名前のない怪物
焦る。
SF小説の悪役が、焦れば焦るほど人間の視野は狭窄になり、思考や行動が単純化していくと言っていた覚えがあるが、まさに今の僕がそれだ。
焦って震えた手が握るスマホは、海から引き揚げられたかのごとく塩分の含んだ液体がしたたり落ちていて、機能が停止してしまうと心配してしまうほどだった。
メールの反応はなし。そりゃそうか。
警察に捕まってメールが打てるほど日本の警察は怠慢ではない。
勤勉なのだ、警察だけでなく、会社が、国民が、家族が。
勤勉で真面目は身体に毒だ。
そしてその毒は、関わりを通して伝染していく。
俺が、私が、こんなに頑張っているから。成果を出しているから。
あなたも頑張るんだよと。
強制された勤勉さは苦痛という毒となって伝染し蜘蛛の巣状に、あちこちで広がっていく。
その毒に耐えられなかった人間は、徐々に朽ちて、誰の目にも止まらず消えてしまう。
ただ、その毒に耐えることなく受け流してしまう適性のある人間は少ないがいる。
それは、ドロップアウター。
道を踏み外し、普通というのを捨ててしまうタイプ。
でも、これはダメだ。
人間はお金を稼がなくては生きてはいけない。
だからこのタイプも社会人にいずれなり、結局のところ、勤勉が支配した社会のルールに従うことになる。
もう1つ。これは、類いまれない能力に恵まれ、人を集め、魅了し、そして自らルールを作り出してしまうタイプ。
彼らは社会に出てこそ能力を発揮する。
どこにいても、縛られずに、強制されずに生きていける。
僕は、彼らが憎い。
生まれた時から、努力なしで、″持っている″。
能力のおかげで勝手に人が集まり、傲慢も許され、マイペースで生きていける。
そして、そんな人間に、魅了されてしまう自分がいる。救いを求めてしまう。
ポケットに手を入れ、紙切れを取り出す。
″リトルボーイが、あなたを縛るその鎖を全て断ち切る″
小早川さんが中学時代の僕に送ったこの言葉を期待して。縋って。
そして、何も起こらなかった。
あの時苦しんだ僕がいずとも世界は廻り、リトルボーイは廻り。
それは、彼女を中心として。
散々苦しんで抜け出した僕に残ったモノは、存在感のないモブキャラとしての自分。空虚。
何も苦しんでいない彼女は人を集め、彼女が発する光の影に何人も無色の人たちが蠢き、その中に僕もいて。
邪魔してやりたくなったのだ、彼女を。
単純な話だ。
真面目で弱い方の僕は舞台裏に押しやり、僕が全てをぶち壊す。
ただ、安藤はもうダメだ。奴は警察に捕まった。
ああいう、毒に侵され切った弱い人間は支配しやすい半面、使えない。
邪魔な香山先生やその他の人間は排除して住みやすい環境を作ってから徐々に彼女の範囲を犯していってやろうと思ったのに、こんな早い段階で崩壊を迎えるなんて。
ハハッと、僕は、リトルボーイ近くの小さな公園で苦笑した。
人通りはなく、寂しく光る街灯が、ぼんやりと、つまらない顔をする僕の顔を照らす。
サラリーマンの携帯の記録から、脅すメールや通話のデータを拾われ、僕にいずれ辿り着く。
その前に。
すでに小早川さんには、用があるのでこの公園に来てほしいとメールを送ってある。
ここでもう全て終わらせよう。それでいい。
あとは、僕は舞台裏に引っ込んで、お終い。
名前のない僕の物語は、ここで幕引き。
「やっぱり、君が仕込んでたんだね」
小早川さんの声が暗闇の向こうから聞こえた。
月明りを遮る木々の陰から現れた小早川さんの表情は、いつも通り無表情、いや、どことなく笑みを浮かべているようにも見える。
「あの白衣の女の人は無事みたいだよ、残念だったね」
「あ、そうなんですね。今はもうどうでもいいですよ。もう全部終わった話ですし」
「私を勝手に終わりにしないでくれる?あと、バックに仕込んだ刃物でどうにかなるって思ってるなら、甘いよ」
見えてたか。彼女に隠し事や罠は通じなさそうだな。分かってたことだけど。
諦めて僕はバックを床に置く。
「あとさ、君は私が世界の中心にいて、何不自由なく暮らしてると思ってるけどね、全然違うから」
「そうですね、みんなを魅了して、なんでもできて、なんでも見通せる魔法使いさんでも悩みの1つはありそうですよね。そうだ、僕の悩みなんて小さいもんです。すっきりしました。ありがとうございます」
嫌味の1つを言って下唇を強く噛む。
じんわりと鉄の味が口の中に広がっていく。
「魔法が使えて親に見せたらさ、気味悪がられたよ。化け物だってね。親戚をたらいまわしにされて、住んだ先でも、家の中ではいないもの扱い。施設に預けられて、それで今は国の補助金をもらいながら、アルバイトして1人暮らし。学校の友達だって少ない。これが、君の言う、″持っている人間″?憧れの存在?ふざけるな」
反吐が出るといった表現が適切であろう小早川さんの表情は、いつもめんどくさそうで無表情で、でも他の人間からは認められている、そんな彼女の、いつものそれとは考えられないほどぐちゃぐちゃになっていた。
ここまで感情が発露したところは今まで見たことがない。
「私は、″普通″になりたかった。普通に生活して普通に両親に愛されて。″普通″に学校生活を送って、帰りに友達とファーストフードに寄ったりして。恋バナとか勉強の愚痴とかそんな普通で平凡な生活が送れればそれで満足だった。こんなよく分からない魔法なんてものに憑りつかれていなければ私の生活は順調だったはずなんだ!!」
夜のひっそりとした空気を引き裂くような彼女の慟哭が、僕の耳に確かな感触で刺さる。
非凡を渇望する僕、平凡を羨む小早川さん。
「でも、せっかく神様が与えてくれた魔法を、私の人生を大きく変えたこの憎い魔法を、みんなのために、自分の居場所がもっと良い所になるように使いたいって思った」
世間は、″普通でない″ことに対して強い抵抗感を示し、そして排除する。
多くの人間は平々凡々だが、彼らが徒党を組むと質が悪い。
彼らの結論次第で、黒いものは白になり、白いものは黒になる。
彼らの枠の外にいる彼女にとっては
排除される側の彼女にとっては
枠の中にいる彼らの″普通″が羨ましくて、憎かったのだろう。
相対する非対称な存在なのに、僕らの心の闇は、重なっていた。
でも、彼女は自分の中の嫌いな非凡を、プラスの原動力に変えた。
無表情で常に面倒くさそうにしている彼女は、自分の居場所のために貪欲にあり続けた。
「ファミレスでぼんやり働いている時に君に出会った。君の心の声がうるさかったよ。接客して、はっきり聞こえたんだ。″居場所が欲しい″ってね。居場所がない私と同じだなって思ったの。環境も価値観も正反対なのにね。あの時、君にちょっと興味がわいた」
「じゃあ、あの時の、僕に渡された幸せの手紙はなんだったんですか。僕はあれに縋って。期待して――ッ!」
拳を強く握った。
今の今まで恨みがましく取っておいた紙切れ。捨てることなく、その空虚な言葉は僕のポケットの中の置物となっている。僕の行き場のない感情の的となって。
「ごめんね、渡した紙に魔法はかけていなかった。まだあの時は......。でも、これを見てK君も自分を諦めないようにしてほしかっただけ。だから、君がここに来てくれることを期待してたの。だから、君が高校生になってここにアルバイトとして入った時嬉しかった。私と似た悩みを持つ人間がきてくれたってさ。君は、非凡に憧れていたんじゃない。居場所が欲しかっただけ」
「そうですね。というより、あんな親に生まれた時点で、僕の居場所なんて初めからなかったも同然ですけどね、ひとり暮らしでせいせいしてますよ。初めから居場所がないなら一人の方がずっと楽だ。まぁ、ひとり暮らしを始めても、苦痛はなくなっただけで居場所がないことに変わりは――」
あるよ、と、小早川さんは両手を広げて遮った。
「君は、ひとり暮らしまでして、私を追ってリトルボーイにきて、アルバイトを始めて。居場所はできたじゃん。君が主人格かそうでないかなんてどうでもいい。″今の君″が自分の力で居場所を作ったんだ」
彼女は、まるで自分の幸せであるかのように、楽しそうに笑っていた。
本当の同志をようやく見つけたと、ホッとしているような。
「私はいつでもここにいるから。いつでも戻ってきて」
彼女は右手を出し、小指を立てる。
「戻ってくる約束」
指切りをこの年になってやろうとする彼女の姿は、まるで幼い子供で。
なぜかいうことのきかない僕の右手が、勝手に小指を立てて、誓いを結ぶ。
これも、彼女の魔法のせいなのだろうと思う。
「まずは友達から始めるってだけだから」
小早川さんの、よく分からない予防線に僕は首をかしげる。
「友達から始めて、最後にどうにかなるんですか?」
涙で滲んで目元が赤くなった僕と、少しだけ頬を赤らめた小早川さんは、今この瞬間、同じタイミングで、止まった時計の針が動き出したのを感じた。
非凡を望むKと平凡を望む小早川さん。最後に彼らが交差して一つになり、ハッピーエンドです。
最後までご拝読ありがとうございました。
最後まで楽しんでいただけた方、何卒評価をポチッとお願いします( *´艸`)