第2話 海の町【1】
晴れ渡った空のもと、カン、カン、と金槌で鉄の釘を打ち付ける音が辺りに響き渡っていた。
五日前、海の町リートレを襲った激しい嵐は、ウォーロックの家の西にある集落を猛烈な勢いで通過した。酪農を営むクルト一家ももれなく直撃し、屋根の木が剥がれ落ちてしまっている。雨風の吹き込んだ室内も、酷くめちゃくちゃになってしまったと猫夫妻は気落ちしていた。牛舎がほとんど被害を受けなかったのが、不幸中の幸いだ。
小さな手で懸命に木の板を押さえ、冒険服の袖を邪魔そうにしながら、クルトは溜め息をついた。
「ねえ、魔法で修理できないの? 僕、もう疲れた」
肩を落として言うクルトに、気怠げに金槌を振り下ろしながらウォーロックは言った。
「三日で崩れていいならできるけど」
「……大魔法使いなのに」
「……お前は大魔法使いを便利屋かなんかだと思ってるのか? そもそも、建築なんてのは専門外だ」
クルトが家の修理を手伝ってほしいとウォーロックを呼びに来たとき、彼は専門外だとそれを断った。しかしクルトの泣き落としにより、渋々だが了承してしまったのだ。だがもとより言っていたように、家の屋根の修理などウォーロックにできるはずもなく、隙間はないものの少々不恰好な屋根が仕上がっていく。クルトは気にしていないようだ。
「だって、ウォーロックならこれくらい直せそうだもん」
「俺様は完璧な大魔法使いだが、いまの俺様の魔法は完全じゃないんでな。気が散るから黙ってろ」
幼さの残る顔立ちに似合わない鋭い声で言い、ウォーロックは地面に向けて左手を一振りする。建物のそばに置かれていた工具箱から、ひとりでに数本の釘が浮かび上がり、ゆっくりと飛んでウォーロックの手のひらに収まった。
「だいたい、なんで俺様ひとりしか手伝いがいないんだ? 北の集落から大工を連れて来いよ」
「だって……もっと酷い家がたくさんあるからって、みんな来てくれなかったんだもん」
「お前の家だって屋根が取れてるだけじゃねえか」
「屋根で済んだだけマシなんだって」
ウォーロックは苛立つ気分を抑えるため、深く溜め息を落とす。クルトが困ったように眉尻を下げたとき、ウォーロック、と地上から声がかけられた。少女の声だ。
ウォーロックがマントの浮力を借りて屋根から降りると、眩しそうに彼らを見上げていたのはアモルだった。彼女は陽光を遮るため瞼に手を当てていたため、急に目の前に現れたウォーロックに、わあ、と声を上げる。
「びっくりした……」
「呼んだじゃないか」
「ウォーロック、怒ってるの?」
「怒ってない」
「そう?」アモルは首を傾げる。「今日は何をしているの?」
「見ての通り、屋根の修理だ」
肩をすくめるウォーロックに、ふうん、とアモルは不思議そうに呟く。それから、思い出したように言った。
「父にウォーロックのことを話したら、お土産を持たされたの。実験の材料に使える物だって言ってたけど……」
そう言って、アモルは紙袋を差し出した。それと同時に紙袋が内側から蹴られたように、ぼすっと音を立てて膨らんだ。アモルは驚いて顔をしかめ、紙袋をウォーロックに突き出す。苦笑いを浮かべたウォーロックは、受け取った紙袋を宙に放った。紙袋は一瞬にして消えてしまう。
「わあ……どこに行ったの?」
「うち」
「へえ……」
「アモル!」
梯子から慎重に降りて来たクルトが、アモルに駆け寄って手を握りしめた。アモルは嬉しそうに微笑みを浮かべる。クルトは先日、アモルが帰って来ると嬉しそうに話していた。ふたりは元から友達なのだろう。
「こんにちは、クルト。屋根の修理、大変そうね」
「壊れたのは屋根だけだけど、そのせいで家の中もぐちゃぐちゃだよ。ぜーんぶ水浸しになっちゃった」
「ウォーロックも手伝っているの?」
「手伝わされているんだ」
「私も手伝っていい」
「好きにしろー」
溜め息混じりにそう言って、ウォーロックはまたマントの浮力を借りて屋根へと上がって行った。それを追ってクルトも梯子を上って行くと、アモルは家の中を覗き込んだ。
「まあ、アモル! いらっしゃい!」
アモルに気付いたクルトの母が、嬉しそうに顔を綻ばせる。それから、申し訳なさそうな表情になった。
「ごめんなさいねえ、まだ家の中が片付けの最中なの」
「私も手伝います」
「まあ、本当に? 助かるわ。ありがとう!」
嵐が去って五日が経っているらしいが、床も壁も家具もほとんど乾ききっていない。木材を使用しているためだろう。このままではカビが生えてしまいそうだ。
「こんなに水浸しになったんですね……」
「激しい嵐だったからねえ。でも、あとでウォーロックに魔法で乾かしてもらうの。そうしたらあっという間よ」
「いまはどうやって過ごしているんですか?」
じめじめする室内を見回して、アモルは問いかけた。
「座るところにはビニールシートを敷いているの」クルトの母は穏やかに言う。「どんな環境も、家があるだけ幸運よ」
「まったくその通り」工具を運んで来ながら、クルトの父が頷いた。「家が崩れなかっただけマシさ」
「家が崩れていたら、修理どころじゃなくて建て直しになってますもんね」
「そのうちカビが生えそうだけれどね」
そう言って、クルトの母は明るく笑う。確かに、とクルトの父も朗らかな笑みを浮かべた。クルトがそうであるように、両親も穏やかで前向きな人たちのようだ。
猫人間は元々野生の猫であったが、世界樹から供給されるマナを得て人間の姿に進化した種族だと言われている。猫のように素早く、そして賢い。高いところが好きで、しかし降りられなくなることがよくある。ウォーロックも何度も助けたことがあった。様々な種族の人間がいるクルトゥーラ大陸で、人の子より多いとされている種族だ。
雲ひとつない快晴の下、カン、カン、と釘を打ち付ける音だけが小気味良く響き渡っている。嵐が過ぎ去ったあとから、このリートレの西の集落では、その光景がずっと続いていた。
いつものマントとローブを身に纏ったウォーロックは、ひたいに流れる汗を拭って溜め息を落とした、上に着てるの脱いだら、とクルトが心配そうに言う。
「ウォーロック」
眼下から呼びかける声が聞こえて視線を落とすと、木材を肩に担いだスクワイアが屋根を見上げている。
「おう、どこ行ってたんだ、スクワイア」
金槌を振る手を止め、ウォーロックは難ずるように言った。スクワイアは木材を地面に下ろして苦笑いを浮かべた。
「アルカヌムの森から木材を採って来いって言ったのは、どこのどなたでしたっけ」
「あっ、ボクか〜!」
ウォーロックがいつもの可愛ぶりっ子でそう言って悪戯っぽく笑うと、クルトは困ったように笑う。彼が可愛ぶりっ子をするといつもそういう表情になるのだ。なんだよ、とウォーロックは愛らしかった顔を一気にしかめる。
「ウォーロック」と、スクワイア。「ヒャーリスが手を貸してほしいと言ってるんですが」
「何? ヒャーリスがそんなことを言うなんて珍しいな」
「海に何かあったみたいですよ」
「わかった。アモル!」
ウォーロックはマントの浮力を借りて地面に降りながら、家の中のアモルに呼びかけた。スクワイアが首を傾げていると、なあに、とアモルが窓から顔を覗かせる。
「町になる海に何かあったみたいだ。いい勉強になる場所だから、一緒に連れて行ってやるよ」
「ほんと?」
「うちの修理はどうなるの?」
屋根から身を乗り出して、落ちないように腕でバランスを取りながらクルトが不満げに言った。
「あとでやる。それまでひとりでどうにかしろ」
「そんなあ!」
悪いな、と悪びれもなく言って、ウォーロックはマントの浮力でふわりと飛び上がる。それから、行くぞ、とアモルとスクワイアを振り返りクルトに背を向いた。
「明日、お父さんと手伝いに来るわ」
眉をひそめるクルトにそう言って、アモルはそのまま飛んで行くウォーロックを追いかける。あとで、とクルトに軽く手を振り、スクワイアもそのあとに続いた。
クルトの家がある西の集落は、クルトの家と同じく酪農を営む家が多い。森に囲まれた北の集落とは対照的に、牧草地が広がる平地に牧場と家々が建ち並んでいる。猫人間が多い集落で、行き交う人々はウォーロックを見つけると穏やかに挨拶をして来る。大工が多く気性の荒い北の集落とは、かなり雰囲気が異なる場所だ。
西の集落を抜け、北の集落も抜けてさらに北に向かう途中、スクワイアが不思議そうに口を開いた。
「アモルを弟子にしたんですか?」
「いいや。勉強として連れて行くだけだ」
「懐かしいですね。アーラも最初はこんな感じでしたよね」
「そうだな」
「でも、あれだけアーラと一緒に研究をしていたのに、アモルには会ったことがありませんでしたね」
「私、六年前からユーラシア大陸の学校に通っていたの」
「俺様たちがあの家で暮らし始めたのが五年前からだからな。入れ違いだったってわけだな」
そうしているうちに、港のある海岸に出る。北側にドルミート山を有する三日月型の湾城の海で、目を凝らすとぼんやりと対岸が見える。対岸の岬には灯台があるのが見えた。
海岸の端に降り立ったウォーロックは、あれ、と呟いて腕を見た。しかし、その細い手首には何もない。
「もうとっくに正午を過ぎているのに、海が町になってないな」
「いま何を見たんです?」
「お前たち、知ってたか? ここの海は正午になると町になるんだ。で、夜のゼロ時を越えると海になる」
「知ってるわ」
「知ってますけど、いま何を見たんですか?」
「……うるさいな! 気分だろ、気分。俺様は時計なんか見なくたって時間がわかっちまうんだから」
「へえ」
スクワイアが訝しむように茶色の目を細めるので、ちっ、とウォーロックは軽く舌を打った。
「またきみたちか」
溜め息混じりのそんな声が聞こえたかと思うと、ふたりの騎士が彼らに歩み寄って来る。リートレの自警団のカラタユートとシェイラだ。カラタユートは黒い瞳を怪訝に細め、ウォーロックに不審の視線を向ける。
「リートレではこんな胡散臭い魔法使いを頼っているのか」
「魔法使いじゃない。大、魔法使いだ」
「……ああ、そう」
「ウォーロック! 来てくれたのね!」
足元の海からそう言う声が聞こえて来る。パシャッと水が跳ね、海面に青い長髪の少女が顔を出した。陸に上がると同時に、彼女の魚だった下半身は人間の足へと変化する。青いヒレはひらひらと風に揺れる青色のスカートになった。長い髪と体を濡らしていた水は一瞬にして消え、人魚族の少女ヒャーリスは肩にかかる髪を払って笑みを浮かべる。
「ありがと。助かるわ」
「何があった?」
「ご覧の通りよ」ヒャーリスは肩をすくめる。「海が町にならないの。海藻でも引っ掛かっちゃってるのかしら」
「町になる海って、そういう仕組みなの?」
不思議そうに首を傾げるアモルに、ウォーロックは呆れたように目を細めた。
「んなわけないだろ。冗談だ」
「あら! アモル!」
アモルを見つけて、ヒャーリスが表情を明るくした。
「久しぶりね! こっちに戻って来てたのね」
「ええ、久しぶり、ヒャーリス!」
手を差し出したアモルに対し、ヒャーリスは勢い付けてアモルの体を抱き締めた。どうやらふたりは親しい友人であるらしいということが窺える。
ひと通り挨拶を済ませると、ヒャーリスは言った。
「ウォーロック、調べてみてくれない? たぶん、海の魔法がおかしくなっているんだと思うわ」
「任せろ。魔法学は得意中の得意だ」
ウォーロックが目を輝かせると、待て、とカラタユートが制した。ウォーロックは怪訝に眉をひそめる。
「海のことなら、僕たちが調べている。わざわざ、大魔法使い殿の手を煩わせることはないだろう」
「あら」と、ヒャーリス。「あなたたち、魔法がわかるの?」
「なんだって?」
「町になる海の仕組みは魔法よ。あなたたちが調べているのはわかっていたけど、魔法のことはあなたたちにはわからないと思ったからウォーロックを呼んだのよ」
「だから言ったでしょ」シェイラが言う。「カラタユート、ここは大魔法使い殿に任せよう」
「だが、これは自警団の仕事だぞ」
「自警団の仕事でも、できることとできないことがある。毛むくじゃら人間のときもそうだった。違う?」
「……わかった」カラタユートは不承不承といった様子で頷く。「今回は魔法使い殿に任せよう」
「大、魔法使いな」
顔をしかめて言うと、ウォーロックは海に手を突っ込んだ。そして、ふん、と小さく呟く。
「水温は異常なし」
「そりゃあねえ」と、ヒャーリス。「水温が変わったら、あたしたちにはすぐにわかるわ。海中に住んでいるのだし」
「それもそうだ」
ウォーロックは次に、腰のベルトに携えていたポーチから四角い計測器を取り出した。
「あの」アモルが遠慮がちに言う。「何か手伝うことはある?」
「いや。とりあえず見とけ」
アモルにそう答えると、ウォーロックは計測器に視線を落とした。それから、ぶつぶつと呟き始める。
「……電磁波、磁力、魔力の流れ……異常なし。妨害流波もないな。アルボス波も出ていない……アルブム粒子も正常」
計測器を宙に向けてくるくると回るウォーロックに、カラタユートはまた怪訝な表情になった。
「彼は何を言っているんだ?」
「さあ」スクワイアは肩をすくめる。「彼は化学オタクで」
「化学? 魔法使いなのに化学オタクとはな」
あざけるように言うカラタユートに、ウォーロックは呆れたように小さく息をついた。
「魔法も立派な化学だ。魔法学って学問を知らないのか?」
「勉強不足で申し訳ないな」
悪びれる様子のないカラタユートに、ウォーロックは肩をすくめてまた計測器に意識を戻す。
「クラルス率も正常……ということは……」
「何かわかりましたか?」
「いや。さっぱりわからん」
スクワイアの問いかけに、ウォーロックはあっけらかんと答えて計測器をポーチにしまった。スクワイアとヒャーリスは、揃って呆れた表情になって溜め息を落とす。
「海上は異常なし。ってことは、原因はたぶん海底だ」
「いまので何がわかったの?」
不思議そうに首を傾げるアモルに、ああ、とウォーロックは再びポーチから計測器を取り出して彼女に見せる。それから、得意げに胸を張った。
「これは魔法学であり化学でもある。魔法学研究員の仕事は、マナのバランスを調べることだ。マナはわかるだろ?」
「ええ。この大地のすべての生命の源でしょ?」
「ああ、そうだ。魔法学研究員が調べるのは、マナのバランスが正常であるかどうかということだ。マナのバランスが正常な状態というのは、電磁波、磁力、魔力の流れ、アルブム粒子、クラルス率が正常で、妨害流波とアルボス波が出ていない状態だ。まあ、細かいことは追々教えてやる」
「わかったわ」
「授業は終わった?」ヒャーリスが言う。「アモルは相変わらず勉強熱心ね。それじゃあ、海底都市に行きましょ」
パシャッと水飛沫を立て、ヒャーリスは海の中へと飛び込んで行く。ウォーロックはスクワイアとアモルを振り向き、ひとつ指を鳴らした。それからカラタユートとシェイラに言う。
「あんたたちも一緒に行くか?」
「海の底に?」シェイラが片眉を上げて言う。「遠慮しとく」
「僕も遠慮しておくよ」
「あっそ」
あっけらかんと頷いて、ウォーロックは手を振り上げた。微かな光が一瞬だけスクワイアとアモルを包んで消える。
「これで海の中に入れる。さ、行くぞ」
「ほんと?」
アモルが不信の表情で自分の体を見回した。アモルは自分に対する魔法の体験が少ないらしく、不安に思っているようだ。
「スクワイア、手本を見せてやれ」
「俺ですか」
自分で試されることに少し不満を持ちながらも、確かにアモルを安心させる必要があると考えスクワイアは頷いた。海の中に入って行くスクワイアに、アモルは心配そうな顔をしている。少しのあいだ海に潜ったスクワイアがややあって海面に顔を出すと、アモルは安心した表情になった。
「な? 大丈夫だろ?」
「ええ。ありがとう」
行くぞ、とウォーロックも海に入ると、アモルも意を決したがまだ恐る恐るでそれに続いた。