第2話 海の町【2】
海に入ると、すぐに体は真っ直ぐ下へと沈んでいく。波打ち際のない町になる海は、海に対して陸が絶壁になっている。浅瀬がなく、魔法を使わずに入るのは少々危険だ。
ウォーロックの魔法は、体を薄い球体状の膜が覆っているように感じられる。呼吸もできる上に、こっちだ、とスクワイアとアモルを呼ぶウォーロックを見ると、会話もできるようだ。人魚のヒャーリスはと言うと、下半身が魚の尾びれになっているため、すいすいと泳いで彼らのもとへ近寄って来る。
「海底都市に案内するわね」
そう言ってヒャーリスがすいっと先に泳いで行ってしまうので、ゆっくり行け、とウォーロックが声を張り上げた。あら、と人魚族特有の青い瞳を丸くしてヒャーリスは戻って来る。海中で動くことに慣れておらず動きを制限される三人とは対照的に、ヒャーリスは海の中でも自由自在だ。
澄んだ海の中を、色鮮やかな魚が悠々と泳いで行く。薄暗い紺碧の中に目を凝らすと、遠くのほうにゆらゆらと揺れる町の明かりが見えた。人魚たちが暮らしている「海底都市」だ。正午になると海上に出てくる町とは違い、ずっと海底の中で存在している町だ。
「あれが海底都市よ」と、ヒャーリス。「スクワイアは何度か来てるわね。アモルは初めて見るんじゃない?」
「ええ」アモルが頷く。「海にこうやって入るのも初めてよ」
「町ばっかり広くて、人魚はあまりいないわよ」
人魚族が海底で暮らしているのは、長い時間を陸地で過ごすことができないためだ。体の半分が魚である人魚族は、水がない陸地に長く居ると体が乾燥して死んでしまう。陸に上がって戻って来るのが間に合わなかった人魚が命を落とす事故はいまだに多く、そうして人魚の数は減ってしまったのだ。
海面を離れてしばらく。一番にウォーロックが海底に足を着いた。海底ではマントも浮力を得ず、魔法によって守られた体は水圧をほとんど感じない。
「ウォーロック! どいて、どいて!」
慌てたアモルの声が聞こえたかと思うと、頭上に視線を向けるより先にウォーロックは頭を蹴飛ばされた。上手く着底することができなかったアモルが、ウォーロックの上に乗り掛かってしまったのだ。
「うげっ」
「ごめんなさい! すぐどけるから……!」
しかし初めて訪れた海中に、アモルは上手くバランスを取ることができず、海底に倒れたウォーロックに圧し掛かりながらじたばたともがく。最後に着底して追いついたスクワイアが、ひょいとアモルの体を持ち上げて、ようやくウォーロックは起き上がった。
「やれやれ……連れて来るんじゃなかった」
「ごめんなさい……」
「アモルはまだ慣れていないだけです。すぐ慣れるよ」
励ますように言うスクワイアに、ウォーロックは溜め息を落としつつ肩をすくめた。
「人の子にとって水中は不自由だものね」ヒャーリスが言う。「さ、行きましょ。海底都市はすぐそこよ」
ウォーロックの魔法によって水の抵抗は軽減されているが、アモルは一歩一歩に苦戦しつつ海底を進む。そうしてやっとのことで到着した海底都市は、薄暗く静かだった。
「みんなー! ウォーロックが来てくれたわよー!」
ヒャーリスが口元に手を当てて声を張り上げると、町の中から人魚たちが姿を現す。老若男女、十人ほどが泳いで来ると、わあ、とアモルが感嘆を上げた。
「すごい。本当に人魚が暮らしているのね」
「嘘だと思った?」
悪戯っぽく笑ってヒャーリスが言うので、いえ、その、とアモルは困って口ごもる。冗談よ、とヒャーリスがおかしそうに笑っているあいだに、人魚たちがウォーロックのもとへ集まって来た。ウォーロックの顔見知りの者が多い。
「ウォーロック。来てくれてありがとう」
背の高い白髪混じりの青髪の男性が進み出て優しく言う。ヒャーリスの父で、この町を統べる領主ウィリアムだ。
「だが、我々だけで充分だよ」
「なに?」
怪訝に眉をひそめるウォーロックに、ウィリアムは申し訳なさそうに、困ったように眉尻を下げる。
「来てくれたのはありがたいが、海の問題は我々の問題。我々だけでどうにかしてみるよ」
「なに言ってるのよ!」ヒャーリスが声を上げる。「ウォーロックの力を借りたほうがいいわ!」
「ヒャーリス」と、ウィリアム。「海のことは我々のほうがよく知っている。原因は我々が解明するべきだ。ウォーロックの手を煩わせるまでもないだろう」
頑ななウィリアムに、ヒャーリスはムッと顔をしかめた。
「わかった。もういい! 行こ、みんな」
つい、とそっぽを向いて、ヒャーリスはアモルの体を持ち上げる。そのまま町を離れて行くので、スクワイアがそれに続いた。落ち着いたら遊びに来てくれ、と言うウィリアムと別れの挨拶をして、ウォーロックも三人を追った。
「珍しいこともあるもんだと思ったが」ウォーロックが言う。「人魚たちが頼って来たわけじゃないのか」
「あたしが呼んだの」ヒャーリスは唇を尖らせる。「このままじゃ、いつまでもああしてると思って。それなのに、パパったら……。みんな頑固すぎるわ」
アモルを担いだまま、ヒャーリスは町を離れて東へ向かう。ヒャーリスの人魚たちへの苛立ちは収まらないようだ。
「ほんと、人魚って頭が硬くてプライドが高くて嫌になるわ! 絶対にウォーロックの力を借りたほうがいいのに。海のことを知ってるって言っても、町になる海を成り立たせているのは魔法なのよ! 魔法のことは絶対にウォーロックのほうが詳しいじゃない! それなのに……!」
「落ち着いて、ヒャーリス」アモルが言う。「とりあえず、下ろしてもらえないかな……?」
「ダメ。あなた、足が遅いんだもの。こうしたほうが早いわ」
「……なるほど」
下ろしてもらうことを諦めたアモルは、困ったように笑う。ウォーロックがヒャーリスの背後で肩をすくめると、人魚になった気分で楽しい、とアモルはまた笑った。
「町になる海は」と、ウォーロック。「昨日までは問題なく、ちゃんと出ていたよな?」
「そうね……。いえ、ちょっと町が出るのが遅かったかも」
「なんだって?」
「十四時くらいになってやっと出ていったと思うわ」
「あー……そのときに教えてくれてたら、出てこないなんてことにはならなかったかもしれないのに」
「出ていったからいいと思って」
「……まあいいや」
気を取り直すようにそう言って、ウォーロックは再びベルトのポーチから計測器を取り出す。
「なんとなくだが……マナのバランスがおかしいような気がするんだよな……。感覚でしかないが」
「どういうこと?」
担がれたまま、アモルが興味深げに首を傾げる。
「この大地のすべては、マナのバランスで成り立っている。海が町になって、町が海になるのは、この海から放出される魔法だ。それも、マナのバランスによるものだ。海が町にならないということは、どこかでマナのバランスが崩れている可能性があるってことなんだ」
「じゃあ、崩れている場所を見つけないといけないってこと?」
アモルの問いに、ああ、とウォーロックは頷いた。
「そんな簡単なことなの?」
途方に暮れた様子で問いかけるヒャーリスに、ウォーロックは余裕を湛えた表情で肩をすくめて見せる。
「そう難しいことじゃない。魔法使いはマナを感知できる。俺様は大魔法使いだ。マナのバランスを直すなんて簡単なことだ」
「ただの興味本位なんですけど」スクワイアが言う。「マナのバランスが崩れているのを放置すると、どうなるんですか?」
その問いに、それまで薄い笑みを浮かべていたウォーロックの表情が一変する。それから、彼は声の調子を落として言った。
「ひとつでもマナのバランス崩壊を放置すると、それは連鎖する。しまいには、大地が滅びてしまうんだ」
「……海が町にならないことが、そんなことに?」
スクワイアは頬を引き攣らせて言う。ウォーロックを振り向いたヒャーリスもアモルも、しかめた顔を見合わせた。
「だがまあ、安心しろ」ウォーロックは不敵に笑う。「この俺様がいるんだ」
「ほんとに……」ヒャーリスは眉をつり上げた。「ウォーロックを呼んで正解だわ。あの頭の硬い連中に任せていたら、この海は滅びちゃうわよ」
「人魚もマナを感知できるから、マナのバランスが崩れていることに気付けるはずだけどな」
ウォーロックの言葉に、ヒャーリスは苦虫を噛み潰したような顔で笑ったあと、知らなかったわ、と低い声で言った。
泳いでいるヒャーリスとは違い、海底を歩くウォーロックとスクワイアにとって、その一歩一歩はとても重いものだった。苦戦して少しずつ進むふたりを、ヒャーリスはアモルを肩に担いだままくるくると旋回して待つ。
「尾ひれが生える魔法はないの?」
「あったらとっくに使ってる」ウォーロックは不満げに言う。「ったく……歩きにくいところだ」
「鎧を脱いでくればよかった……」
うんざりして呟くスクワイアに、あらあら、とヒャーリスは優しく慰めるように肩をすくめた。
「マナのバランスが崩れているのは、海菜畑の辺りだな」
計測器を見つつ辺りを見回してウォーロックは言う。彼を振り向いたヒャーリスは、不思議そうに問いかけた。
「海菜? 海菜が海の魔法と関係があるの?」
「海の魔法の発生源は、主に海菜だ。あそこで何か――」
「あっ!」
ウォーロックの言葉を遮ってヒャーリスが声を上げるので、わっ、とアモルが目を丸くする。
「いま思い出した……。嵐のあと、ウミヘビが海に来たのよ。フェーヌムはこの海の生き物じゃないわ。それが何か関係があるんじゃない?」
自分の推理を誇らしげに胸を張って言うヒャーリスに、今度はウォーロックが苦虫を噛み潰したような顔になる。
「もっと早く思い出してほしかった」
「……ごめん」