2 住む世界の違うひと
(誰かに、見られてないよね)
傷口から出てくる華を押さえながら辺りを確認すると。
「おまえ、寒凪家の者だろう? なぜ、そのような粗末なものを身につけている」
十七、八くらいだろうか。そこには鮮やかな赤の髪の青年が立っていた。肩につくくらいの髪は無造作に一つにまとめられている。
訝しげな声音で、伊鞠へと問いかける声は、硬く、冷たい。ひゅっと、息を吸う音がやけに大きく感じられて、それくらいの威圧感があるこの青年は一体何者だと考えを巡らせる。
「……何故、私が寒凪家の者だと?」
おそるおそる、問いかける。粗末な身なり、木の枝のように細い身体、箒を持っている姿。どれをとってもこの国、朱雀国で最も影響力のある五家の一つ、寒凪家の娘とは見えない。
「決まっている。白い髪は寒凪家の血をひく者にしか現れることがないからな」
「そう、なんですか」
「必ず現れるもの、というわけではないがな」
久しぶりに、まともな言葉を相手と交わしたせいで、声が震えてしまった。宝玉のように綺麗な赤の瞳は、真っ直ぐに伊鞠自身を見据えている。
それがなんとも、恐ろしいような、嬉しいような。なんとも表せない感情が、頭を支配する。
「名は?」
「……伊鞠です」
「俺は紅とでも呼んでくれ」
そう言って、紅はいくらか考え込んだ様子で視線を下の方へやり、すぐに視線を伊鞠へと戻す。なにやらつぶやいているような気もしたが、おそらく気のせいであろう。
「あの、どうか私に会ったことは、内密に。きっと当主様のお客人でございましょう?」
「何故だ?」
──あぁ、やはり住んでいる世界が違うのだ。きっと紅は、伊鞠が他所の者と顔を合わせただけで、酷く怒鳴りつけ、人としての尊厳を全て否定されるだなんて、思いもしないのだろう。
そんなことを想像もできないくらいに、あたたかい世界で生きているのだろう。こんなことを考えてしまうなんて、馬鹿馬鹿しいのに。
羨ましくて、羨ましくて、堪らない。
この人を前にすると、なんだか自分がひどく惨めで、たまらなくなる。
「……私は、忌々しい存在なんです。貴方みたいなお方と顔を合わせ、会話をすることすら不相応。だから当主様に、叱られてしまいます」
「それでいいのか? おまえは、伊鞠はそうやって諦めたままで、いいのか?」
「……る、しか。諦めるしか、ないじゃないですか! 希望を持ったところで、何の意味もない、諦めるしかない。だって、私は華宿りなんです。だから、だから」
何がわかるというのだろうか。何にも知らないくせに。恵まれている者には自分の気持ちなどわかるはずもない。分かってほしくもない。
産まれてからずっと、諦めることしか知らなかった。明日に希望を持つことすら、許されなかった。そんな気持ちが、一気に堰を切って溢れ出す。
「華宿りなら尚更胸張って生きればいいだろう。稀有な存在なんだぞ」
何を言っているんだ、というような顔で紅は見当違いなことを真面目な顔で返す。そう言いたいのはこっちの方だ。
「ここにいる限り、いいえ。生きている限り、私はずっとこのままです。身勝手なことを言わないでください」
「──だったら、この家を出ないか? 俺と一緒に」
「え?」
思わず拍子抜けした声を出してしまった。でもそれくらい想定外の出来事で。名案を思いついたとでも言うように自信に満ちた声音で提案する紅に、苛立ちを通り越して呆れてしまう。
「何故貴方と一緒に家を出なければいけないのですか? 初めて会ったばかりの方に、自らの行く末を任せたくはございません」
きっぱりと芯の通った声で、紅の提案を断る。
「……っ。そう、だな。悪いことを言った」
何故だろう。紅は一瞬悲しくてたまらないといわんばかりの表情をして、伊鞠の言葉を受け入れた。
(そんな表情されたら、私が悪いことでもしたみたいじゃないの)
なんだか罪悪感を感じてしまう。
「……あ、あの。何故私を家から連れ出そうなどと」
「客人を前に何をしている、汚らわしい華宿り」
固く冷たい声。視線の先には、まるで雪のように白い髪の、男性。体が重い鉛を呑み込んだかのように重くなる。
「すみません、申し訳ございません当主様、私、掃き掃除を。それで」
「それがどうした。早く退がれ、おまえはこの場にいることの出来るものではないだろう。…
…お見苦しいところをお見せしました。若様、どうかこちらへ」
「あぁ」
打って変わって朗らかな笑みを湛えた寒凪家当主は、紅に客間へと入るよう促す。客人がこの場にいたおかげで、一時あの生き地獄にいるかのような状況から解放されたのは不幸中の幸いだ。
この若さでここまで敬われる立場の紅は、一体何者なのだろうと、そちらの方をはたと見ると、紅は当主の言うがままに、客間へと足を踏み入れるところだった。伊鞠の視線に気づいたのか紅はこちらを一瞥して、中へと入っていく。
それを見届けて、伊鞠は掃き掃除をしていた手を再び動かし始める。
痛みにはもう慣れ切っているはずなのに、何故だか、ちくりとどこかに痛みを覚えた。