一話
それは、物心ついてから一日と経たずに浮かんだ想いだった。
何者かになりたかった。なんでも良かった。少し外に出れば、どこにでもいるようなその他大勢。おそらくはそのカテゴリーに含まれるであろう、今の自分の在り方に耐えられなかった。だから私は、歩みを進める。この先にどんな苦難が待ち受けていようと、自分の望む答えを手に入れるまでは。
………。
………………………。
………………………………………………。
永い旅だった。
宇宙の果てを漂う超巨大宇宙船。ひとつひとつに生態系形成に必要な要素の全てが内包された箱型の居住区画は、全てが均一なサイズで整然と並ぶ。
それだけでも驚愕に値するが、たとえ中身を知らずとも、それらの箱は外見だけでも壮観な有り様だった。
なにしろ巨大なのだ。装飾が優れているとかと言ったような飾り気のある小洒落た視覚的要素は無いが、とにかく途方もなく巨大なのだ。
ひとつの箱だけで、訪問者の生まれ育った故郷の地球よりも遙かに大きく、巨大な正方形からは、上下左右前後と6方向に伸びた通路が別の箱へと連結しており、連結した先の箱が更に他の箱へと繋がっていくのが眼前いっぱいに広がる光景は圧巻の一言だ。しかもそれが、比喩でもなんでもなく、本当に眼前を覆い尽くす程に広がっているのだ。縦にも横にも奥にも、まだ若輩者とはいえ、神の視力を持ってしても先端が確認できないほど長く伸びているのだ。端から端に辿り着くまで何光年掛かるのだろうか。どんな技術者が、どんな素材を用いて、どれほどの歳月と労力を費やせばこんな宇宙船が造れるのだろうか。
質、量ともに宇宙一の品が揃う万屋。通称、座標X。あらゆる神があらゆる星から何光年もの旅をしてまで足を運ぶ空間。商品を目にしていない段階で既にその一端を垣間見た。
なんと膨大な規模なのだろう。これを言葉で言い表せる言語など地球という星には存在しない。
「凄い……凄過ぎる……ぼ……僕がこんな宇宙船の主にお目通しを願うのか…い…いまさら緊張してきた……なぜ主神様が直接出向かないんだ……とにかく、失礼のないよう気を付けないと……」
座標Xに辿り着いた訪問者は、白い手袋を着用した両手を交差させ、燕尾服の上腕部を外側から内側へ引き込むように握り締める。筋肉質だが少し痩せ気味の身体を更に縮め、濡烏のミディアムヘアが自身の震えと宇宙船の噴き上げる風とで靡き、美しく整った中性的な顔が緊張で強張る。
『落ち着け。変に意識するからいけないんだ。ここまで来たんだ。どのみち進むしかないんだ。深呼吸して心を落ち着かせるんだ』
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。それを繰り返す度に、母星の地球とはまるで異なる成分が肺を満たすが、宇宙環境に適応した神の身体は深呼吸という行動を継続する。
ゆったりとした行動を何度か繰り返す事で自然と落ち着きが戻って来た。
平常心になったところで、改めて眼前の超巨大建造物へ意識を戻す。紅玉の様な紅い瞳が、眼鏡のレンズを通して忙しなく、宇宙船の上下左右と、見通せる角度の奥行きを見やる。
「……………どこが入り口だ?」
どこまでも続く変わり映えしない巨大な箱は、いずれも外側からの入り口らしきものが見当たらない。目を逸らしたくなるような現実が、いやでも意識の片隅から這い寄って来る。道中で襲い掛かってきた宇宙生物や、高速で宇宙空間を漂うスペースデブリへの対応によって、彼はかなりの疲労を溜め込んでいた。苦労してようやく目的地に辿り着いたと思った矢先に、今度はどこにあるとも知れない出入り口を探さねばならないのだ。言葉では一言で済んでも、実行するとなると話しは別。形容し難いほど馬鹿でかい物体は、移動に掛かる時間の単位が年単位では物足りないほどの代物だ。闇雲に探してはキリがない。なにか目印になる物はないだろうかと視線を動かすが、それらしき物は見当たらない。
茫然と宇宙船を見上げていると、下の方から、なにやら微かな音が聴こえてきた。音のする方向へ素早く視線を移すと、他の物と変わり映えしない箱と連結していた通路の一部が根本から離れていき、連結部にぽっかりと穴の空いた箱の中から、スクーターのような物が男の方向へと向かって来た。スクーターのような物は、何かの罠であろうかというような警戒心を煽らず、それでいて退屈を感じさせない速度で、素早く訪問者の眼前に参着した。
「どうも!」
一見すると、地球の無機物となんら変わらない見た目のスクーターが言葉を発する。決して機械的で無く、生物然とした声色だった。
「え?あ……ど…どうも……」
驚いて言葉に詰まる。即座に気の利かなかった自分の受け答えを表情に出さずに自己嫌悪する男へと、スクーターのような者が続けて喋りだす。
「多種族ヒーロー養成工場兼万物売買屋へようこそ!なにかをお買い求めですか?」
「そうです。買い物する為にここへやって来ました」慌てて肯定の意を示す。
「承知しました!では私の背中へ!」スクーターはそう告げて、後部車輪を男へと向ける。
『背中………?ここの事……だよな?』
スクーターのシート部分へと跨る。
「し、失礼します」
見た目はただの無機物だが、こうも流暢に喋る者に、しかも初対面の相手に乗るのは流石に気後れしてしまう。少なくとも地球の常識からは外れているが、スクーターは特に気を悪くした様子もなく、ハンドル部分をしっかり握っているようにと注意を呼び掛けてから、高スピードで宇宙空間を走り、箱の中へと舞い戻る。
箱の中に到着すると、横幅が人間2人分程の、狭い一本道が伸びる空間が視界に映り込む。もうすこし正確に表情するならば、狭い一本道ではなく、左右に乱雑に敷き詰められた物のせいで道幅が狭まったというのが適切だろうか。本来なら人間が横に3000人以上は並べるような広い通路も、無数の物で埋め尽くされ、歩ける箇所が大きく制限されている。足元の床から天井までは70メートルもの高さがあるが、それぞれ形の違う大小様々な物品は天井まで積み上げられるだけに飽き足らず、歩行可能箇所の真上で、左右が互いに突っ張りあってアーチ状になっている。見た事のない色々な物品が頭上まで積み上がる空間はまさに異常だった。
「お客様。申し訳ございませんが、私から降りて頂けないでしょうか?連結部を元に戻す作業と、周囲の見回りがありますゆえ」
「あ!すいません。いつまでも跨ってしまって」
言葉に従ってスクーターから降りる。
「いえいえ!それでは、私はこれで失礼します。どうか良い買い物を」
再び宇宙空間へと飛んでいくスクーターを見上げていると、突然、背後から声が掛かる。
「良く来たな客人。遠路遥々ご苦労。歓迎するよ」
振り返れば、無数の物品の中から人の顔が覗いていた。白目の部分は血の様に赤く、黄土色の瞳は満月のように鈍く光り、瞳の中心部は、満月の中に虚無の空間へと繋がる穴が開いたかのような漆黒だった。あどけない少女のような顔立ちだが、病的な色白い肌と生気が無いほどに落ち着き湛えた顔は、特異な瞳と相まって異形の風貌だった。
「よっ…と」
少女のような人物が物品の山の中から這い出て全身像が露わになる。体型は華奢で小柄な子供のものだ。雪のような肌と同じぐらい白い長髪の髪は、髪自体が服の役割も兼ねるかのように少女の胸部と秘部を覆い隠し、服だけでなく、オペラグローブのように肘から手首、ハイソックスのように膝から足首までにもぐるぐると巻き付き、それでもなお余る程に長い髪が裸足の足元まで伸びている。
「はじめまして。私の名はゼノ・マインド・E。一応、ここの支配者だ」
『支配者!?いきなり!?まずい!目上の相手に先に名乗らせてしまった!』
「はじめまして!自分の名前はアルフィル!地球の善神です!オーナー自らのお出迎えとは恐縮です!本日は多種族ヒーロー養成工場兼万物売買屋で買い物をさせて頂く為に自分の主神の遣いで参りました次第でありまして」「あ〜イイいい。そういう挨拶は好かん。名前と目的が分かれば充分だ。君が誰の遣いだとか、善神だとか邪神だとか悪魔だとかはどうでもいいし興味もないんだ。相手の本質を知るに当たって、肩書きなぞまるで意味を成さないからね。少なくとも私から見た君は、地球生まれの神でもなく、善神でなければ誰かの遣いでもない。アルフィルという一個人だからだ。私の言ってる意味が分かるかな?」
自分の言葉を遮って、責め立てるように主張を口にする相手の質問に、思わず幾ばくかの不満の感情を抱くが、アルフィルはそれを表情に出さないまま質問に対応する。
「はぁ、おおよその意味は分かりますが」
「たしか地球の諺には、生兵法は大怪我のもと、という言葉があったね。おおよそとか中途半端な言葉は安易に用いるべきでは無い。イエスかノーで答えてくれ」
「…………ノー」
「ふふ、君はつまらないな。少しは感情を顔に出したらどうだ?神のくせにお堅い考えだ」
揶揄うかのように少女が小さく笑う。
「まぁ簡単にひとことで説明するなら、立場など気にせず気楽に行こうって言いたいのさ。私の事はゼノと呼んでくれ。よろしく頼む」
若干緊張しつつも、差し出された手を快く握り返す。
「は、はい!こちらこそよろしく!」
「じゃあ、施設を案内しようか」
握手を終えた手をそのままアルフィルの右腕に回し、ゼノが全身を押し当てるように寄り添う。
「ち、近くないですか?」
「なに、孤独な1人旅で人肌の温もりに飢えているであろう君への配慮じゃないか」
「いや、自分は大丈夫なので結構です。す、すこし離れて頂けませんか」
「なんだよつれないなぁ。それに、まだ堅苦しい口調が抜けきってないぞ」
「生まれて間もない神なので周りが目上の方ばかりなんですよ。だから敬語が染みついちゃって、逆にこの喋り方でないとむず痒くて落ち着かないんです」
「そうか。なら無理強いはしないが、腕を離す気はないぞ。その方が色々と都合が良いのでな。君にとっても、私にとっても」
「はぁ……と、いうと?」
「まぁ道中で説明するよ。ほら、こっちだ」
腕を引かれ、端の見えない通路を歩く。
「これ、崩れたりしませんよね」
通路を埋め尽くす物の中には、直径10メートルの巨大な球体や殺意に満ちた形状の武器なども散りばめられており、それらが天井にまで積み重なっているのだ。不安の言葉が口から出るのは至極当然だった。
「これでも私はプロの中のプロだぞ。これらは全て完璧な計算のもとに配置されておるのだ。崩れ落ちる事などあり得ぬ。故意にそこら辺の物を無造作に抜き取ってもビクともせんぞ?ほれ、このように、ほれ、ほれ」
髪で左右の物を次々に抜き取っていくゼノに、アルフィルが慌てて制止をかける。
「わったった!わかった!分かりましたからやめてください!」
「ケケケ、なんじゃい小心者じゃのお」
「慎重と言ってほしいですねそこは。ってちょっと待って!?それ!それ見せてください!」
「うぅん?これか?」
アルフィルが声量を上げて指差した品を、目の前へと近付ける。
「これは……悠久の怠惰!?馬鹿な!?本物ですか!?」
悠久の怠惰と呼称される直径40センチの翡翠色の壺は、持ち主が望んだ食料、又は貴金属を無尽蔵に生成する魔法の壺だ。壺の大きさを越える物や、持ち主の知識(知識の定義は、食料ならおおよその味と食感、貴金属ならグラム単位でのおおよその価値)に無い物は生成できないが。なんの代償も無しに、しかも無限に望んだ物を生成できる壺は、ひとつの世界すらも動かしかねない逸品だった。
「この程度で驚くとはな。ならばこれにはどう反応する?」
ゼノの髪が壺を元の場所に戻して、アルフィルの眼前に、ゴルフボール大の、柔らかそうな球体を差し出す。
「これ…は…?」
「手にとって軽く握ってみろ」
言われるがまま、恐る恐る手を伸ばし、軽く力を込める。
「な?触り心地がいいだろ?」
「それだけですか?」
「それだけだが?」
「これのどこが凄いんですか?」
「……………まぁ、価値観は人それぞれだな」
ゼノの髪がアルフィルの手から触り心地の良いジェルを取り上げ元の場所へと戻す。
「さっきの質問に戻るが、ここにある物は全て本物だよ。しかし、君の様子から察するに、君の上司とやらはここの事を全く説明してないようだな」
「まぁ、そうですね。座標Xへの道のりと、買ってくる物以外はなにも」
「ああそう。道のりと買い物ね。その事なんだが、今の君がここで物を買う事はできないよ。ウチは一見さんお断りなんでね」
「は?マジですか?」
ゼノの放った言葉に、信じられないといった様子でアルフィルの顔が青ざめる。
「私は嘘はつかないよ。だが心配は無い。私の出した条件を呑むのなら君もここで買い物ができる」
「条件ですか」
相手はこれほどの規模の宇宙船の支配者だ。提示される条件はどれほどの無茶振りなんだろうか。考えただけで気が遠くなる。
「警戒するな。簡単な条件だ。それこそ人間の子供でもできるようなやつだよ。君が私の事をよほど嫌悪していない事が前提だが」
「そ、そうですか!それで、条件というのは何をすれば良いのですか?」
ゼノの言葉を聞き、アルフィルの声と表情が明るくなる。
「君は若いな。答えを焦るな。もうすこし余裕を持て。旅の疲れもあるだろうからまずは落ち着ける部屋に行こう。条件は部屋についてから話す」
どうにも回り諄い物言いだ。揶揄われているのか、それとも今の言葉の通り正式な客と見られていないのだろうか。答えを逸る感情が湧き立つが、その感情はすぐに、道中の不思議な宝の山を前に溢れ出た好奇心に押しのけられていく。
しかし、不思議な空間だ。通路に降り立った瞬間に抱いた印象はゴミ屋敷だったが、少し目を凝らせば、あちらもこちらも普通では目にかかれない品で溢れかえっている。夢と現実を逆転させる鏡や、水をやれば一粒で世界を想像する種、不老不死の薬までもが当たり前のように転がっている。存在さえ知れば、最高神クラスが血相を変えて他世界から飛んで来るような至宝があるかと思えば、それらと混じって大した価値のないガラクタから、悪魔でさえ忌避するダークマターが混じっていたりもする。未知と不可解と好奇心で脳が溺れるようだ。この空間を探索するだけでどれほど暇を潰せるのか。
「君には珍しい物ばかりだろう。気が済むまで観察すると良い」
自分の頭よりも少し低い位置で妖艶な声が囁く。我に返ると、初めはゼノに腕を引かれて歩いていたが、いつのまにか、歩行速度の主導権は自分が握っていた。
「さりげなく歩幅を合わせてやった方が自分の世界に没頭できるだろう?私なりの気遣いってやつだ」
「あっ!これは失礼しました!僕としたことがつい……」
「気が済むまで観察しろと言っただろう?君は気を使い過ぎだ。やりたい事をやると良い。来た道を何度往復しようと私は構わんよ」
「それは……確かに興味はありますが、あまり主神様を待たせるわけにもいきませんので…」
「ふむ、君は上司の遣いでやって来たのだったな。おつかいを終えるまでに掛かる期限はどれほどまで許されている?」
「1700年ですよ。ここに来るまでに800年近く掛かったので、帰りは余裕も持って早めに出たいのです」
「なるほど、君は上司が想像する倍は優秀なのだな。それとも、ここに至るまでの道程で急成長を遂げたのか」
「どういうことでしょうか?」
「帰りに掛かる時間は無視していい。地球へなら、一瞬で送り返すための転送装置が使えるからな。君の言う上司がどいつの事かは知らないし興味もないが、座標Xの存在を知って尚且つここへ遣いを送るような者が転送装置の存在を知らぬ訳があるまい。君の上司が片道1700年は掛かるだろうと踏んだところを、君はその半分の期間で辿り着いた。900年も猶予ができたのだ。好きなだけ見て回るといい」
「っ!分かりました!それなら遠慮なく!」
アルフィルの返事には既に形式的なものが抜けていて、玩具を与えられた子供のような純粋な好奇心に満ちたものだった。
「ふふ、ほんのすこしだけ君の本音が見えた気がするよ。心を理解する瞬間の幸福は何ものにも代えがたい」
「そ、そうですか?それなら、本音ついでにと言ってはなんですが…その…やっぱり腕を離して頂けないでしょうか?動きづらいし、気恥ずかしいです」
「どうしてもと言うのなら離すが、私から離れた瞬間に脳味噌を吸い取られても文句は言うなよ?彼等にとってはただの挨拶だが、君にとっては拒絶心を駆り立てるかも知れぬモノがそこら中に身を潜めているぞ」
「絶対離さないでくださいよ!?良いですか!?フリじゃありませんからね!?絶対!絶対ですよ!!?」
一瞬で気持ちが萎えてしまった。未知とはなんと恐ろしいものか。早くこの空間から抜け出したい。とにかく気が休める場所へと移動したい。歩行の主導権を返上して、ゼノの案内に身を委ねる。
「それじゃあリビングへ向かおうか、少し揺れるぞ」
ゼノが髪を未知の山へとねじ込み、なにかを探る。すると、「地面が移動します」と言う機械音声が何処かから流れ、先程まで普通の地面だった床がとつぜん動き出し、水平型エスカレーターのように両者を運んでいく。遥か遠くにあったであろう通路の端がぐんぐんと迫り、巨大な銀色の扉へと近付いていくと、銀色の扉が自動で開き、ゼノとアルフィルをガラス張りの筒状の空間へと誘うなり音速に近い速度で上昇する。エレベーターの中から透明なガラス越しに周囲に視線を回すと、エレベーターを中心としたドーナツ状のフロアが何万階層と連なり、ひとつのフロア毎に、禁断の果実が実る樹木や、地球の宇宙工学を根本から揺るがすような機械の設計図を自動で生成する機械。銀河系を丸ごと吹き飛ばすような爆弾。莫大なエネルギーを産み出す永久機関。太陽の熱でも溶けない氷。異次元の生物。小型の人工ブラックホールが、当たり前のように確認できた。
ありえない。ようやく絞り出した言葉を最後に、しばし唖然とするアルフィル。
「どういう意味だ?モノの価値の事を言っているのか?」
「存在自体がですよ。あんなものを大量に所持しているだなんて、どうやって発見して集めたのですか?」
質問を受けたゼノは、アルフィルの腕から離れ、ガラスに手をついて、物思いにふけるかのように正面方向を凝望する。
「……答えを得る為に必要な要素が5つある。好奇心、情熱、根気、覚悟、そして運だ」
アルフィルに背を向けるゼノ。透明なガラスにうっすらと反射した彼女の表情は、深い憂いを帯びていた。
「さぁ着いたぞ。メシだメシ」
エレベーターが止まった時点でゼノが振り返り、部屋へと進んでいく。
負に落ちないものを感じながらも後に付いて部屋に入ると、なんとも言えぬ香りが鼻腔を擽る。黒い石のような材質の、直径600センチ程の大きな正方形テーブルには、見たこともない料理が所狭しと並べられていた。
テーブルの下には豪華かつ華やかな刺繍の入った赤い絨毯が敷かれてあり、向かい合う形で並べられた2つの椅子のすぐ横には、ししおどしが配置され、ししおどしの竹筒の先端部には、紫色の液体が満ちたコップが置かれ、天井からはタコの触手が何本も伸びたシャンデリアが吊り下がり不気味に蠢いている。
「さて、私は先ほど、一見さんはお断りだと言ったね。ここで買い物をしたいのなら、私の知人となってもらう必要がある。そこでだ。君にはこれから8日間、私と共に食事をしたり、共に施設を見て回ったりして親睦を深めてほしいのだ」
「え?それだけで良いんですか?」
「簡単な条件だと言ったのを覚えているだろう?だが、それは私をよほど嫌悪していない事を前提としての話だとも私は言った。最後の夜、つまり7日目の夜には、私と共に一夜を交わしてもらう、要するに性行為だ」
「はぁぁ!?な、なぜそんな!?何の為に!?」
「勘違いするなよ?決して下心で言っているわけでは無い。あくまでコミュニケーションだ。この施設には手下は溢れていても対等な相手がいないので私はコミニュケーションに飢えているのだ。特に重要だとされる3大欲求を共に満たし、一定の期間を共に過ごしてある程度の理解を深め合った相手が私の価値観で言うところの知人に当たるのだ。それに、今の姿が気に入らぬのなら君の望む姿になってやる。どんな生物にも変身できるぞ。グラマラスな女か?それとも男がいいか?人型以外の生物から無機物までなんでもなれるぞ?なんでもだ」
「そ…それはまた、その時になったら考えます……しかし8日間という数字には何か意味があるのですか?」
「いい質問だ!8という数字は0と0が交わっているように見えるだろう?漢字にすれば互いが寄り添っているようにも見える。お互い全く知らない他人同士でも、8日間共に過ごせば必要最低限は相手を知ることができるというのが私の考えだ」
「ゼノさんは縁起とか気にするタイプなんですか?」
「細部に宿る神もいる。大小に構わず、気になったことは実践してみる質なんだ」
「はぁ…なるほど…」
相槌を打ってから、少し考え込む。
一緒に暮らすだけなのは良いだが、夜伽とやらが気掛かりだ。
知識としては知っているが、実際に経験した事が無い。粗相をしでかしてしまわないかとか、普通、そういった事は恋仲に有る者同士で行うものだとか色々な想いが浮かぶ。ゼノの事が嫌いな訳では無いし、多少、幼すぎる印象だが、実年齢は大人だろうしかなりの美形ではある。なにより、それを行わなければ、この場所での買い物という与えられた仕事を熟せない。
「分かりました。それじゃあこれから8日間、改めてよろしくお願いします」
今はこれ以上考えないでおこう。自分は上から与えられた仕事をこなすだけだ。悲しいかな地球という惑星の大部分には、今のアルフィルのような自分の意見を押し殺す考え方が浸透しているのだ。
「ああこちらこそ。さあ、飯にしよう、席についてくれ」
促されるまま手前の席につくと、長いテーブルの奥の席へと歩いていったゼノが、両手で椅子を抱え上げてから、アルフィルの横へと戻ってきて、椅子を置いて腰をおろす。
「あの、なぜわざわざこちらへ?」
「この方がコミニュケーションを取りやすいだろ。さぁさぁ、遠慮せず食ってくれ。惑星ナラキヴで栽培したアドリのグボラ添えにカンドマク星で獲ったゴグメイメイの刺身、アザレス粉末を散りばめたポーロンムカデのスープ、ダッドベッグの塩焼き、どれも絶品だぞ!」
「み、見たことの無い料理ばかりなんですが」
「警戒するなよ。地球神の味覚に合わせたものばかり用意したから大丈夫だ」
「じゃあ、まずは見慣れたこちらの豆腐のようなものから頂きます」
薄緑の豆腐をスプーンで掬い口に運ぶ。
「ん!?ング!?」
思わずむせ返りそうになってしまうが、粗相をやらかすのは避けたい。喉が嚥下を拒否する物体を、気合で強引に飲み込む。
「ぐ!?かっ!辛っ!!水!水を!!」
「水よりも、それを飲んだ方が良いよ」
ししおどしの手前に置かれたコップを掴み、紫色の液体を一気に飲み干す。大丈夫と言われた矢先に舌が焼けそうになったから信用できないだとか、未知の液体を一気飲みするのに抵抗があるだとか、そんなことは些細な問題だ。
口に運んだ豆腐のような食材はとにかく物凄く辛いのだ。唐辛子やワサビなどの比では無い。口の中で辛さと言う名の爆弾が爆発したのだ。だが、紫色の液体は豆腐の無礼を肩代わりしてなお幸福を齎す濃厚な甘みを含んでおり、それでいてしつこさを感じさせない程に軽く軟らかい旨味の塊だった。
「良い意味でも悪い意味でも舌が飛ぶかと思った……なんなんですかこれは」
「失敬、前来た地球神は喜んでお代わりを繰り返していたのだが、雷鳴のクリームは君の口には合わなかったようだね。すぐに下げさせるよ。それに近い味のものも全てね」
ゼノが未知の言語で短く上方へ呼びかけると、タコの触手が伸びたシャンデリアが、雷鳴クリームと呼称される薄緑の豆腐と、その他の数種類の食事を掴んで持ち上げる。触手が掴んだ料理をシャンデリアの中心部分に近付けると、シャンデリアの中心部が円形に広がっていき、牙の生え揃ったタコの口のような穴へと料理が食器ごと飲み込まれ、閉じた口の中でバリバリと豪快な咀嚼音が聞こえてくる。
「それで、君が絶賛したのは、オモイヤリの体液さ」
「た、体液?オモイヤリ?」
「あ〜地球では確かししおどしとか言う道具に似ているんだっけ?そいつは歴とした生物さ。自分の近くの生命体の体内組織を透視し、相手がもっとも欲しているであろう味の液体を瞬時に精製して、差し出された器に液体を注ぐ友好的な生物だ。ただし、間違っても彼に喋りかけてはいけないよ。彼は極度のあがり症とパニック障害を患っており、話しかけられた相手を排除しようと襲い掛かるんだ」
「うぇ…凄い特異な生態ですね」
「だから彼の事は無機物、便利な道具程度に考えてくれ」「はい」「さぁ、次はシミュラクラシープのデルゴソース掛けを食べるといい、今の反応で君の味覚はだいたい理解した。これは間違いなく美味いぞ」
どうもゼノにはカリスマ性が有るというか、謎の信頼感を抱いてしまう。彼女が白だといったら黒でも白になるかのように、言葉が確信めいたものだと思い込んでしまう。言われるがままに、ドライカレーのような料理を口に運ぶ。
ミンチ肉の一粒一粒から濃厚な肉汁が溢れ出し、溢れ出した肉汁が、デルゴソースとやらと混じって硬度を増し、噛みごたえのある食感へと変化していく。肉汁とソースが混じって固まったものを噛み砕くたびに陶酔感すら感じさせる力強い味が口内に広がり、身体が歓喜に震える。こんなものは食べたことがない。あまりの美味さに言葉を忘れ、一皿分をあっという間に平らげてしまう。
「こ、これのおかわりはないのですか!?」
「気に入ってもらえたようでなによりだ。おかわりはいくらでも用意しているが、他の味も楽しむと良い。ますます君の味覚を理解できたよ。不必要な料理は下げさせよう。初めは口に合わないと思って食卓に並べなかったが、マッドクレイドルの卵は余程君の味覚に合うと思う。調理に数分かかるだろうから、その間は他の料理を食べてくれ。こちらのザルーイポノォンも激うまだぞ」
一通り食事を堪能し、空腹が満たされた心地よい感触を感じつつ、軽く椅子にもたれる。
危険を伴う孤独な長旅を終えて、腹も満たされたのだ。興奮や警戒心もほとんど平常時のものへと落ち着いたアルフィルに、緩慢な速度で睡魔が迫る。
「そろそろ寝る時間だな。寝室に案内しようか」
ゼノが立ち上がり、アルフィルの袖を引く。
「あ〜、是非ともお願いしたいのですが、その前にシャワーを貸していただけませんか?」
「もちろん構わんよ。本当に自宅だと思って寛いでくれ。だが、別に湯浴みをせずとも、床に入るだけで全身を綺麗にして尚且つ睡眠後には体力全開で起き上がれるベッドを用意しているぞ」
「いまさら道具の性能を疑うわけじゃありませんが、できればシャワーを浴びたいんです。いきなりライフスタイルを変えると落ち着かないので」
流石にわがままだろうか。他者に気を使いがちなアルフィルがゼノの感情の変化を観察するが、ゼノは、ならば案内してやると、むしろ明るい表情で、早く早くと急かすように袖をグイグイ引っ張る。
再びガラス貼りのエレベーターに乗り込み、あらゆる至宝や危険物質が並ぶフロアを見下ろしながら上階に登っていく。
「なにかに集中しているときの君は、子供そのものだな」
「え?」
ゼノの言葉に顔が熱を帯びる。自分は子供のような言動を発してしまっていたのだろうか。わざわざ言葉にするあたり、少なくとも彼女的には子供に見えたのは確定事項なのだろうが。
「恥じるな。子供とは褒め言葉だ。損得を顧みず自分の心に従った行動を取るのだ。美しいと思わぬか?」
「自分の中に湧き上がる衝動が全て正解へと向かっていたら我慢するストレスも感じずに済むのですがね。残念ながら、僕はそんな大した存在でもないので」
「完璧な存在などいない。アイツが自分より上だとか下だとかなど議論するだけ馬鹿馬鹿しい。個人がどう騒ぎ立てたところで世界に大した影響などないのだ。ならば、今世限りの現世を好きに生きてやろうとは考えぬか?」
「小心者ですので、好き勝手生きるのは難しいです。力と知恵を蓄えて、自信が付けば考え方も変わるかも知れませんが」
「ハハハ、それは一体何世紀さきの話かね。クソ真面目に考えずとも、ちょっとした発想の転換で人生は変わるぞ」
「これでも現状には概ね満足していますので、しばらくはこのままでいいですかね」
「う〜む、私と君は根本的に違うタイプのようだね。なかなか興味深い」
「そうですか。ならば、僕のできる範囲でゼノさんを楽しませられたら幸いですが」
「だから下手に気を使うなと…ああいや…好きにすれば良い。私の主張を強制して自分を見失いでもされたら敵わんのでな」
話し込んでいる内にエレベーターが目的地へと到着していた。眼前には白い芝生が敷き詰められた空間が広がる。エレベーターを降りてすぐの所には、船のように巨大な簀子が敷かれており、簀子の端の方には、大小様々な下駄箱が配置されていた。建物の中だというのに宙には6つの月が浮かび、子供がクレヨンで書いたラクガキみたいな雲が漂う。白い芝生の上では、手足が4本づつ生えた人型の子供達や、顔は虎、手足は猿、尾は蛇の、鵺によく似た生物が楽しそうに笑いながら走り回っている。
広間と言うよりも、野外の公園みたいな場所だ。ここまでくると驚きを通り越して呆れに近い感情すら抱いてしまう。
「靴は適当な下駄箱に入れてくれ。ここでも私から離れたら駄目だぞ。あの子供達の4本の腕で気絶するまでくすぐられる」
そう告げながら、ゼノが片腕に抱きつく。
「何気に恐ろしい拷問ですね。てゆーかこの施設、危険が多過ぎませんか?」
「言って聞かせるのは容易だがな。なるべく彼等の個性を殺したくないのだ。この広間を抜ければ後は地球の常識に当てはまる通路と、シャワー室と寝室があるだけだ。もうすこし辛抱してくれ」
辛抱も何も実質拒否権などないだろう。こんな宇宙船でも、オーナーのゼノは意外と常識的で信頼できそうな相手だが、これでは軟禁状態だという事実にいまさら気が付くアルフィルであった。
好奇心と恐れの入り混じった心境で周囲を眺めながら歩き続けると、偶々、目が合った子供が、にこやかな笑顔で手を振ってくる。未知に対するそこはかとない不安を抱きつつ、僅かに視線を逸らしてゼノに助けを求めるが、ゼノはわざと顔を逸らした。
『なんで!?』
困りながらも、迷ったあげく、子供に手を振りかえすと、子供は満足したかのように満面の笑みを浮かべて遠くに走り去っていく。
「問題に直面しても常に助けを得られるとは考えないことだ。最後に信じられるのは自分だけなのだから」
ゼノが小悪魔的な妖艶な笑みを浮かべる。
「なかなか良い性格してますね」
アルフィルが大きなため息をつく。
「そう怒るな。施設を案内する時は常に私が付いている。無視できない危険からは守ってやるさ」
1時間も歩くと、子供達や鵺の姿は見当たらなくなり、それと入れ替わるように、個体ごとに違う色に光る蛍が宙を漂う。更に歩みを進めると徐々に蛍の数は減っていき、最終的には消えてしまい、月の光もほとんど届かない空間の奥の方まで進んでいく。辺りが暗闇に包まれていくが尚もゼノに腕を引かれて歩く内に、暗闇に目が慣れて、木製の扉が見えてくる。
木製の扉を開くと絨毯の敷き詰められた通路に出た。通路は人1人が通るだけでいっぱいいっぱいの狭い通路だ。ゼノが腕から離れて前を歩く。
「どうぞ。地球神に馴染みのあるシャワーだ。普通の感覚で使うと良い」
左手に見えるドアを開き、ゼノが中へ入るよう促す。
「扉を抜けた瞬間に衣類は自動で異空間に転送されて洗濯される。ちなみに眼鏡もね。浴び終えたらそのまま扉を出ると良い。シャワー室を出る時は自動で不要な水気が乾いて寝巻きに着替えれる。眼鏡もその5秒後に手元に転送される。で、こっちが寝室。説明は以上だ。ゆっくり疲れを癒すと良い」
「はい、ありがとうございます」
思わず頬が緩んでしまう。シャワーを浴びてベッドに入れるなどいつ以来だろうか。ここに辿り着くまでの道中はもちろん、辿り着いてからもなかなか気が休まらなかったが、ようやく静かな時間が訪れたのだ。説明された通りに扉を潜ると、自動で服が消え、シャワーを浴びる状態になれたところでハンドルを回す。
弱過ぎず強過ぎない水量で流れる、暑過ぎず冷た過ぎずの温度の湯に疲れが流されていく。
「あぁ、きもちいい」
恍惚としたひとり言が自然ともれる。
気持ち良すぎてこのまま眠りに落ちてしまいそうだが、流石にそれはまずいと目を覚まし、シャワーを終えて扉をくぐる。
なにもせずとも寝巻きを着せてもらい水気もどこかへ消えていく。
『きもちいい…便利すぎて駄目になってしまいそうだ…』
寝室へ続く扉を開けると、広さ15畳ほどの空間の中央にキングサイズのベッドが配置されていた。ベッドに近づくにつれて部屋の照明が消えていく事に気が付いたアルフィルが、ベッドから離れると、今度は部屋の照明が明るくなり、近づくとまた照明が落ちていく。
本当に便利なものだが、施設内の様子から察するに、これすらも遊び心程度で造られた仕掛けなのだろう。
ベッドの横に添えられたナイトテーブルに眼鏡を置き、布団に潜り込む。
長旅の疲れもあるが、それを差し引いても最高の寝心地だ。1秒毎に意識が眠りに向けて段々と落下していくが、不意に、左腕に柔らかくて暖かい感触が走る。
「ん?」
感触の正体を確かめようと布団をめくると、すぐ隣でゼノが横になっていた。
「おぉわ!?」一瞬で意識が覚醒し、上半身を起こしてゼノから距離を取る。
「ゼノさん!?どうしてここに!?」
「ん〜?どうしてもこうしても、君はこれから8日間を私と共に過ごすと説明しただろう」
「で、でも!その……よ…夜伽は7日目の夜って言いましたよね?」
アルフィルが顔を真っ赤にさせながら、落ち着かない様子で手遊びを繰り返す。
「な〜にモジモジしてんだ。添い寝程度で心を乱すとは情けない」
「えっ?そ、添い寝?」
「夜伽は7日目の夜だとも言ったし、私がコミュニケーションに飢えているとも言っただろう。だから君には添い寝の相手になってもらう」
「添い寝の件は聞いてないですけど!?」
「言い忘れておったからな。けどまぁ、今度こそ条件は全て伝えたぞ。もうこれ以上、増やすこともなければ減らすこともないから安心しろ。それとも、私と添い寝するのは嫌か?私の事は嫌いか?」
「……べ…別に嫌ではないし…嫌いでもないですけど……」
「なら問題ないだろう。早くこっちに来たまえ。すこしでも私の飢えを癒してくれ」
「うぅ…わかりました。わかりましたよ」
再び横になり、渋々布団を被る。
「ふふ、おやすみアルフィル」
「……おやすみなさい」
ゼノに意識が削がれるが、やはり旅の疲れが蓄積している。疲労を優しく包み込む布団の寝心地の良さも相まって、すぐにアルフィルが小さな寝息を立てる。
「楽しみだよ。君のような神がいるだなんて。無知で矮小。力も知恵も経験も私の足元にも及ばないのに、君は私よりも遥かに上等な存在だ。素晴らしい。こんな高鳴りは初めてだ。アルフィル。君を君たらしめるモノはなんだ?君は私に何を学ばせてくれる?」