第2話「葉隠叶恵の探しモノ」
俯いているので顔つきは窺えないが、恐らく少女と近い年齢層。程よい長さの黒髪に、緑色のヘアバンド。それも、前髪を上げず額に押さえつけるような、独特のつけ方。無地のシャツの上に羽織っているのは、緑と黒を基調とした、少し洒落たジャージ。そして、裾をまくったジーンズとスニーカー。
総じて言うと、少年は非常にラフな格好をしていた。
「さっきまでいなかった、よね」
呆気に取られながら、少女は呟く。よく見ていなかったが、そこに人がいれば流石に気づく。そういう気配には敏感だと、少女は自分で思っている。だから間違いない。なにもなかった空間に、突然人が現れた。
「……凄いッ!!」
少女の頬が、瞬く間に紅潮していく。弾けるような笑顔が浮かぶ。不可解や恐怖が消し飛ぶ程の、満ち満ちる満足感が止まらない。ずっと昔に失くして、それっきり忘れ去っていたものが、意図しないタイミングで見つかったかのような感覚だった。
力が入り過ぎてよろめく程の勢いで立ち上がり、少女は少年の方へ駆け寄る。
「も、もしもし? 聞こえる?」
興奮したまま不用心に声をかけ、反応を窺う少女。対して少年の方は、項垂れた状態からピクリとも動かない。
「寝てる?」
少女はしゃがみ、横から少年の顔を覗き込んだ。目が開いているかどうかを見たかったのだが、予想外の光景が映って一瞬固まる。
眉間辺りから右頬にかけて、大きな傷があった。まだ刻まれてから新しいのか、赤い液体が粒になって垂れる程に滴っている。
「っ!」
固まった体を上手く再駆動できず、少女はバックステップ気味に尻餅をついた。反動で被っていたフードが脱げ、薄い茶髪のボブヘアーが露わになる。
それと同時に。
「…………うぅ」
少年の口から、呻き声が漏れ出した。
「へ?」
少女は思わず、素っ頓狂な声を上げる。被り直そうとフードに手をかけた半端な状態のまま、少年の様子に釘づけになる。
「……に……俺は……大…………」
「…………」
まだ覚醒はしていないらしく、途切れ途切れのうわ言が続く。少女は目を凝らし、少年の様子を改めて窺った。血を流す少年の表情を、吸い込まれるような心情で観察した。その結果。
「はっ……!」
傷のせいか、どこか苦しげな顔をしていると気づく。
「ねえ、大丈夫!? 救急車呼ぶ!?」
少女はすぐに姿勢を戻し、少年の肩を手のひらで叩いた。強く揺らし過ぎないように気を使いつつ、耳元に口を近づけ呼びかける。探検で成果を上げた、という興奮は既にない。ただただ無性に、どうしてか。彼のことが、たまらなく心配になっていた。
「ねえ、ねえ! 起きて! 起きてってば!」
「うっ……?」
やがて少年の瞼が痙攣し、薄らと重たげに開いた。冴えない目つきで周囲をゆっくり見渡した末、尚も叫びかけていた少女と目が合う。
「…………」
「はう」
じっと凝視され、独特の声を最後に一転して押し黙る少女。少し冷静になって、フードを被りかけだったことを思い出す。おずおずと深く被り直して、困ったように視線を逸らした。
「ええ、と……あの。あのー……その」
いざ相手の意識があると、どう対応していいか分からない。発見直後のテンションならなんとかなったが、変に間が挟まると勢いで押し通せない。結果なにも纏まらないまま、しどろもどろに口だけ開く。人付き合いに関しては、これが少女の素であった。
「……なあ」
そんな様子を寝起きながらも見かねてか、少年が初めてまともに言葉を発する。
「お前は誰だ?」
ややぶっきらぼうな口調。しかし、少女の心は不思議と少し落ち着いた。一呼吸置きつつ、聞かれたことを反芻して答える。
「……わたしは、叶恵。葉隠叶恵」
少女――改め叶恵は、なんの抵抗もなく名を告げた。お返しとばかりに聞き返す。
「あなたは?」
「…………」
「……あれ? 聞こえなかった?」
「いや、すまん。そうじゃなくてだな。困ったことになったな、と」
「なにが?」
顔面が血だらけになっていることだろうか、なんて叶恵はやや呑気に思った。絵面はショッキングだが、どうやら意外と余裕がありそうで安心する。だがその安心は、次の一言で呆気なく上書きされた。
「……自分が誰なのか分からん。俺は誰だ?」
叶恵は再び固まった。非現実、非現実、更に非現実に次ぐ非現実。非現実の波が、叶恵の思考回路をあっさりと飲み込む。
「……まじ?」
「マジ」
「名前分かんないの?」
「分からん」
「ここがどこかも?」
「見当もつかん」
「……天下統一したのは?」
「え? あー……豊臣秀吉」
「あれ? 信長じゃなかったっけ」
「違う。聞くなら正解知ってろよ」
流血身元不明男に呆れられつつ、叶恵は首をひねった。この現象、名前だけなら知っている。漫画やアニメによく出てくるが、実際目の当たりにするのは初めてだ。
「つまり記憶喪失……! わたしより歴史に詳しいのに」
「今のは一般常識だと思うけどな」
冷静なツッコミを受けながらも、叶恵の興奮はぶり返していた。目の前の事実に理解が追いつく。それに従い、髪に倣って色素の薄い灰色の瞳が、子供のようにキラキラ輝く。
「凄い! やっぱり凄いっ!!」
叶恵がずいっと前のめりになり、互いの顔の距離が一気に近づいた。テンションの急上昇に、流血少年は気圧されて若干身を引く。
「突然現れた誰も来ない廃墟で! いきなり変な音したと思ったら! さっきまで誰もいなかったのにっ! いつの間にか!! あなたが!! しかも!! 記憶喪失ッ!! こんなの……!! こんなのッ!!」
「な、なんだよ……」
早口で次々とまくし立てる叶恵に、少年は完全に圧倒された。それでも意に介することはなく、叶恵の興奮が矢継ぎ早に飛び続ける。
「わたし探検が好きで! 今までも色んなとこ行ってきたの! それで変なもの見つけたり凄い所に着いたり! いつもその瞬間が楽しくて! でもすぐなんだか物足りないなあって!」
「それは、なんというか……ドンマイ?」
「でもねでもね! さっきあなたを見つけた時は違ったの! ピシャッて来たというか! スポってハマったというか! 遂に来たっていうか! うーん上手く言えないけど! とにかくこう思ったの!」
叶恵はとうとう立ち上がり、小さな体をうんと反らせて両手を広げ。
「わたしはきっと、あなたのことを探してたんだって!」
最後にむふん、と鼻息を荒げた。
「…………」
少年はなにも言わない。というか、ひたすら呆然とするのみでなにも言えなかった。目覚めたら知らない場所にいて、自分が誰かも分からない。そしてさっきから顔が痛いし濡れている感覚があるので、多分流血レベルの怪我をしている。極めつけには、見知らぬ少女にこんなことを宣われた。控えめに言って、頭がバグりそうだった。
ただ。困惑こそすれ、なんとなく嫌な気分ではなかった。
「それじゃ、まず病院行こ? 顔痛そうだし」
「……多分金も保険証も持ってないぞ、俺」
「え、いる?」
「いるだろうよ」