第3話 公爵夫人【3】
木々が鬱蒼と生い茂った森の中は、ロサの言う通り先がまったく見えないほど暗い。スクワイアが懐中電灯で足元を照らすと、ようやく草が乱雑に生えているのが見えた。
「ほんとに暗い……」
アモルが辺りを見回して呟いた。
ウォーロックが空に向けた手のひらに小さな光の玉を浮かべる。彼の周囲が明るく照らし出され、彼がマントの浮力で浮かんでいるのが見えた。
「わあ、すごい。ウォーロックってほんとになんでもできるのね」
「大魔法使い様だからな。さ、行くぞ」
ウォーロックが先陣を切って進み、アモル、スクワイアと続く。
よく見えない足元には木の根が張り巡らされ、アモルは足を取られ転びそうになる。そのたびにスクワイアが手を差し出し、飛んでいるウォーロックに比べふたりは歩くことに苦戦した。
森の木々に、ぼんやりと光る果実が浮かび上がっているのが見えて来た。足元を照らすほどの明るさはないが、道しるべになるようにいくつも連なっている。
「ウォーロック。あれは何?」
仄明るい光を放つ果実を指差して、アモルが問いかけた。
「アラベラ・ベルだ」と、ウォーロック。「成長すると種子が光るんだ」
「へえ……。この町って、まだまだ知らないことがたくさんあるわ」
そのとき、遠くから狼の遠吠えが聞こえてきて、アモルはビクッと肩を震わせた。
「なに? いまの……」
「人狼だろ」ウォーロックが呆れて言う。「嵐のあとだから、気が立ってるのかもしれないな」
今度は近くの草むらがガサッと揺れるので、ひっ、とアモルは小さく息を呑む。草むらから顔を出したのは白兎だった。安堵して息をつくアモルに、スクワイアは苦笑いを浮かべた。ウォーロックも、やれやれ、と肩をすくめる。
「怖いなら一緒に来なきゃよかったのに」
「だって……まさか、油を採りにこんな森に来るとは思わなかったんだもの……」
「そうか、アモルは知らないんだったな」
くるりと体勢を変え、ウォーロックが着地しながらアモルを振り返って言った。
「公爵夫人の油は、森の奥にいるサイクロプスの涙だ。少なくともあと十分は歩くぞ」
「そんなに! うう……」
「引き返すならいまだぞ。こっから真っ直ぐ戻れば――」
「行く!」アモルは声を上げる。「ここまで来たんだもん……最後まで行くわ」
「あ、そう。まあ、いいけど。森の動物は襲って来ないとも限ら――」
不意にウォーロックが何かに足を引っかけ、仰向けに転んで言葉が切れた。
「ウォーロック!」
スクワイアが慌てて駆け寄ると、ぐるる、と何かが低く喉を鳴らす音がウォーロックの背後から聞こえてきた。草むらの中からむくりと体を起こしたのは、体が虎でしっぽが蛇の、二足歩行のヘビトラだった。吊り上がった眼を細め、ぎろりと三人を睨み付ける。
「オレの相棒を踏みやがったのは……どいつだ!」
「と、まあ、後ろ向きで喋りながら歩いてると、こういうことになるから気を付けろよ」
何事もなかったようにサッと立ち上がり、他人事のようにそう言ってウォーロックがわきをすり抜けようとするので、ヘビトラがその肩を掴んだ。
「待てよ、オレの相棒を踏ん付けといて無事でいられると思うなよ」
「はあん? お前こそ、誰に向かってそんなこと言ってんだ」
強気に凄む少年の声に、怪訝に顔をしかめたヘビトラが不意に、ああ、と声を上げる。
「ウォーロックじゃねえか! なーんだ、お前かよ! はっはっはっ!」
ヘビトラはおかしそうに声を上げて笑い、ばしばしとウォーロックの背中を叩いた。うっ、とウォーロックは唸り声を上げる。
「悪かったよ! お前だとは思わなかった!」
「相変わらず目が悪いんだな」
「ああ。オレの目は蛇側だからな。こっち側の顔だとよく見えねえ」
そう言ってヘビトラは虎の頭を指差す。それからくるりと彼らに背を向けると、蛇の顔が彼らを見上げた。舌をちらつかせながら唸った蛇の頭は、かぱっと口を大きく開いて見せる。ひっ、とアモルが驚いて息を呑んだ。
「いやあ、よく見えた」
虎の頭が朗らかに言う。目は蛇側で口は虎側のようだ。
「こんなとこで何してんだ?」ヘビトラが問いかける。「散歩か?」
「公爵夫人の油を採りに来た」
「ああ。サイクロプスのところに行くのか。オレが一緒に行ってやるよ」
行こうぜ、とヘビトラが先に進もうとしたとき、何かが彼らの前に立ちはだかった。
「待ちな。ここは私たちの縄張りだよ」
「ヘビトラ。なぜ貴様がここにいる」
それは鶏の胴体と蛇の尻尾を持つコカトリスだった。二頭が現れ、ヘビトラの行く手に立ちふさがる。コカトリスをねめつけ、ふん、とヘビトラは鼻を鳴らした。
「オレがどこにいようと、お前らには関係ねーだろ」
「ここは私たちの縄張りだ。お前みたいなやつにいられると困るんだよ」
「あのさー」ウォーロックが面倒くさそうに言う。「俺様たちは行ってもいいかな」
しかし、彼を取り囲んでまた三頭のコカトリスが森の暗がりからゆっくりと歩み寄って来た。これでは、森の奥に進むことができない。
「悪いな」と、ヘビトラ。「同じ蛇の尻尾を持つ者同士、コカトリスとは昔から仲が悪くてよ」
「それは知ってるけどさ……俺様たち、公爵夫人の油を――」
「ヘビトラの仲間は、この奥には行かせないよ!」
コカトリスが、甲高い声で叫んだ。
「……スクワイア。今日の晩飯はコカトリスの丸焼きにしよう」
「コカトリスって食べられるんですか」
「焼き方次第だ」
そう言って、ウォーロックは不敵に微笑む。手のひらに炎を浮かべると、コカトリスたちが一瞬だけ怯む。しかしすぐに自らを奮い立たせ、また彼らに向き直った。
「あ、ちょうどいい!」
何かを思い付いたように、ウォーロックは手のひらの炎を握り潰して声を上げた。それから、わくわくと表情を輝かせながらアモルを振り向く。
「アモル、コカトリスの捕り方を教えてやるよ!」
「えっ」
「コカトリスは実験の材料に使うこともあるからな。捕り方を覚えといて損はない」
「わ、私にできるかな……」
「魔法学研究員には必要なことだ」
怯えて顔を引きつらせるアモルとは対照的に、ウォーロックはいつになく緑色の瞳を輝かせている。
鶏の頭が雄叫びを上げ、三頭のコカトリスがヘビトラに向かって行った。ヘビトラは怯むことなく、コカトリスの突進を受け止める。別の二頭がウォーロックたちに向かって来るので、ウォーロックはアモルを背にかばい、スクワイアも魔法の剣を手に取った。
まずは、とウォーロックは一頭のコカトリスの前に立ちはだかる。右手を軽く一振りすると、光の縄が現れてコカトリスの体に巻き付き始めた。
「まずは、コカトリスの動きを止める」
「えっ」
「コカトリスは前後に目があるからな。話は魔法で動きを封じてからだ」
「私は魔法なんて使えないけど!?」
「魔法使いと一緒に倒せってことだ。動きを止めたら、実験に使う羽は取り放題だ」
そう言ってウォーロックが動きを止めたコカトリスから羽をむしり始めるので、え、とアモルはまた目を丸くした。
「材料って、羽のことだったの?」
「ああ。なんだと思ったんだ?」
「倒すなんて言うから、ぜんぶ使うのかと思ったわ……解体するのかと……」
アモルの言葉に、光の縄に捕らえられたコカトリスが、がたがたと震えて怯え始める。
「ひ、人の子って……そんな怖いことするの……!?」
「ごめんなさい! そんなことしないわ! 知らなかったから……」
スクワイアが魔法の剣のツルで足を縛り付け、地面に倒れ込んだコカトリスが不満げに口を開いた。
「だいたい、羽をむしられること自体も私たちは不満なのよね」
「そうそう」と、ウォーロックが押さえるコカトリス。「また生えるからいいけどさあ……」
ウォーロックが気に留める様子もなく羽をむしるので、コカトリスは暴れようとするが光の縄がしっかりと体を押さえつけていて身動きが取れない。
「あー! ったく!」
コカトリスと取っ組み合いをしていたヘビトラが、コカトリスを投げ飛ばして声を上げた。
「外野がいちゃ集中できねーぜ」
「同感」と、投げ飛ばされたコカトリス。「あいつら緊張感なさすぎ」
「そうか」
ウォーロックは羽をむしるのをやめ、コカトリスを解放してやる。スクワイアも魔法の剣をもとに戻し、縛り付けていたコカトリスの足を放した。
「じゃあ、俺様たちは行ってもいいかな」
「ああ、行け行け」と、コカトリス。「ウォーロックがこんな緊張感のないやつだとは思わなかった」
「イメージ壊しちまって悪かったな」
そう言ってウォーロックは、コカトリスの羽を詰めた袋を宙に放った。それは一瞬にして消え去る。行こうか、とウォーロックはヘビトラを振り向く。ヘビトラは溜め息を落としつつ、じゃあな、とコカトリスたちに背を向けた。
森の奥の広場で彼らを待っていたサイクロプスは、森には不釣り合いの紺のスーツをビシッと着こなした一つ目の巨人だった。切り株に腰掛ける姿はさながら西洋の会社で働く男のようだったが、肌の色は緑で体は人間の三倍ほど大きい。
「よう、サイクロプス。元気か?」
ヘビトラがそう声をかけると、サイクロプスはニッと朗らかに笑って見せた。
「そうか、そいつはよかった。ウォーロックが、お前の涙が必要なんだそうだ」
「じゃあ、お話して!」
その見た目に反して、発せられた声は子どもの男の子のような声だった。
「もっと野太い声かと思ってた」
また驚いた様子で、アモルがスクワイアに耳打ちした。スクワイアは苦笑いを浮かべる。
「よーし、それじゃあ、俺様がお話してやるよ」
ウォーロックがサイクロプスの前に腰を下ろして言うと、サイクロプスは嬉しそうに顔をほころばせた。
「ほんとのお話じゃないとダメだよ?」
「ああ、わかってる。いいか? これは五百年前の話だ。俺様には愛する女がいた。とても綺麗で優しくて、お淑やかで慎ましい女だった。名前は……あー……忘れちまった。なんせ五百年も前のことだからなあ。俺様たちは一緒に暮らしていて、毎日、何をするにも一緒だった。だが、俺様が悪の大魔王の呪いを受けて小さくなっちまうと、そいつは俺様の前からいなくなったんだ。それからは、一度も会ってない」
「ウォーロック、嫌われちゃったの?」
「どうだろうな。まあ、俺様は見た目が十二、三歳くらいの美少年。その女は、二十は越えてたと思う。どう見たって、不釣り合いだろ」
ウォーロックが肩をすくめてそう言うと、サイクロプスの一つ目がどんどんと潤み、ぽたぽたと涙がこぼれ始める。スクワイアがサッと、しかしこっそりとサイクロプスの瞳の下に小瓶を差し出し、涙を受け止めた。
「可哀想、ウォーロック……大魔王のせいで、好きな人と一緒にいられなくなっちゃったんだね……」
サイクロプスは大男との見た目とは裏腹に、純粋な子どものようだった。
「なあに、俺様は大魔法使いウォーロック様だぞ? 寄って来る女なんてごまんといる」
「でも、その人のこと好きだったんでしょ?」
「あ? あー……どうだろうな。なんせもう五百年も前のことだ。忘れちまったよ」
「そっか……」
スクワイアが素早く身を引いて瓶のふたを閉めると、サイクロプスは、ぐいっと目元をスーツの袖で拭った。
「お話してくれて、ありがとう。涙は採れた?」
「ああ。ばっちりだ」
「気付かなかった。スクワイアはいつも知らないあいだに涙を採ってくれるから、僕、ウォーロックのお話に集中できるんだ。他の人はこうはいかないよ。大きな風呂桶を持って来て、僕の目の前に出すんだ。気が散るったらないよ。それで、結局いつも涙は出ないんだ」
「ヘタクソがいたもんだな」
それじゃあな、とウォーロックがきびすを返すと、またお話し聞かせてね、とサイクロプスは無邪気に大きく手を振った。じゃあな、とヘビトラは蛇の尻尾をぶんぶんと振り回す。あれでは目が回るのではないだろうか、とスクワイアはそんなことを考えていた。
公爵夫人の屋敷に戻ると、バラ園で待っていた公爵夫人が、おかえりなさい、と穏やかに出迎えた。ウォーロックはさっそく油差しに取りかかった。腕の関節、足の関節、最後に首に差す。ああ、と公爵夫人は大きく伸びをした。
「どうもありがとう。体がとっても軽くなったわ」
「ついでにメンテナンスしてやるよ。どうせマキナアンキッラは機械の整備なんてわからないんだろ」
「ロサと呼んであげてちょうだい。お願いするわね」
ウォーロックが宙に手をかざすと、どこからともなく工具箱が現れる。どいて、と公爵夫人の肩に腰掛けていたインベルに言い、ウォーロックは公爵夫人の首元にマイナスドライバーを突き刺した。
「わあ、大丈夫なの?」
ウォーロックの手元を覗き込んだアモルが、くしゃっと顔を歪めて心配そうに言う。公爵夫人の首には操作盤が埋め込まれており、ウォーロックは工具箱から取り出した計測器をコードで繋いだ。
「大丈夫も何も、ここをいじってやらないと急に故障して止まっちまうんだ」
「そうなの……。ごめんなさい。私、機械人間って初めて会ったから……」
「そうでしょうねえ」公爵夫人は穏やかに言う。「いまは、機械人間はほとんどいなくなったわ。故障すると、修理できる人がもういないのよ。あたくしは、こうしてウォーロックが直してくれるから、いまでも問題なく動けているけれど。ウォーロックがこの町にいるあいだは安心だわ」
公爵夫人の言葉に、アモルは少し複雑な表情になって黙り込んだ。
ウォーロックは五分ほど計測器と操作盤を交互に見たり、操作盤を少しいじったりしたあと、これでいい、と満足げに言って手入れ道具を再び宙に消した。
「また調子が悪くなったり、退屈になったりしたら、いつでも呼んでくれ」
「どうもありがとう。やっぱりあなたは最高ね」
「そいつはどうも」
ウォーロックは公爵夫人に恭しく辞儀をすると、帰るぞ、とスクワイアとアモルを振り向く。ふたりも同じように公爵夫人に辞儀をして、バラ園をあとにした。
公爵夫人の屋敷をあとにすると、海はもう町になっていた。町は背の低い木製の家々が建ち並び、中心は商店街になっている。ウォーロックは、この町で暮らしているのは人ではないと言っていたが、町を行き交う人々は彼らの見た目とそう変わらない人間のようにスクワイアには思えた。商店街で買い物を楽しみ、友人と朗らかに会話し笑い合っている。
「いま見えてるのはぜんぶ人間だぞ」
まるでスクワイアの心の中を読んだかのように、ウォーロックがそう言った。
「なんでわかったんです?」
「お前はけっこう顔に出る」
「そうですか……。でもこのあいだ、この町にいるのは人じゃないって言ってたじゃないですか?」
「この町に住んでるのはな。いま見えてるやつらは、この町の住人じゃない。家は他の集落にあって、店を構えてるだけだったり、買い物に来るだけだったりするやつらだ」
「じゃあ、この町には何が住んでるんです?」
「知らないって言っただろ。見たことないんだから」
「へえ……」
「……ねえ、ウォーロック」
それまで黙っていたアモルが、遠慮がちに口を開いた。
「ウォーロックは、いつかどこかに行ってしまうの?」
「あん?」
「公爵夫人が、ウォーロックがこの町にいるあいだはって言ってたから……。いつかは、この町からいなくなるってことでしょ……?」
「ああ。まあ、いつかはな。長く生きてると同じ町にいるのは飽きるんだ。飽きたら他の町に行く。それだけのことさ」
「そう……」
アモルが寂しそうにうつむいてしまうので、ウォーロックは明るい声で言った。
「なんだ、俺様がいなくなるのが寂しいのか? 心配しなくても、まだこの町には飽きちゃいない。もうしばらくはいるよ」
少し安心したように、そう、とアモルは薄く微笑んだ。それでもまだ何かが引っかかっているようで、その笑みは浮かない色だった。