現代のシンデレラ~ひょんなことで運命は変わる~楠木翡翠(旧名黒川瑠璃)さんへのクリプロギフト
満員電車に揺られるのは好きじゃない。だから早めに家を出る。会社がある最寄りの駅に着いたら、カフェで朝食を取る。これが瑠璃の日課になっている。
いつものように注文カウンターへ行くと馴染の男性店員がにっこり笑って迎えてくれた。
「いつものでいいですか?」
「はい。お願いします」
間もなくエッグマフィンとカップサラダ、コーンポタージュにカフェオレを載せたトレイを彼は差し出した。瑠璃は代金を支払い、いつもの窓際の席へ向かった。窓から見える、通勤してきたサラリーマンやOLたちが足早に通り過ぎていく。そんな風景を眺めながら瑠璃は朝食を取る。
始業時間の10分前。瑠璃はデスクについた。今日は仕事納めだ。午前中に身の回りの整理整頓、不要になった書類の処理などを終えると同僚の女子社員たちと納会の買い出しに出た。酒類やオードブルは事前に注文していて配達してくれる。それ以外に個々に頼まれた惣菜や乾きものを近所のスーパーで調達するのだ。
買い出しを終えてオフィスに戻ると会議室のテーブルが若手の男性社員たちによってセットされていた。瑠璃たちは手分けして配膳し納会の準備を終えた。
瑠璃たち女子社員にとって、こういう社内での飲み会は苦痛でしかない。上司や同僚の男性社員に酌をして回らなければばらないからだ。
「そんなことはしなくていいから、ゆっくり座っていろ」
そう言う上司も居るけれど、それが出来たら苦労しない。そして、ようやくお開きになると、今度は二次会への強制連行。
「用事があるやつは帰ってもいいぞ」
上司のその言葉に若い男性社員たちはそそくさと帰って行く。瑠璃も早く帰りたかったのだけれど、同僚の女子社員に懇願されて部長のお供でカラオケに行くことになった。彼女が部長と不倫関係にあるのは社内でも周知の事実だった。瑠璃はカモフラージュのために使われたのだ。
結局、その後も食事だなんだと付き合わされて終電を逃してしまった。部長がタクシー代だと言って金を出した。二人はそれからホテルへ向かった。
瑠璃は会社に戻ることにした。疲れ果ててすぐにでも休みたい。部長に貰ったタクシー代があるので近くのビジネスホテルに泊まることも考えたのだけれど、寝るだけなら会社の仮眠室で十分だと思った。
通用口でセキュリティカードをかざし中に入った。守衛が驚いた顔をした。
「こんな時間にどうしたんですか? 何か忘れ物でも?」
瑠璃が事情を話すと、守衛は困惑の表情を浮かべた。
「今夜から年末年始の休暇期間で内装と空調システムの改修工事をやる事になっているんですよ。だから、仮眠室は使えませんよ。それに、事務所内も空調が使えないので寒くていられないし、工事の騒音で寝てられないですよ」
「そんな…」
瑠璃の落胆した顔を見た守衛はにっこり笑って声を掛けた。
「快適に過ごせる場所が一つだけあります」
「えっ!」
「最上階のオーナー宅です」
このオフィスビルにはいくつかのテナントが入っている。そして最上階にはビルオーナーの住居がある。
「いや、さすがにそこはダメでしょう」
「大丈夫ですよ。本人が泊めてあげると言っているんですから」
「えっ!」
瑠璃が守衛だと思っていたのはビルオーナーの日下部だった。日下部は瑠璃を自宅へ連れて行った。5LDKのその住居に日下部は一人で住んでいるという。
「好きな部屋を使っていいよ」
そう言うと、日下部は工事の監督をしなければならないからと出て行った。瑠璃は居間のソファーに横になった。疲れからあっという間に深い眠りに落ちた。
目が覚めると、豪華なベッドルームに居た。
「おはようございます。お目覚めになりましたか? 朝ご飯の用意が出来ていますからどうぞ」
顔を出したのはメイドだった。瑠璃をここへ運んだのは彼女だったらしい。
ダイニングルームへ案内されると日下部がにっこり笑って迎えてくれた。
「よく眠れましたか?」
「あ、はい。おかげさまで。どうもありがとうございます」
「ところで、あなたのお名前は?」
「あ、黒川です。黒川瑠璃と申します」
食事の間、瑠璃と日下部はお互いの自己紹介をし意気投合した。すると、日下部が言った。
「ここに一緒に住んでみませんか?」
思いもよらぬ申し出に瑠璃は驚いた。日下部が下心などから申し出たわけではないことは解かっていた。けれど、同じ屋根の下に男の人と二人で住むということには抵抗があった。瑠璃は考える時間が欲しいと言い、その日はいったん帰宅した。そして、年が明けてから、改めて日下部に連絡をした。
5年後…。
「おはようございます」
瑠璃は出勤してくるテナントのサラリーマンやOLたちに明るく声を掛けた。
「おはようございます。オーナー」
瑠璃は結局、日下部の申し入れを受けた。そして、日下部の養子になった。2年前、日下部が亡くなった後は瑠璃が日下部の後を継いだ。そして、日下部がずっとそうしていたように、守衛室でテナントの社員たちを見守り続けた。