第1話「ハッピーエンド&リスタート」
4月末の未明。A県某所に突如、謎の廃ビルが出現した。
第一発見者はジョギング中に通りかかった男性。曰く、ほぼ毎日通るコースであり、前日までそこはまっさらな空き地であったという。人通りこそ多くはないが、程近い場所に住宅街があり、そこから視認できる範囲内だ。
廃ビルは高さ12メートルほどの3階建てで、建築構造は鉄筋コンクリート造。建築面積は平均を下回る小規模なものだったが、だからといって人目を忍び一瞬で建てられようはずがない。あまりに異常な出来事である。
しかしこの廃ビルの存在が、広く認知されることはなかった。テレビで報道もされず、ネットニュースの記事にもなっていない。一時はざわめいた地元の住民たちすら、3日もしないうちに気に留めることがなくなった。
まるで、認知できない超常の力が働いたかのように。謎の廃ビルは、まんまと世界に溶け込んでしまった。ほとんど誰も、もうその存在を不思議に思う者はいない。
一部を除いて。
「えっほっ、えっほっ」
1人の少女が、好奇心を宿した無邪気な瞳で、廃ビルを見据えながら駆けていた。
近くにある高校の制服を着ているが、小学生と言われた方がしっくりくる低身長と童顔。その上から、袖がやや余った濃い紫色のパーカーを着込んでいる。深く被ったフードには、猫耳のような飾りつき。
実年齢に不相応な要素が噛み合って、少女は元の外見以上に幼げな印象を放っていた。
「おおー……これが」
目的地に辿り着いて、軽く肩で息をしながら感嘆の声を上げる。
廃ビルの出現から、今日で2週間弱。今や誰も話題にすら出さない、風景の一部に成り果てた不可思議な建造物。それでも一応、最近まで警察による捜査が行なわれていて、一般人は立ち入れなかった。
それも昨日か一昨日には完全に終わり、廃ビルは真の意味で誰にも気にされない廃墟となったのだ。少女はこの時を待っていた。衰えることのなかった好奇心を、満たせる時がやっと来たのだ。
「本当に誰もいない。なんでだろ、こんなに面白そうなのに」
肩から下げた鞄の中身を物色しながら、少女は独りごちる。愚痴っぽいものではなく、口調はどこか弾んでいた。むしろ1人の方が気楽だからラッキーとでも言いたげに。
鞄から懐中電灯を引っ張り出し、満足気に掲げる。下校してから直行で来たためそこまで暗くはないが、持ってる方が雰囲気が出るとでも考えたのだろう。
「いざ!」
元気な掛け声を上げ、少女は勇み足で廃ビルへと踏み入る。
直前、なにかに亀裂が入る音がした。
「ん?」
辺りを見渡すが、発生源らしきものはない。ガラス片でも踏んづけたのかと思ったが、そんな感覚も特にない。そもそも足元から聞こえたものではなかった。
……というか。今のがどこから聞こえたのか、少女には認識できていなかった。前方からだった気がするし、後方からだった気もする。遠くから聞こえたような、あるいは近くから。
「…………」
少女は小首を傾げる。謎の建物に入ろうというまさにその時、どこからともなく聞こえた異音。空耳だろうか。それにしては薄気味悪いタイミングだった。
面白半分の魂胆が、出鼻を挫かれる。好奇心という本能が、恐怖心という理性に負ける。そんな場面である。
「……いざ!!」
しかし少女は、理性よりも本能に忠実だった。改めて。心なしかさっきより、語気を強めた掛け声を上げ。力強く廃ビルへと突入した。意味があるのか怪しい明かりを灯し、入ってすぐのフロアを散策し始める。
静かだなあ、とまず思った。元より人通りの少ない場所。その上、自分は今特別なことをしているんだという感覚。それらが一層、この無音を際立たせる。そして、自然と口元が緩む。瞳の中の輝きが増す。
「フフ」
少女は探検が好きだ。幼い頃から、1人でフラフラと出歩いていることが多かった。誰も訪れないような、寂れた場所に辿り着いたり。誰も見つけていないような、奇妙な物体を見つけたり。その度に、形容しがたい満足感が心の中にあふれ出る。その感覚が特に好きだった。
しかしなぜか、同時に虚無感にも襲われた。そのせいでせっかくの満足感が、どこかへ逃げてしまう。だから、また探検へと繰り出す。それが少女のサイクルだった。
楽しい気持ちなのにガッカリするのは、本当の本当に凄いものを見つけていないからだ。きっと自分は、世界だって変えてしまうような、とんでもないなにかを探しているのだ。いつしか少女は、そう信じるようになっていた。
「なんにもない……」
しかし、探索すること数分。期待を裏切るかのように、廃ビルの中はこざっぱりとしていた。警察が調べた後で、そう大層なものが残っているわけがないのだ。それくらい当然の話なのだが、少女はそこまで頭が回っていなかった。基本的に本能でしか動かないがゆえの弊害である。
少女はつまらなそうに口を尖らせ、隣のフロアへ移動した。
瞬間。再び亀裂の音が響く。
「え!?」
視線をキョロキョロと忙しなく走らせる。なにも見つからない。どこから聞こえたのかすらも、やはり不明瞭。
さっきは勢いで誤魔化したが、流石に驚きが上回ってきた。肩を丸め、体を縮こまらせた少女の顔に、怯えの色が滲み出す。
「なに? もしかして誰かいる……?」
不安げに、ジリリと歩を進める。
呼応するように、大きく亀裂の入る音が少女を揺さぶった。
「ひゃあ!?」
思わず肩を跳ねさせる。
割れる。もうすぐ、なにかが割れる。それが一体どんなもので、割れたらどうなるのか。少女には何一つ分かりはしないが、とにかく割れる。
探検という趣味に興じる中で、少女は久しぶりに恐怖を覚えた。本能が言っている。異常なことがこれから起こると、根拠はないが叫んでいる。
怖い。帰りたい。やめとけばよかった。
でも――見てみたい。
「…………」
相反する本能が、数秒せめぎ合った末。少女は瞼をギュッと閉じ、足を上げた。
「ッ!」
靴の底が、フロアの中の一歩先に接地して。亀裂が駆け抜ける音が、少女の感覚器に流れ込む。本能の天秤は、好奇心の方に傾いたのだった。
「うぐぅ!」
あまりのけたたましさに少女は耳を塞ぐが、音を全く遮れていない。まるで、頭の中に直接響き渡っているかのように。他のなにも介さず、脳が。あるいは、もっと深層の部分が。いわば魂が、直に振るわされているような。そんな異様な感覚に、為す術なく晒された。
遂に少女がうずくまった時、音はようやく終わりを告げる。亀裂に喰い荒らされたなにかが、粉々に砕け散るのを感じた。一転して、さっきまでのような静けさが少女に戻る。
「うぅ……」
目を白黒させながら、しゃがんだ姿勢のまま顔を上げた。吸い込まれるように、真正面を見据えた。
そこに見知らぬ少年が、壁にもたれて座り込んでいた。
「――――」
目を見開き、息を飲む少女。
なにかを見つけては、満足感と虚無感を同時に味わってきた。それが苦なのではない。ただ、いつか虚無なんて感じないほどの大発見をするのが夢だった。
そして今。奇妙な廃ビルで、奇妙な少年を目にした瞬間。少女の中から困惑が消えて、満足感が込み上げてくる最中。
そこに、一切の虚無感はなかった。