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自己麻酔

※残酷描写が含まれます




 旦那様は幼い奉公人に対する情けが深いと評判で、私も同い年の喜助もご多分に漏れず可愛がってもらっていた。


 私の悩みは旦那様の情愛を素直に喜べないことだった。何故かはわからなかったが、人肌に熱した水飴のような旦那様の視線に捕まると身体が強張って、早くこの時が過ぎ去ってくれるようにと祈らずにはいられないのだった。


 井戸へ水汲みに行った時、洗濯をしていた喜助にそれとなく訊いてみたが、喜助は何を言っているのかわからないという顔で眉を寄せた。


「旦那様は立派なお人だ。街一番の大店の主人なのに、俺たちみたいな卑しい子供にも良くしてくださる。ありがてえだろ? ちょっとくらい気持ち悪いとか痛いとか、全然大したことじゃねえよ。俺なら団子一つで忘れちまうね」


 喜助はからからと快活に笑った。自分の悩みが団子くらいの大きさに縮んだ気がして、私もつられて笑った。




 吐息が立ち込めたような蒸し暑い晩、私は勝手口の外にうずくまって泣いていた。旦那様の言いつけ通りにどうしてもできなくて、不機嫌な溜息が怖くて、旦那様の部屋から逃げ出したのだ。


 物音を聞き付けた喜助が出てきて、いつものように「大したことじゃない」と言って私を慰めた。私の背中を撫でていた右手が着物の胸元に、左手がはだけた裾から腿の内側に伸びた。


 やめてと短く叫んで喜助の手を振り払うと、彼は叩かれた子犬のような顔をした。


「嫌なのか? でも特別仲の良い人間にはこうするんだって、旦那様はいつも――」


 突然ガンと音を立てて勝手口が開き、私たちは飛び上がった。行燈の明かりを背に、旦那様の大きな影が戸口を塞いでいた。


「何をするかと見ておれば……」


 旦那様は喜助の左手首を掴んで持ち上げた。喜助の小さな身体が半分宙吊りになった。


 旦那様はそのまま喜助を引きずって廊下をどんどん進み、私はおろおろしながら後に続いた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す喜助の声が細く尾を引いていた。


 旦那様は普段は足を踏み入れることもない台所の奥まで入り、幅広の大包丁を手に取った。


「この手だな、汚い盗人の手は」


 旦那様は喜助の腕をまな板に押し付け、全身の怒りを乗せて包丁を振り下ろした。刃が木を叩く音。喜助は声も上げなかった。


「片付けておきなさい」


 去り際に旦那様が私にかけた声は普段通りに穏やかで、私は背骨の奥が冷たく震えるのを感じた。


 明かりのない台所に取り残された私たちと、真っ黒な水溜まり。静かだった。いつもそうだった。旦那様が去った後には見えない傷口と黒い沈黙がある。


「大丈夫だ」


 喜助が呟く。私は手首から先のなくなった左腕に手拭いを巻いてきつく縛った。白い手拭いが黒く生温かく染まった。


「全然大したことじゃない。痛いのなんかすぐ忘れちまう。旦那様に許していただけるなら」


 大したことじゃねえよと繰り返した彼の干からびた笑い声が、近くから遠くから、今も私の耳の奥で反響している。

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