。言いかけて、やめる。女は何も言わない。ただこちらを見ている。急かすわけでも、待つわけでもない視線だった。
「……とりあえず」
また止まる。何がとりあえずなのか、自分でもわからない。少し考える。でも、考えても変わらない気がする。
「来ます?」
言ってから、少しだけ後悔する。理由がないし、説明もできない。断られてもおかしくないと思う。女は、少しだけ間を置く。考えているのかどうか、わからないくらいの間だった。
「……いいんですか」
「別に」
すぐに答える。それ以上の言葉は出てこない。女はそのまま、小さく頷く。それで決まる。あまりにも簡単に決まってしまう。そのことに、少しだけ違和感が残る。
帰り道は、いつもより長く感じた。同じ道のはずなのに、見慣れたはずの景色が少しだけ遠い。街灯の光が、間隔を空けて並んでいる。その一つ一つの下を通るたびに、明るくなって、また暗くなる。その繰り返しが、やけに遅く感じる。歩く。足音がする。もう一つ、足音がする。少し遅れて、同じリズムで続く。
一瞬だけ、足音が消える。自分の足音だけになる。そのまま数歩進んで、また、もう一つの足音が戻る。さっきと同じ距離で。最初からそこにあったみたいに、何事もなかったみたいに。
振り返らない。振り返らなくても、後ろにいることはわかる。後ろの足音だけが、妙に正確に聞こえる。自分の足音と重ならない。
少しだけ速く歩く。間隔は変わらない。試すみたいに、歩幅を変える。それでも、変わらない。一定の距離が保たれたまま、ついてくる。そのことだけが、頭に残る。
何か話しかけようと思い言葉を探すが、うまく見つからない。
「寒くないですか」とか、「どこから来たんですか」とか、思いつくものはあるのに、どれもなんか違う気がする。口に出す理由がない。結局、何も言わず沈黙のまま歩く。電柱の影が、足元に伸びる。二つ分の影が、少しずれて重なる。重なりきらないまま、また離れる。その繰り返しが続く。女の気配はある。足音もある。それなのに、どこか実感が薄い。本当に後ろにいるのか、一瞬だけわからなくなる。確認するために振り返ろうとするが、やめる。いなかったら困る。手に持っている袋が、少しだけ揺れる。中の弁当が当たる感触があるはずなのに、はっきりしない。
軽い。軽すぎる。歩いている感覚も、少し曖昧になる。足が地面についているのに、少しだけ浮いているみたいに感じる。そのまま歩き続ける。信号が青に変わるまでの時間が、やけに長い。待っている間も、後ろの気配は変わらない。隣に来ることはない。距離はずっと同じまま。青になり、渡る。横に並ぶことはない。後ろにいる。それがずっと続く。
部屋の近くまで来る。見慣れたはずの建物が、少しだけ違って見える。照明の色が、やけに白い。入口の前で止まり、鍵を取り出す。ポケットの中の金属の感触が、少しだけはっきりしている。やっと、ちゃんと触れている感じがする。鍵を差し込み、回す。金属音が、夜の中で大きく響く。ドアを開け、そのまま少しだけ立ち止まる。中に入る前の、この一瞬がやけに長い。振り返らないまま言う。
「どうぞ」
女は迷わず中に入る。躊躇がない。それが少しだけ引っかかる。そのあとに続いて中に入る。ドアを閉める。外の音が切れる。さっきまでの距離も、一緒に切れる。
部屋は、広くない。ソファベッドとテーブル。壁際に並んだ機材と楽器。生活に必要なものより、音を出すためのものの方が多い。昨日のカップ麺の容器と、空いた缶チューハイ。コードの束。机の隅のUSBメモリ。床に置いたままのヘッドホン。昨日のゴミをまとめて、袋に押し込む。急に恥ずかしくなったわけではない。ただ、そのままにしておくのは少し違う気がした。
女は部屋を見ている。興味があるのかないのか、判断できない。珍しそうでも、退屈そうでもない。ただ視線だけが、ゆっくり動いている。やがて、機材の前で止まる。つまみを一つずつ確かめるみたいに、見ている。
「ミュージシャンなの」
振り向かないまま、言う。
「そうだよ。売れてないけど」
少しだけ間があって、
「売れてなくてもいいじゃん」
それだけ返ってくる。意味はよくわからないが、否定する気にもならなかった。
唐揚げ弁当を袋から出して、電子レンジに入れる。時間を押して、スタートボタンを押す。低い音が部屋に広がる。その間も、女は機材の前に立っている。
「ずっとやってるの」
「まあ」
「楽しい?」
少し考える。すぐに答えられないことが、嫌だった。
「わからない」
そのまま言う。女は黙っている。それで会話が終わると思ったが、少し間を置いて、また聞く。
「やってるときは?」
「やってるときは……まあ」
言いながら、自分でも曖昧だなと思う。
「集中してるだけかもしれないけど」
女は小さく頷く。
「終わった後は?」
少し間が空く。答えはすぐに出ているのに、言葉にするのが少しだけ面倒だった。
「何もない」
それだけ言う。
「達成感とかは?」
「最初はある」
少し考える。
「でも、すぐ消える」
言いながら、その感覚を思い出す。完成した直後だけ、確かにある。でもそれも、長く続かない。
「気づいたら、もう次のこと考えてる」
「同じ音を、ずっと並べてるだけな気がしてくるんだよ」
少しずつ言葉が出てくる。
「頭の中ではちゃんと鳴ってたのに、出した瞬間に急に薄くなるっていうか」
うまく説明できている気がしない。それでも続ける。
「繰り返してるだけで、どこにも進んでない感じがする」
女はそこで初めて少しだけ顔を上げる。
「進んでなくてもいいじゃん」
あっさり言う。少しだけ、引っかかる。
「いや、それは」
言いかけて止まる。何が違うのか、うまく言えない。
「それは、意味ないだろ」
女は少しだけ考える。
「でも、やってるんでしょ」
「まあ」
「じゃあ、意味あるんじゃない」
間が空く。その言い方は少し雑だと思う。
「意味があるかどうかじゃなくてさ」
言葉を探す。
「止めると、何もなくなるんだよ」
そこまで言って、息を吐く。
「音がなくなるっていうか」
頭の中に、さっきまで作っていたフレーズが浮かぶ低い音が続いて、その上に高い音が重なる。単純な繰り返し。それでも、完全に同じにはならない。
「ずっと鳴ってるんだよ、頭の中で」
女は黙って聞いている。
「止めると、それも消える」
少し間が空く。
「それが、なんか嫌なんだよ」
言い終わってから、自分でも納得していない感じが残る。女はゆっくり頷く。
「じゃあ、別に好きじゃなくてもやるってこと?」
「好きかどうかは……わからない」
正直に言う。
「嫌いではないけど」
「やめたいと思ったことは?」
すぐに答えられない。少し考える。
「ある」
短く答える。
「でもやめないんでしょ」
「やめる理由もないし」
「やる理由もないのに?」
言葉が少しだけ詰まる。
「……そうだな」
女は少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、なんでやってるの」
同じ質問に戻っていることに気づく。答えはさっきと同じはずなのに、少しだけ違う形で考える。
「空っぽになるのが嫌なんだと思う」
言いながら、自分でも少しだけ納得する。
「音があると、まだ自分に何かある感じがする」
少し間が空く。
「なくなると、急に何もなくなる」
「今も別に何もなくないですか」
少しだけ、言葉が止まる。反論しようとして、うまく出てこない。
「……それは」
言いかけてやめる。確かにそうかもしれない。それでも、何か違う気がする。
「でも、完全に何もないのとは違うだろ」
女は少しだけ顔を上げる。
「どう違うの」
すぐには答えられない。少し考える。
「……音があると、時間が進んでる感じがする」
言いながら、自分でその言葉を確かめる。
「止まってないっていうか」
女はそれを聞いて、小さく頷く。
「それは、生きてるからじゃない」
それだけ言う。その言い方は、さすがに簡単すぎる気がする。
「それだと、何でもそうなるだろ」
「そうじゃないの」
あっさり返される。間が空く。それ以上、言葉が続かない。時計の音だけが残る。同じリズムで、ずっと続いている。その音を聞いていると、さっきの会話と少し重なる。止まらない音。終わらない繰り返し。ふと、少しだけ不安になる。
それ以上は何も聞いてこなかった。弁当を取り出して、テーブルに置く。弁当の蓋を開ける。薄く湯気が上がる。すぐに消える。割り箸を割る。乾いた音が、少しだけ大きく感じる。女は、いつの間にかソファベッドに座っている。何も言わない。動きも少ない。少し距離を空けて隣に座る。
「一緒に食べる?」
女は一度だけこちらを見て、それから小さく頷く。それだけで、また視線が落ちる。箸を渡す。指先が一瞬だけ触れる。温度がわからない。女は弁当を見る。やがて、ゆっくりと箸を動かす。一口だけ取る。箸の持ち方はきれいだった。慣れている手つきで、それ以上は動かさない。無理に食べようとする感じもない。食べないことにも、特に理由がなさそうだった。袖口が少しずれている。手首の辺りに、薄い線がいくつか走っている気がした。よく見ようとする前に、袖に隠れる。弁当はほとんど減っていない。自分の方も、箸を動かす。唐揚げを一つ口に入れる。味はあるはずなのに、はっきりしない。噛む。油の感じだけが残る。飲み込む。それだけ。もう一口、と思うが、少し遅れる。口に運ぶまでに、間がある。
沈黙が続く。咀嚼の音だけが部屋に残る。それもすぐに消える。食べているのに、進んでいる感じがしない。弁当が減っているのかどうかも、よくわからない。時間だけが、少しずつ過ぎる。女はまだほとんど食べていない。一口で止まったまま、弁当を見ている。食べる気があるのかないのか、わからない。何を考えているのか、到底わからない。そのまま、何も言わない。
「なんで、やめないの」
静寂を破るように、不意に女が言う。箸が止まる。
「……何を」
「全部」
少しだけ首を傾げる。
「音楽も、生活も」
わずかに間があって、
「……生きるのも」
言葉を選ぶ様子はない。ただ並べただけ、という言い方だった。少しだけ間が空く。
「死ぬのが怖いから」
自分でも考えるより先に、言葉が出ていた。女は小さく頷く。
「へえ」
それだけ言って、また弁当に視線を落とす。
「私は、別にやめてもいいですけど」
「そういうの、軽く言うなよ」
声が、勝手に強くなる。女は顔を上げない。
「軽くは言ってないです」
「……本当に、どっちでもいいだけ」
それ以上続けない。
また静かになる。箸を持ったまま、手が止まる。口に運ぶことを、忘れる。
さっきまで食べていたはずなのに、味が消える。噛んだ感覚だけが残っている。飲み込む。それも、どこか遅れる。息を吸う。空気が入ってこない。もう一度吸う。今度は少し入る。でも足りない。もう一度。同じところで止まる。胸の奥だけが動いている。息が浅い。浅いまま、続く。
弁当に視線を落とす。白いご飯がある。それが、少し遠い。距離は変わっていないはずなのに、なぜか遠く見える。焦点が合わない。なんとか合わせようとするが、合わない。
箸を握る。指に力を入れる。感覚が薄い。触れているはずなのに、触れている感じがしない。自分の手じゃないみたいに、ほんの少し遅れて動く。視界の端が暗くなる。暗いというより、抜ける。そこだけ、何かが足りない。
部屋の音が遠くなる。冷蔵庫の音。さっきまで聞こえていたはずなのに、今は薄い。外を通る車の音。どこか別の場所で鳴っているみたいだ。距離が、全部ずれていく。
近いものと遠いものの区別が、曖昧になる。耳に入る順番だけが、かろうじて残る。
息を吸う。吸えない。吐く。それも浅い。呼吸のやり方を忘れたみたいになる。「吸う」という行為を、頭の中で一度確認してからやらないとできない。確認している間に、また遅れる。
気を紛らそうと、何か考えようとする。別のこと。音楽でもいい。さっきまでやっていたフレーズ。低い音。その上に重なる音。頭の中で再生しようとする。でも、その音も途中で途切れる。再生しようとした瞬間に、形が崩れる。音だったはずのものが、ただの記号みたいに変わる。何もつかめない。
その空白に、別のものが入り込んでくる。
死んだらどうなる。
考えた瞬間、止まる。
一瞬だけ、何も続かない。そのあと、ゆっくりと続きが流れ込んでくる。
その先。考えようとする。考えない方がいいとわかる。でも止まらない。考える前に、もうそこにある。
理解してしまう。想像じゃない。ただの仮定じゃない。もう起きていることみたいに、そこにある。
――終わらない。
終わりがない。時間がない。進まない。それなのに、止まらない。どこにも辿り着かないまま、同じ場所に留まり続ける。
空間が広がる。広がる、というより、境界がなくなる。どこまでが自分で、どこからが外なのか、わからなくなる。
何も触れられない。触れた感覚がない。触れる対象もない。ただ、ある。あるだけ。その“ある“が、ずっと続く。
一人になる。完全に。誰もいない、というより、“他人”という概念が消える。比較するものがない。
自分が自分である理由も、なくなる。意識だけが残る。消えない。消えないまま、続く。時間がないのに、“ずっと”がある。矛盾しているのに、それが成立してしまう。
終わらない。終われない。どこにも行けない。戻る場所がない。そのまま。
ずっと。ずっと。ずっと。
「……無理だ」
声が漏れる。小さく言ったつもりなのに、うまくコントロールできない。
「死にたくない」
口から出る。止められない。
「死にたくない」
もう一度。同じ言葉を繰り返す。
「死にたくない、死にたくない」
どんどん速くなる。止まらない。言葉にしないと、消える。そのまま、どこかに落ちる。
「死にたくない」
何度も言う。同じ音を繰り返す。意味があるのかもわからない。それでも続ける。それしかできない。
視界の端に、女がいる。同じ場所に座っている。全く動かない。表情も変わらない。ただ、こっちを見ている。その視線だけが、まだここにある。それ以外が、遠くなる。音も、距離も、時間も。全部、外れていく。女だけが、残る。
沈黙のあと、女が言う。
「そんなに怖いなら、生きればいいじゃん」
言葉が遅れて届く。意味を考える前に音だけが残る。息を吸う。さっきより、少し入る。もう一度。今度は止まらず、胸の奥まで、ゆっくり落ちていく。
「……お前は、怖くないのかよ」
声が掠れる。女は少しだけ間を置く。考えているのかどうか、わからないくらいの間だった。
「怖いよ」
あっさり言う。それから、少し視線をずらして、
「たぶん」
と付け足す。それ以上、何も続けない。
部屋の中に、また静けさが戻る。さっきまで遠かったはずの音が、少しずつ近づいてくる。冷蔵庫の音。外の車の音。どちらも、ちゃんとこの部屋の周りにある。呼吸も、少しずつ整っていく。吸う。吐く。それだけを何度か繰り返す。
どれくらい時間が経ったのかわからない。気づいたときには、横になっていた。いつの間にそうなったのかは覚えていない。女も隣で寝ている。電気はついたままだった。
朝になっていた。白い天井が、夜の続きみたいに見える。けれど、昨夜の白さとは少し違う。光は同じはずなのに、重さが違う。横を見ると、女がソファベッドで寝ている。同じ姿勢のまま、ほとんど動いていない。呼吸だけが、ゆっくり続いている。
数時間前のことが、やけに遠く感じる。完全に消えたわけじゃない。思い出そうとすれば、すぐそこにある。ただ、手を伸ばさないと触れないくらいの距離になっている。身体の感覚が、まだ少し曖昧に残っている。手を握る。ちゃんと握れているはずなのに、遅れて感覚がついてくる。立ち上がる。床の硬さが、さっきよりはっきりしている。完全に戻ってはいないが、立っていられるくらいには軽い。軽いまま、崩れない。それだけで十分だった。
テーブルの上を見る。弁当は途中のままだった。唐揚げの衣が、少ししんなりしている。昨日の夜の途中が、そのまま残っている。それを見ていると、時間が一度止まって、また動き出したみたいに思える。弁当のゴミをまとめる。ラップの擦れる音が、朝の部屋に小さく響く。音がある。頭の中で、さっきまで作っていた音が、まだ小さく鳴っている。完成したはずのフレーズが、今になって少しだけまともに聞こえる。同じ繰り返しなのに、ほんの少しだけ違って聞こえる。理由はわからない。
「おはよう」
振り返ると、女が起きていた。起きたばかりなのに、表情はあまり変わっていない。
「おはよう」
一言だけ返す。しばらく沈黙が続く。
「大丈夫なの」
女が言う。声の調子は変わらない。
「まあ」
短く答える。本当かどうかは、自分でもよくわからない。
「さっきみたいなの、よくあるの」
少し考える。
「たまに」
「そうなんだ」
それだけ言う。心配している感じはない。興味があるのかもわからない。ただ、確認しただけのような言い方だった。それが少しだけ楽だった。
二人で外に出る。ドアを開けると、冷たい空気が入ってくる。夜の空気とは違う。輪郭がはっきりしている。遠くの音も、ちゃんと距離がある。同じ道を歩く。昨日よりも、足音が揃って聞こえる。後ろにいる感じはしない。同じ方向に歩いている感じがする。
同じコンビニに入る。自動ドアの開く音。レジの電子音。棚を整える音。どれも、今度はちゃんと近い。少しだけ安心する。
弁当コーナーの前に立つ。昨日と同じ光なのに、少しだけ違って見える。白いまま、ちゃんとそこにある。消えそうではない。
「どれでもよくない」
女が言う。
「それでも、選ばないと腹減るだろ」
言ってから、自分でも変な言い方だなと思う。けれど、それ以外にうまく言えない。少し迷う。何を選んでも同じかもしれない。それでも、選ばないといけない気がする。
女が先に幕の内弁当を手に取る。昨日は何も選ばなかった手が、今日は動いている。隣の弁当を取る。理由はない。ただ、選ぶ。それだけでいい。レジに向かい、女がポケットから小銭を出す。そのとき、袖が少しだけ上がる。昨夜と同じ場所に、同じ線がある。今度ははっきり見えたような気がする。それでも、何も言わない。見なかったことにする。
外に出ると、光はやっぱり少し白かった。けれど、昨日みたいに抜けていく感じはしない。そこに留まっている。消えない。それでも、完全に安心できるわけでもない。まだ、不安は残っている。たぶん、また来る。理由もなく、同じように。隣を見る。女が歩いている。同じ速度で、同じ方向に。何も言わない。それでも、ほんの少し現実が重くなる。軽すぎない。それだけで、十分だった。
ふと、昨日の言葉を思い出す。
たぶん、怖い。
それでもいいと思った。
【おわり】




