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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

いつつの四季

いつつの四季03『秋雨に舟をこぐ』

作者: 藤邑微風

大切な人を思う気持ちが強くなりすぎて、道を見失ってしまう人。道を見失ってしまった大切な人がいつでも帰ってこられるように、いつまでも待ち続けている人。


やっぱりいい匂い。

『秋雨に舟をこぐ』


言葉は、たくさん取り込んできた。

知りたいことが多かったからだ。

だが、知ろうとすればするほど、知らないことばかりが増えていく。


とりとめもなく言葉を交わしたあの友人は、今ごろ何をしているのだろう。

相変わらず私は、こうして深夜の誰もいない道を散歩している。


切れかけた民家の玄関の灯りが、明滅を繰り返している。植木鉢のそばでは、猫のつがいが身を寄せ合って眠っていた。昼間は忙しかったのだろう。

どこかの家からは、洗濯物に使われた柔軟剤の香りがふわりと鼻をくすぐる。


さっき玄関を出たときから、鼻先に雫が落ちてきていた。そういえば、雨の予報をどこかで聞いた気がする。


「夜は自由だね。」


朝に弱い私は、目が覚めた瞬間から数時間は自分の体に自由を奪われている。日中は社会に束縛され、夜になってようやく、そのすべての枷を熱めのシャワーで洗い流すと、私だけの時間が始まる。


……雨、か。

そういえば、君はどんな言葉を雨に与えていたっけ。


ふいに、鼻先をくすぐる雨の匂いとともに、あの声が耳の奥で蘇る。

***


春の午後。始業式が終わっていつものあの場所に並んで座っている。

まだ冬の名残がほんのわずかに残る柔らかな日差しの中で、唐突に始まった会話。


「春雨はさ、おいしいんだよ。カロリーも低いしさ。」


「……突然なんですか。」


「でもさ、春の雨ってちょっと茹ですぎなんだよなぁ。あったかくて、優しい感じがする。」


「ちょっと分かる気がするの、腹立ちますね。」


「ほうほう。やはり君は私の友人だねぇ。」


「はいはい。五月雨、にわか雨、叢雨……七夕に降る“酒涙雨さいるいう”なんてのもありますよ。私は“小雨”って言葉、好きです。なんだか獰猛なサメがちんまりとした姿で降ってくるような、滑稽な感じがあって。」


「意外とおちゃめなところもあるんだねぇ。好きだよ、そういうとこ。」


「茶化さないでください。自分だって食いしん坊なところあるくせに。でも不思議ですよね、雨を表す言葉って本当にたくさんあって。」


「そうだねぇ。“狐の嫁入り”なんて雨の字が一文字も入ってないし。」


「水辺って、特別だと思うんです。小川や湖、波打ち際……気分によって見え方が違うし、包み込んでくれる柔らかさもそれぞれ違う。生活圏にあるときもあれば、少し遠くに行かないと出会えないこともある。だから雨は、そんな水辺を、今いる場所に届けてくれるものなんじゃないかって。」


「まるで出前だね。おなかすいたなぁ~。」


「ほらまた。この食いしん坊。」


「へへへ~。」


***


懐かしい。ちょっぴり生意気な後輩。


目的地があるときは、道を曲がる回数が少ない。

何かしらの時間に縛られているから、無駄な道を自然と避けてしまう。

でも今夜は違う。


結局同じ場所にたどり着いてしまうような脇道でさえ、選べる自由がある。

少しずつ雨足が強まっていく。水に濡れるのは嫌いじゃないが、風邪をひいて寝込むのは望むところではない。


バス停の屋根の下、少し雨宿りでもしようか。


***


「うーーー!寒い!言葉ってさ、“泰然自若”みたいな顔して澄ましてるけど、温度には弱いと思うんだ。」


「寒いからって毛布のまま学校に来る先輩よりは、言葉のほうが強いと思います。」


「あったかーいそばが食べたいなぁ。」


「そばはザルでしょ。」


「ほらほら!君にとって“そば”ってどんな言葉?」


「ざるそば。冷たくて、つるっとしていて、さわやかで、外はカンカン照りなのに日陰の屋内で食べる感じ、とか……」


「でしょ!私には“あったかい”んだ~。冷たい空気の中で、湯気が鼻の先にあたって、フーフーしてからすするんだよ。お出汁の香りが脳に染みるの。ちょっと柔らかくなった麺に汁がよく絡んでさ~。」


「……ざるそばにだって温かい要素はありますよ。第一、南極の極寒の中でざるそばなんて食べたくないですし。」


「いいこと言うねぇ。平凡を謳歌できるからこそ、ざるそばが美味しいんだねぇ。」


「人をつまらない人間みたいに言わないでください。」


「あはは。そんなつもりはないよ。こうして君と話す時間は、ウィットに富んで楽しいから。」


「……先輩のウィットには、さすがについていけませんけどね。」



***

秋雨。

だが、かつてこの頬に触れた雨とはどこか違う。


空気には鉱物のような鋭さがあり、冷たさの奥に鉄の匂いが混じっている。

季節はまだ「秋」と呼ばれているが、数年前から繰り返される微細な気候改変のせいで、昔のような“秋らしさ”は、もはや記憶の中にしか存在しない。


気象庁はそれを「段階的適応」と呼んだ。だが、彼女にとっては、誰にも気づかれずに少しずつ歪められていった時間の改竄だった。


昔はもっと、柔らかかった。

頬を打つ水の粒が、優しく皮膚に染み込んでくるような気がした。

今は違う。突き刺すような冷たさが風に乗り、容赦なく身体の奥まで侵入してくる。


だが、その痛みにも理由がある。

この痛みが「今ここにいる」証であるなら、否定などできなかった。


――パァン。


乾いた音が耳を裂く。

次いで、もう一発。


視界の右端で、装甲の薄いスリットカーが爆ぜた。

焼け焦げたガラス片が、スローモーションのように宙を舞う。


「エレクトロショット確認、二時方向!隠れろ!」


ヘルメット越しに聞こえる隊長の怒声。

応じた仲間の一人が、次の瞬間には脚を失っていた。

内蔵義肢のジョイントがひしゃげ、若い兵士の叫び声がデジタルに増幅されて無線に響く。


彼女は咄嗟に、崩れかけた監視塔の陰へと身を滑り込ませた。

背中のバッテリーパックがコンクリートにぶつかり、鈍い音を立てる。


「……判断が、遅い。」


それは自分の声だったが、誰のものでもないように響いた。


大学では戦術理論の論文で最高評価を得た。

ドローンオペレーションでも首席。

士官候補生バッジを誰よりも早く手にした。


だがここは、教室じゃない。

シラバスにも、シミュレーターにも、“人が目の前で破裂する現実”は記されていなかった。


震える指先をどうにか制御ユニットへ伸ばす。

背後でまた一発、金属を砕く音。

脳がそれを「銃声」と認識する前に、膝が崩れ落ちた。


――先輩。


雨に濡れた前髪が視界に張りつく。

この雨は違う。だけど……


「“狐の嫁入り”…でしたっけ。」


あの人が笑っていた横顔が、ふいに思い出された。

誰にも踏み込ませないくせに、いつも優しさの余白だけはくれた人。


「……私、間違えたのかな。」


走る。だが、身体は思うように動かない。

骨伝導スピーカーが、破裂音と隊長の罵声とを交互に垂れ流している。


爆薬の煙が辺りを覆い、視界が霞む。

オーバーレイ表示が警告を点滅させる中で、彼女は咄嗟に遮蔽壁の裏へと滑り込んだ。


「――わたし、ここに来たかったんじゃ……ない。」


何のために銃を持っているのか。

誰のために標的を定めているのか。

答えは、既に手の中にあったはずだった。


“誰かを大切に思う気持ちが、強くなりすぎて道を見失ってしまう人。”

先輩は、そんな私を知っていた。


その言葉を交わした日の記憶が、鮮やかによみがえる。


「自分に正直でいることって、難しいですね。」


「言葉ってね、盾にもなるし、剣にもなる。だけど、一番大事なのは舟だと思うんだ。」


「舟、ですか?」


「うん。どこかに行くために漕ぐ舟。でもね、全部の舟が進むためにあるわけじゃない。誰かが帰ってこられるように、ただ浮かんでいる舟だってあるんだよ。」


「……誰かのために、ですか?」


「うん。戻って来られるように、ただ待っている舟。雨のなか、静かに浮かんでいるだけの舟も、きっとある。」


頭上に、再び爆音が轟いた。

だが、それを耳にしながら、彼女の内側に流れていたのは、嵐ではなく、ひとしずくの雨音だった。


「帰らなきゃ……ちゃんと、自分で。」


足元に落ちた雫が、白い舗装をじんわりと染める。

秋雨だった。ほんとうの、秋の雨だった。


通信装置を握りしめる手に、力が戻っていく。

恐怖も、痛みも、過去も、すべて背負って今を選ぶ。


それが、自分を見失わないということ。

あの人が教えてくれた「舟」のように、いつか誰かを迎える存在になるために。



***


「雪って、進んでいけそうな言葉なのに、どこかおとなしいですよね。積もると街の音が全部吸い込まれて、時間が止まったみたいで。でも、静かすぎてなんだか賑やかっていうか……」


「あー、なんか分かる気がするな~。」


「「雪の妖精がお祭りしてる的な?」」


「は?」


「え?」


「なんでそんな独特な表現でハモるんですか。」


「ふふーん。だってうちら、似た者同士ですからね~。」


「妖精たちにしか聞こえない音で騒いでいるんだけれど、それが空気の振動を邪魔して、世界が静かになってるような気がする、みたいな。」


***


追憶の中の雪の静けさに、あの日の言葉が鮮明に溶けていく。


夜は自由だ。そして、静かでもある。

壁一枚の向こうに人がいて、眠っていたり、起きていたり、笑っていたり、憂鬱だったり……そんな世界に、私は今もいる。


明日もこのペンを武器に、言葉を紡いでいこう。


「うーん。これは止まないね。走って帰るとしようか!」





***


あの後、私は軍を退役した。

負傷と、精神的な損耗――診断書に並んだ文言は、私自身が自覚していたよりもずっと冷たく、静かだった。


与えられた退役手当と少しの荷物だけを持って、私はこの島に来た。

南国。青と緑のあいだにあるような、色彩豊かな小さな楽園。


陽光はいつもやさしく、海からの風は肌を撫でてくれる。

けれど、私の目に映る世界は、どこか薄く、白っぽく感じられた。

輪郭の曖昧な日々が、ただ、音もなく流れていった。


目的も、意味も、なかった。

何かを始めようにも、手を伸ばす気力すら起きなかった。


それでも――

それでも、時間というものは、否応なく心を侵食し、やがて微細な変化を芽吹かせる。


何かを、探している気がしていた。

形のない「何か」。名前を持たない想い。


ある日、私は、いつものように浜沿いを歩いていた。

船着き場を通り過ぎるとき、微かな違和感が胸を掠めた。


匂いかもしれない。

音かもしれない。

それとも、誰かの気配。


すれ違った誰かの残り香に、私は心の奥底を軽く叩かれたような感覚を覚えた。

理由もわからぬまま、振り返って走り出す。


定食屋は地味で、どこにでもあるような店だった。

のれんは潮風に揺れ、軒先には釣り道具の残り香が漂う。

何度か来たことがある。けれど、今は何かが違っていた。


扉の隙間から、懐かしい声が聞こえてきた。


「―――だよね~!そうそう。やっぱり蕎麦はあったか~いのがいいんだ~。」


……!!


その声は――確かに、彼女だった。



「あんた、珍しいお客だねぇ。こんな暑い島まで来て、あったかい蕎麦だなんて。」


のれんを掴んだ手が震える。

目の前の景色が、急に色を取り戻すような気がした。

白っぽくぼやけていた世界に、朱や碧がじわじわと差し込んでくる。


心臓の音が早まる。鼓膜が熱を帯びる。

たしかにそこにいる。かつての私の光が。


私は、そっとのれんを押し上げた。


「いやいや。そばはザルでしょ!」



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