学界と産業界
そんなわけで、専門職養成とは、資格試験勉強なのである。自由に自分なりのテーマを決めて行う学とはまた別のテクノクラート養成と考えたほうが良い。こういうところは、目的からして違うのだから、囲い込むのにも意義が認められるだろう。大学の横っちょに建てておくのもかまわないが、「交通至便」以外の意味はない。
現在、経団連や経済同友会といった企業連合がこぞって大学改革案を提示している。前者なら2018年6月の「今後のわが国の大学改革のあり方に関する提言」、後者なら2015年4月の「これからの企業・社会が求める人材像と大学への期待」などが挙げられよう。これらについては検討しない。理由は単純で、経団連も経済同友会もカネを出していないからだ。国公立大学なら学生が納付する授業料等、事業収入、運営交付金で収入は説明がつく。なぜ主要な資金拠出元となっていない企業の言うことなど聞かねばならぬ?
そもそも京都大学の2016年度の収入は総計1800億円程度である。そしてTOYOTAという会社一社の2017年会計年度の設備投資と研究開発費は1200億円程度である。そもそも企業一社がかける設備・研究の費用は通常規模の大学一個分を賄うに足る。京都大学の収入は大学としてはかなり多いほうだ。それなのに、なぜ我々はこうも企業連合の声を聴かされる(聞くだけにして、無視したいものだが)のかといえば、卒業生の就職先という地位を握られているからではないか?
そもそも大学に文句があるというのなら、自前で人材育成すればよい。それだけの設備投資・教育・研究費用を拠出する力は、企業にあるはずだ。国以上にだ。むしろそのほうが、企業のニーズに近い人材を育成できるではないか?高等学校卒、もっと言えば義務教育修了者から優秀なものを選抜し、自前で教育・研究を前倒したほうが良いではないか。
現在、国の財政は火の車で、企業のほうが人材育成を行うに足る体力があることは火を見るよりも明らかだ。しかも大学生活の大部分を大学生は就職活動にとられ、大学生が大学で行うべきことを十分にできていない。青田刈りというやつだが、もっと言えば「青田」なんて言わずに、「苗」の段階で取ってって自前で育てて刈り取ればいい。そのほうが繰り返しになるが、企業ニーズに必要な人材育成は早いはずだ。
「基礎研究はどうするのだ」という声が聞こえてきそうであるが、そもそも、基礎研究と応用研究の区切りは明確ではない。企業のニーズに応ええる人材を大学に求めるくらいなら、基礎研究からして企業が自前で教えたほうが早い。せっかく経団連、経済同友会といった企業連合を持っているのだから、「経団連大学」「経済同友会大学」を作ってリベラルアーツ教育を行ったって良いはずだ。国に頼るより、自分たちの方にはるかに財源があるのに、企業の根幹をなすはずの「人材」を外部に求めるという、木によりて魚を求むような真似をなぜ行うか?