3 夢を見たって現実は
暦のうえでは春が来たといえ、まだまだ夜は肌寒い。眠るに眠れないまま外に出て、脳裏に焼きついて消えそうにない、朝焼けのように綺麗な赤い髪の青年のことを、意味もなく思い返す。
(この家を出る、か)
今まで考えもしなかった。伊鞠の人生は全て寒凪家と、寒凪家の人々で完結していたのだから。外の世界に目を向けることなんてなかったし、向けたところで何が変わるわけでもない。
(私、変だ)
名しか知らぬ青年の一言に、こんなにも胸に残って、離れない。紅の真意を知りたくて、あんな質問をしてしまうくらい。
結局は伝わることのなかった、一方通行になったままの気持ち。
(でも、また会えたなら、今度は)
拒絶しないで、紅の気持ちを、ちゃんと聞きたい。
目を閉じた。
冷たい夜風が頬を通り過ぎていった。
いつもと変わらない朝。雪のようにふわふわとした雲が空を泳ぐ。大きく背伸びをして、身体いっぱいに息を吸い込むと、生きている感じがする。朝の誰にも邪魔されない時間が、たまらなく好きだ。
ひとりでいるのは楽だし、傷つく必要もないのだから。
「今日も、いない……よね」
今日は幾分かあたたかくなった。あたたかいと仕事のやる気も上がるような気もする。動かす手が早くなるわけではないのが難点だが。小鳥のさえずりはいつだって楽しそうで、軽やかだ。
どこまでも飛んでいける羽があれば。あの日から時折、そんなことを考えてしまって、それと同時にあの赤髪が目の前に現れてくれることに少し期待してしまっている自分がいる。
いつもどおり、一日は穏やかに過ぎていく。紅に会った次の日から、伊鞠は屋敷での仕事を一切させてもらえなくなってしまったので、日常はかなり退屈なものへと変化したのだが。
「伊鞠様、当主様がお呼びです」
「はい……?」
使用人を束ねる長であり、当主からの信頼も厚い老爺から、声をかけられるのは指で数えられるほどしかない。それだけに、動揺する。
当主からの呼び出しなんて、嫌な予感しかしない。折檻の呼び出しに彼を使うほどには伊鞠に価値はない。
とすると、さらに厄介なことに巻き込まれるような、そんな気がする。
粗末な身なりのまま、当主が待つ部屋へと歩んでいく。心臓が自然と早鐘をうつ。
障子戸を自らの震える手で開けると、こちらを見ようともしないで、悠然と佇む当主の姿があった。
用意してあった、ふかふかとした座布団におずおずと腰を下ろす。
すると、開口一番。当主は伊鞠をろくに見ることもせず、言い放つ。
「家を出て行け。能力も持たない出来損ない」
「ど、うしてでしょうか」
精一杯やってきた。使用人にすら馬鹿にされ、畏れられ、それでも生きていくにはこれしかなかった。だから、誰よりも頑張って、仕事だって覚えて、それなのに。
家にずっといたいとは思わない。でも、外の世界は怖い。なら、一生をここで過ごす方が良い。
「そんなこともわからないのか? おまえは華宿りで、しかももう十六。これ以上家においても何の利益もでない」
「……申し訳ございません」
金は用意したからここらで野垂れ死ぬのだけはやめてくれ、と話す男を、どこか遠くで眺める自分がいる。
──また真白か。何も知らない純粋すぎる双子の妹。対して自分はどうだ。たしかに同じ血が流れているはずなのに。
真白が天から降る汚れを知らない雪であるなら、伊鞠は雪どけの時期の、土に混じって汚れてしまった、薄汚れた雪だ。
「伊鞠様、こちらです」