なんで京大ってあるの?
さて、こんなであるから、タテカンを立てなくなった今、京都大学には、否、ありとあらゆる大学から塀や石垣を撤去すべきではないか?と考える。物理的にはもちろん「あらゆる意味」でだ。学を為す空間を物理的にも社会的にも外部から遮蔽するあらゆる存在を撤去してみたらどうだというのだ。そもそも、キョーダイと言ってみたところで、学部生から教授まで、学問をやる人はやるが、やらない人はやらない。常勤教員でもろくに学術活動をしない人はざらにいる。もっと言えば、「京大/京大の外」という差異は、学への意志ある外部の人を遠ざけ、学の意思もないのに、それなりに高い給与と学を怠ければ怠けるほど仕事が楽という理不尽なシステムを毛布にして、ただ居座っている内部の「枯れ木教員」を防護するために存在するのではないか?だとするならば、「京大」という空間の存在は、学の否定ならずして一体何であろうか?
学びたい人がいるというのなら、入れればよい。席が足りない、というのなら増やせばよい。そのためのゼーキンではないか?
もっとも、専門職養成という問題はある。医師・薬剤師・エンジニア・法曹家等々である。京都大学に関して言えば、こういった人々は、また別の囲いに囲い込んで養成している。別種な学として別扱いになっているので、問題の解決は完了しているといってもいい。
例えば、医学部なら、医学部キャンパスというのが本部などとはまた別にこしらえてあり、大学病院などともセットになってキャンパスを構成し、塀で囲い込んである。言いたくもなる「ここだけ独立してもやってけるじゃねーか」。
現にである、私がいたころサークルもまた別に構成されていた。私は「京都大学グリークラブ」という男声合唱団に所属していたのだが、ほかに「京都大学合唱団」「ハイマート合唱団」「メディカルコール」というのがあり、「メディカルコール」というのは医学部の学生しか入れない。私が学部生だった1995~99年では、女声が足りなかったのか、近隣の女子大で勧誘活動を行っていた。ちゃんと必要な受容体は作っておくらしい。
また、法学部では、(まだロースクールなどは無かった)Wスクールなどに行き、法曹家になりたい人が、試験向けの勉強を行っていた。では、いったい大学の中では何をやっていたのだろうと訝しく思われる。バカタレな私としては、専門法曹養成などの高度な教育機関として大学が存在し、補助的な学習を行いたいのなら、外部に学習の場を求めてもよい……、みたいに考えるが。全法曹家に大学についてこう問うたらいかんだろうか?
「逆じゃない?」。