第4話「自己調査」
数時間の診察の結果、カムイは至って健康体だと分かった。脳にはなんの異常も見られず、目を引く顔の傷も重症ではない。というのも医者曰く、昔に怪我をしてできた古い傷跡が、なにかの拍子に開いただけなのだという。少なくとも、これが原因で記憶が飛んだわけではないらしかった。
そして念のため、より精密に検査を……ということで通院3日目。カムイは晴れて異常なし判定を下された。付き添いの叶恵父と共に病院の自動ドアを抜け、解放感から軽く肩を回す。
「息が詰まる」
「それも今日で終わりだ。どこも悪くなくてよかったじゃねえか」
「でも記憶に関しては匙を投げられました」
「……それは」
異常なし。それ自体は喜ばしい。だがそうなると、なぜカムイは記憶を失っているのか。どこにも異常はないというのに。
「警察の方からも連絡ねえし、確かになんも解決してねえな。すまん」
「謝んないでくださいよ。別に責めてるわけじゃ」
なんの落ち度もない叶恵父に謝られ、渋い顔をするカムイ。むしろこちらは感謝するべきだろうにと、この3日間のことを掘り返す。
「というか、ありがとうございます。自分が誰かも分からない奴を、家に居座らせてもらって」
「ん? ああ、いいんだそれは」
「軽……」
フォローのつもりが、存外にあっさり流された。記憶喪失の他人を居候させることには、結構な度胸がいると思うのだが。そんな、ジュース奢る程度のテンションとノリで許容できる事案ではない気がするが。それとも自分から記憶が抜けてるだけで、世間じゃ割とそんなものなのか。
などとごちゃごちゃ考えるカムイを察し、叶恵父が補足するように言った。
「叶恵が『そうしたい』って言うんなら、俺はなるべくその通りにしてやりたいんだ。だから気にすんな」
どこか含みのある言葉を終え、叶恵父はカムイの肩をポンと叩く。
「…………」
それが親というものか……だとしても、捨て犬を飼うのとは話が違う。子のおねだりで記憶喪失の人間を住まわせる親が、この人以外にあと何人いるのか。
という具合にまだ腑に落ちていなかったが、納得したことにしてカムイは口を噤む。あまり切り込んだことを聴けるような立場じゃない。
「正直まだ困惑はしてるぞ。『この人飼っていい?』なんてパワーワードぶち込まれたの、流石に初めてだったからな。まあ似たようなパターンで色々飼ったことあるから、多分なんとかなんだろ」
「……え? まさか本当に俺のこと大型犬くらいに思ってます?」
「安心しろ。俺は人として接するから」
つまり叶恵はその限りじゃないらしい。カムイは1人戦慄した。
「冗談はこんくらいにして帰るぞ。もうすぐ叶恵も帰ってくることだし」
「あ。ちょっと俺、その辺散歩してきていいすか」
「散歩?」
カムイの数歩前まで歩き出していていた叶恵父が、訝しげに振り返る。
「街の風景とか眺めてたら、なんか刺激があって記憶が戻るかなと」
「あー、確かにワンチャンあるかもな。この辺がお前の地元なら、見覚えのある景色もあるだろ。あんなどうでもいい廃ビルに、他所から来た奴がいる訳ねえし」
「……ですよね。そう思います」
何気なく交わされたやり取り。そこに潜む違和感を、カムイは一旦飲み込んだ。とりあえず話を終わらせる。
「暗くなる前には、適当に帰ります」
「おう。気ぃつけろよ」
左手をジャージのポケットに突っ込んだまま、右手を小さく振って叶恵父を見送るカムイ。向こうが正面に向き直ったタイミングで、右手もポケットの中に収めた。そして俯き、眉間をやや力ませて考え込む。
記憶を失い、目覚めてから3日。その間なにもしていなかった訳じゃない。自分のことは分からなくとも、調べられることはある。手始めに、自分が眠っていた廃ビル。あまり期待せずカムイなりに調べた結果、その異常性に愕然とする。
叶恵父曰く、あれは2週間前に突然現れたという。何人かの看護師にもさりげなく聴いたが、どうやらデタラメじゃないようだった。
「そんな謎スポットに記憶喪失の男? 世界を揺るがす大スクープだろ」
自意識過剰でもなんでもなく、客観的にカムイは思った。まるで漫画やゲームの導入。注目するなという方が無理な話だ。
なのに。だというのに。カムイの世界は、至って平凡に回っている。マスコミも野次馬もあの廃ビルに集まらないし、カムイ自身も謎の大きな施設に連れていかれたりしない。
こんなリアルに放たれたフィクションを、誰もが一切気にとめていなかった。どころか、関心を向けるという発想すらないように感じる。不自然極まりない。人の理解の外にある、超常の力が作用しているかのようだ。
「……行ってみる価値はあるよな。というか、俺が行かなきゃ誰が行く?」
話によると。叶恵が廃ビルを訪れてカムイを見つけたのは、警察の調査が終わってからほんの1日か2日後らしい。その僅かな時間の間に、カムイは廃ビルに入り。そしてなぜか、記憶を失い眠ったことになる。
空白の時間になにがあったかは勿論不明。もしかしたら、誰も知らない手がかりが残っているかもしれない。一応、警察が追加で調査したとは聴いている。だが人の関心をすり抜けるあそこが、きちんと調べられたかは信用しがたかった。となれば、自分自身の目で確かめるしかない。
立ち止まっていたカムイが、ようやく歩き出す。その足に迷いはない。行くのは目覚めた日以来だが、1度通った地形はなんとなく把握済みだった。
「俺って物覚えいい方なのか? 3日前以前はなんも覚えてないけど」
自分の知らないパーソナルデータを想像しつつ、歩くこと数分。カムイは道中にある小さな公園にふと目をやった。敷地の真ん中付近にある木の下に子供たちが集まって、一様に上を見ている。つい立ち止まってより注視したところ、どうやら枝にボールが引っかかっている様子だ。
「…………」
ざっと3メートル前後、といった高さだった。子供どころか大人のジャンプでも厳しい。登れないこともなさそうだが少し危ない。なんとなくそう考えたとき既に、カムイの足は公園の方に向いていた。
「俺は結構お人好しなんだな」
小声でそう呟いた。子供の1人がカムイに気づき、そちらへ振り向く。つられてまた1人、と連鎖し全員の視線がカムイを捉えた。
「あれ、取れなくなったのか?」
ボールの真下に着いたカムイが、上を指差しながら言う。子供たちはおずおずと頷いた。
「ちょっと待ってな」
助走のために数歩後ろへ。軽く息をつき、地面を蹴る。木からやや離れた所で、大きく踏み込み跳び上がる。そして三角飛びの要領で、木の幹を蹴って斜め上へ。手をボールに伸ばす。長さが、ほんの少し……指の関節1つ分足りない。
「……ッ!」
その、足りない長さ分を補うように。カムイの指先から、黒いなにかが伸びた。突き出たそれにつつかれて、ボールが枝から離れて落ちる。
「わあ……!」
「すげー!」
「ありがとう!」
地面を弾むボールを追いかけ、子供たちは嬉しそうに散っていった。
「……これは覚えてる」
着地したカムイは両の手のひらを払いつつ、またポツリと呟いた。