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ショートストーリーズ

逆さ顔

作者: 遠部右喬

 テーブルに置いたマグカップに手を伸ばし、ぎくりとする。なみなみと注がれているコーヒーに何かが映り込んでいた。

 鳥肌が立つ。


 顔だ。


 ざんばらの髪に囲まれ、陰気臭くて男だか女だかも分からない皺だらけの顔が、天井に浮かんでいるのだ。額を此方に向け顎を彼方に、口を下弦の月のようににやにやと笑いに歪め、ぎょろりとした目で私を見上げている。

 恐る恐る天井を見上げたが、何もない。マグカップには変わらず顔が浮かんでいるのに。直接見ても見えないのだろうか。

 ふと思いつき、手鏡を持ってきてテーブルに置いたマグカップの隣に並べ、天井を映す。

 やはり居る。コーヒーにも、鏡にも、逆さのそれはしっかりと映り込んでいる。

 カップと鏡の中で唇が動いた。


「明日は雨」


 やけに澄んだ声がはっきりと聞こえ、次の瞬間、逆向きの顔は消え失せた。白昼夢? そうかもしれない。

 溜息を吐き、マグカップを手に立ち上がる。あんなのが写り込んだものなんて飲む気はしない。まだ、一口も口を付けてないのに。コーヒーを捨て、マグカップもきれいに洗った。ついでに何となく、漂白もしてやった。

 それにしてもさっき聞こえたのはなんだったのだろう? まさか、予言?


 翌朝の空は、気持ち良く晴れ渡っていた。何だ。折角夜のうちに、傘やら雨用の靴やらを用意しておいたのに。

 少しがっかりしている自分に驚き、ようやく、訳の分からない存在の言葉を信じてしまっていたことに気付く。


 ――馬鹿馬鹿しい。疲れてるんだ、屹度。


 朝日が差し込んでいるせいだろうか、不思議と恐ろしさは感じなかった。

 念の為にと、折り畳み傘を鞄に忍ばせ、雨用靴のまま出勤したが、勿論その日は雨なんて一粒たりと降らなかった。



 それからも度々、独りでいる時に顔は現れた。

 コーヒーに映る天井に。

 洗面所で。

 風呂に浸かっている時に。 

 肉眼では決して見えないのに、何かに反射した時にだけ天井に見える逆さ顔は、現れる度に予言を一つ口にした。


「宝くじで百万円当たる」


「出張先で列車の事故に巻き込まれる」


「プロジェクトのリーダーに大抜擢される」


「次のデートで振られる」


 いい予言も悪い予言も、悉く外れた。百パーセント外れるなんて、ある意味最強の予言だ。

 内容自体は身近なネタが殆どで、世界を揺るがすようなものはひとつもない。代り映えのしない日常を過ごす身には、正直、「だから?」としか思えず、恐怖の湧きようもない。時折視界に映り込む顔の悍ましさも、見慣れてしまえばどうということもなかった。


 そんなある日の夜、数か月ぶりに顔が現れた。前回から随分と間が開いたせいか、まるで初めて見る様な不思議な感覚を覚える。こいつはいつも、こんな顔で笑っていただろうか。


「お前は死ぬことはない」


 勿論、その声はいつも通りの声で、予言を終えたら消えてしまうのもいつもの事だ。

 だが……どうしてあの顔は、態々そんな言葉を残したのだろう。絶対に外れる予言ならば、「お前は死ぬ」ということだ。人間はいずれ必ず死を迎える。そんな当たり前のことを――そこまで考えてぞっとした。

 予言の結果は、「いずれ」ではなく、「もうすぐ」に迫っているということなのではないか? 考えてみたら今迄の予言の殆どは十日以内に結果が確定していた。なら、今から十日前後の間に自分の身に何かが起こるのかもしれない。


 いやだ。まだ死にたくない。

 怖い。怖い。怖い。


 身を縮込め震えながら、必死に考える。

 先月、会社の健康診断があったが、結果は至って健康だった。だとしたら、事故? 下手に家から出ない方がいいだろうか。幸い、仕事はリモートワークで何とかなるし、繁忙期じゃないから、いざとなれば休みも取りやすい。

 急病や突発的な事故に備えて、スマホは部屋の中でも常に首から下げておこう。流石に風呂には持ち込めないが、脱衣所の手を伸ばせばすぐに届くところに置いておく。扉も締め切らない。


 そうだ。これまでは自分から予言に積極的に関わる事が無かっただけで、本当は今迄だって、予言の結果を変えることが出来たのかもしれない。もしかしたら努力次第で、十日を乗り切れるんじゃないか。

 少しだけ気持ちに余裕が生まれる。それにしても、あの顔は一体何なのだろう。

 醜い顔に辛気臭い笑いを浮かべ、外れる予言ばかりを告げる。しかも今日のあいつは、いつも以上ににやにやと不快に笑って見えた。尤も、いくら考えたところで、化物の正体など答えが出る筈も無かった。


 兎に角、生き延びなければ。


 ――そして十一日目。何も無かったように昨日の延長に朝を迎え、大きく伸びをする。爽やかな朝だ。無事、退屈で輝かしい日常を取り戻すことが出来たということで、いいんじゃないだろうか?

 そうだ。きっと、予言に勝ったのだ。

 明日は幸い日曜日だ。念の為、明日一日は様子を見て、月曜には出社しなくちゃ。仕事に行くのが嬉しいなんて初めてだ。

 予言を外したあの顔は、次に現れる時にどんな表情をしているのだろう。そんな考えがちらっと過ったが、確かめることは叶わなかった。

 あの予言を最後に、顔が現れることはなかったのだ。



 あれから数十年も経つ。私はすっかり老いさらばえ、あちらこちらにガタがきた身体を引き摺り、それでもここまで生きてきた。周りにはもう、見知った顔はひとつもない。皆、とっくに彼岸の住人だ。結局家族も持たなかった。

 この処、どうしても考えてしまう事がある。

 あの予言は、どうして外れたのだろう。最後に見たあの顔に、何故違和感を覚えたのだろう、と。

 違和感の正体には薄々気づいていた。あの時、あの顔は確かにいつもと違っていた。顔そのものが違っていたのではない。その向きが違っていたのだ。

 逆さではなく、鏡を覗き込んだ私と同じ向きに天井に浮かぶ顔。それが意味していること。


 逆向きの顔から発する言葉は全て外れるなら、逆さではない顔が告げるのは全て……。


 怖ろしい。衰え続ける身体に縛られたまま、永遠を……?

 それとも、私の頭はとっくにおかしくなっていて、そんな妄想に憑りつかれているだけなのだろうか。

 私は台所に行き、震える手で包丁を握った。これで首を掻けばはっきりするだろう。でももし、生き延びてしまったら……包丁を元に戻し、食器棚にもたれる。ふと、ふり返る。


 食器棚のガラスに映る私の顔には、あの日見た顔とよく似た表情が浮かんでいた。

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