第5話「超常」
3日ぶりに見上げる廃ビルは、一見なんの変哲もなくカムイには映った。眺め続けても感想が浮かばない。だから逆に不気味だった。油断すれば興味を失い、このまま引き返してしまいそうだ。自分までもが世間と同じく、この異常な建造物を無価値な風景の一部にしてしまいかねない。
「行くか」
そうなる前に、やれることはやってしまおう。そんな使命感に背中を押され、カムイは廃ビルの入口をくぐった。
「…………」
入ってすぐのフロアを、ぐるりと一瞥。拍子抜けするくらいにこざっぱりしていた。ただそれは当然だと、カムイは臆せず探索を続ける。いくら関心から逃れるといっても、ざっと見渡せる場所は流石に調べられているだろう。だから視点を変えなければ。
具体的にどうするか……までは考えていないが、カムイには心当たりがあった。分からないのは自分のこと。それ以外は知っている。こういった超常が起こる理由にも、実は見当が着いている。
「どっかからビルを転送したのか、はたまた認識を阻害する系か。雰囲気的には後者か? まあどっちにしろ、誰がなんのために……って感じだよな」
そして予想を元に提唱された仮説は、おおよそ現実的とは言えないものだった。それも、何者かが意図して行なったと断定するような口振り。他人が聴けば例外なく首を傾げただろう。あまりに非現実に晒され続け、感覚が狂ったのかと言われかねない。
しかしカムイに、ふざけた様子は微塵もなかった。惑いのない、真剣な面持ちで部屋一帯を注視し続ける。自分の思考を、全く疑っていない。
最早、超常を常識と認識しているかのようだった。
「……とりあえず隣も見るか」
最初の部屋でなにも見つけられず、半ば痺れを切らして呟くカムイ。本命は別だと自分に言い聞かせ、隣の部屋へと移った。
やはり、見渡す限りでめぼしいものはない。しかしなにかあるとすれば、1番ここが期待大とカムイは踏んでいた。なにせ自分はここで寝ていたのを、叶恵に発見されたのだ。
「なにか見つけるには……。やっぱり所有者を問い質すしかないか?」
なにも見つからない現状。それを打破するカムイにとっての最適解に、またしても不可解な単語が混じる。
誰かがなにかを使い、廃ビルに超常的な事態を起こした。詰まるところカムイは、そう確信して事に臨んでいるようだった。
「クッソ。来たはいいけどそれじゃ手詰まりだぞ」
目をこすりながら悪態づくカムイ。視界が少しぼやけてきた。検査続きの疲労のせいかと訝しむ。
「どうするかな」
打つ手なしな上にこの有様。帰って出直した方がいい気がする。しかし、取り戻せる記憶はさっさと取り戻すに越したことはない。いつまでも居候し続けるのは迷惑なのだから。早く出ていって、少しでも負担をかける期間を短縮せねば……。
そんな杞憂じみた気遣いを頭に巡らせているうちに、カムイの視界はどんどんぼやけていく。まるで景色全体が霧に呑まれたかのような有様で、目を凝らさなければ数メートル先すらよく見えない。
まずい。これは流石に重症だ。倒れたりしたら却って迷惑になる。さっさと帰ろう。そう判断しかけて、カムイは思いとどまる。
「……ん?」
なにか違和感があった。もう一度目をこすり、今いる部屋をキョロキョロ見渡す。そして気づいた。この視界のぼやけは、溜まった疲労が原因じゃない。
「本物の霧、か……?」
そうとしか思えなかった。白く霞んだ風景。肌に触れる独特の湿っぽさと冷気。気象現象の霧だ。
しかしおかしい。霧というのはざっくり言うと、空気が冷やされて水蒸気が凝結し、細かな水滴が宙に浮かんだ状態だ。カムイの知るところによると、今は5月。体感的にも、霧ができるような気候じゃない。
超常だった。この廃ビルと同じような。
「っ」
カムイは咄嗟に身構えた。霧を吸い込まないように、口元を腕で塞ぐ。
「…………」
不用意には動かず、じりじりと後ずさりしつつ様子を窺う。今この部屋で後ろを向けば、先客に死角を晒すことになる。それは絶対にまずい。険しくした目で、ある一点……上階に繋がる階段を睨み続ける。
「…………」
1階にある部屋は2つ。こことさっきの部屋には誰もいない。仮にどうやってか潜んでいたなら、今頃カムイは無事じゃない。つまりいるなら、この上。
「やり方が下手くそだな。さっきまでなら死角で不意打ちが狙えたのに。これじゃ警戒されるし居場所もバレるぞ」
階段を見上げながら啖呵を切る。あまりに威圧的かつ重くて低い声色に、カムイ自身すら少し驚いた。自分は二面性が激しいのかもしれない、とちらりと思う。
「正直もう収穫なしかと思いかけてたが。棚からぼたもちとはこのことだな」
カムイの中で、凪いでいた期待感がふつふつと沸き上がる。このタイミングでこの場所で、まさか先客がいようとは。しかも、こんな超常を持ち合わせていようとは。まるで神が見計らったかのようなシチュエーションだった。
こいつは、自分を知っているのではないか。この廃ビルの超常にも、関与しているのではないか。そう思わざるを得なかった。
「お前は誰だ? 俺を知ってるのか? とりあえず出てこいよ。それとも、戦い方だけじゃなくて人付き合いも下手なのか?」
まだ見ぬ誰かを煽り倒す。顔を見せろと言わんばかりに、嘲りを滲ませ神経を逆撫でる。冷淡に、見下げ果てた口調で。
「相手してやるって言ってるんだよ。出てこい小物」
果たして、階段の踊り場から人影が飛び出した。白い濃霧に紛れ、手に持つなにかを振りかざし。明らかな敵意を以て、カムイに襲いかかる。
「本当に下手だな」
真上から大振りで振り下ろされた暴力を、カムイはバックステップで躱した。数瞬遅れで、凶器が無人の床を抉り刺す。砕けたコンクリートの破片が、破壊音を伴い四方に飛び散った。
「黙って聞いてりゃあ、このクソガキがよぉ!」
濃霧の奥から、粗暴な男の声がカムイに届く。挑発に当てられ怒り心頭といった様子で、またすぐにでも飛びかかってきそうな剣幕だった。
「俺が……いや。俺らが何者か知らねえらしいな」
「知る訳ないだろお前なんか」
こちとら自分のことも知らないのだ、とは言わずに声の方向を睨むカムイ。口元に当てていた腕を離して、より動きやすい体勢で様子を窺う。
今の相手の行動から、この霧は吸い込んでも無害と判断した。もし吸ってアウトなら、あのまま黙って待っていればよかったのだ。なのに挑発されて飛び出したということは。煽り耐性が皆無なのか、こちらに攻撃しなければならない理由があるか。
もし前者だとしても、倒れる前に倒し切れる。相手のこれまでの言動から、カムイはそう見なしていた。十全とはとても言えない、今のカムイの超常でも。
「先に仕掛けてきたんだ。後で事情があったなんて言うなよ」
「……何様だ? どこまでこの俺を舐めてやがる?」
空気を斬る独特の音と同時に、睨んだ先の霧が揺らぐ。男が手に持つ武器を振ったようだ。
「後悔すんのはテメエだよ。舐めるなら俺の靴がお似合いでしたと、泣いて土下座してももう遅せえからなぁッ!!」
勢いよく地面を蹴る音がした。向かってくる。