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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
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最終章 ワールド

 鏡面世界が砕けたあと、しばらく、誰も声を出せなかった。音が消えたのではない。むしろ、あまりにも多くの音が世界へ戻っていた。雨の日のバス停で傘を打つ音、黒瀬遥の図書室でページをめくる音、未登録三七の手首で鳴る鈴、レジストリの棚で紙片が擦れる音、ナギサのスマホに残った写真が微かに震える音、ローズの薔薇の花びらが境界へ落ちる音。それらは一つに溶けることなく、それぞれの場所へ戻っていった。ミラーが作ろうとした白い統合の海は引き、個人世界はばらばらのまま揺れている。救われた、とは言えなかった。だが、完全に呑まれもしなかった。世界は壊れずに済んだ。けれど、元通りになったわけではない。誰かの机には新しい傷が残り、誰かの写真には白い亀裂が残り、誰かの記憶には、なぜか涙が出る放課後だけが残った。


 リョウは、割れた鏡の残骸の中央に膝をついていた。白い仮面は半分ほど崩れ、黒い亀裂だけが頬の影のように残っている。仮面そのものは霧になって剥がれ落ちたが、そこに刻まれた線までは消えなかった。右手の爪の下にも、薄い黒が残っている。呼吸をすれば、胸の奥で霧が眠るように揺れる。完全には消えていない。ファントム・メアは、倒されたのではない。リョウの中に戻っただけだ。世界を混ぜ直そうとした悪夢は、今も彼の底で、アスカの名前を聞くたびに目を覚まそうとするだろう。


 それでも、今、霧は広がっていなかった。


 ナギサが、リョウの手を握っていた。強く握っていた。支えるためというより、勝手に遠くへ行くなと怒るための力だった。彼女のスマホには駅前の写真が残っている。白い亀裂は消えていない。だが、写真の中のナギサの笑顔は剥がれ落ちずに残った。リョウの輪郭も薄いままだが、黒い滲みはそれ以上広がっていない。リョウはその写真を見て、胸が痛くなった。自分はこの時間を材料にしようとした。アスカがいた場所をたどるための痕跡として、ナギサが守ってきた思い出を引き剥がしかけた。その事実は消えない。謝って済むことでもない。だから、彼は黙っていた。


「リョウ」


 ナギサが呼んだ。


 リョウは顔を上げる。


「はい」


「はい、じゃないです」


「……うん」


「説教、あとでします」


「うん」


「長いです」


「うん」


「途中で逃げたら、もう一回最初からです」


 そんなことを言う彼女の声は震えていた。怒っている。泣きそうでもある。それでも、彼女はリョウの手を離さない。リョウは、握り返していいのか少し迷った。自分の手にはまだ黒が残っている。触れれば、また何かを奪うのではないか。そう思うと、指が動かなかった。


 ナギサはそれに気づき、少しだけ眉を寄せた。


「握り返すくらい、自分で決めてください」


「怖い」


「知ってます」


「君をまた、傷つけるかもしれない」


「もう傷ついてます」


 リョウは言葉を失った。


 ナギサは涙を浮かべたまま、まっすぐ言った。


「だから、傷ついてないふりをされる方が嫌です。あたしは傷つきました。怒ってます。でも、ここにいるって決めたのはあたしです。リョウが決めたんじゃない。アスカさんが決めたんでもない。世界が決めた恋人役でもない。あたしが決めました」


 その言葉に、リョウはゆっくり指を動かした。ナギサの手を握り返す。黒い霧は出ない。少なくとも、今は。ナギサの手は温かかった。命綱ではない。座標でもない。欠片でもない。椎凪ナギサという一人の少女の手だった。


「ありがとう」


 リョウが言うと、ナギサは少しだけ目を伏せた。


「それも、あとでちゃんと聞きます」


「今じゃだめか」


「今聞くと、泣くので嫌です」


「もう泣いてる」


「見ないでください」


「見てから持っていけって言ったのは君だ」


「持っていくなって言ったんです」


 そのやり取りは、少しだけ日常に似ていた。似ているだけで、同じではない。もう、世界が用意した恋人同士の台詞としては戻れない。二人はそのことを知っていた。だからこそ、ナギサはしばらくしてから、静かに言った。


「あたしたち、恋人なんですか」


 リョウは答えに詰まった。


 以前なら、世界は勝手に答えを用意していた。写真も、メッセージも、周囲の認識も、全部が二人を恋人だと言っていた。リョウだけがそれを受け入れられず、ナギサだけがその暖かさと痛みを抱えていた。今、その配置は壊れかけている。完全に消えたわけではない。写真も残っている。記憶も残っている。けれど、それをそのまま関係の答えにすることは、もうできなかった。


「分からない」


 リョウは正直に言った。


 ナギサは小さく頷いた。


「あたしも、分からないです」


「ごめん」


「謝るところじゃないです。……たぶん」


 彼女は少しだけ笑おうとして、失敗した。


「世界に決められた恋人のままは嫌です。でも、全部なかったことにするのも嫌です。あの写真の中で笑っていたあたしは、あたしだから」


「うん」


「だから、もう一度、最初からにしてください」


 リョウは彼女を見た。


「最初から?」


「はい。リョウがアスカさんを忘れないことも、あたしがリョウに怒ってることも、世界が変だったことも、全部持ったまま、最初から。あたしがまたリョウを好きになるかどうかも、リョウがあたしをどう見るかも、今度は世界じゃなくて、あたしたちで決めるんです」


 リョウは答えられなかった。答えを急ぐことが、また誰かの輪郭を奪う気がした。だから、彼はただ頷いた。


「うん。最初から」


 ナギサは、今度は少しだけ笑えた。


 壊れた鏡の向こうで、ローズが立っていた。白い半仮面には細いひびが入り、黒衣の裾にはミラーの白い光がまだ薄く残っている。薔薇の鞭は消えていた。彼女は、守った世界の数を数えるように、周囲の鏡片を見ていた。やがて、仮面が赤黒い花びらになってほどけ、そこには鳴海マナが立っていた。黒い傘を持つ、六道学園の先輩。顔色はひどく悪かったが、姿勢は崩さない。


「終わった、とは言わないわ」


 マナは言った。


「でしょうね」


 ナギサが答えた。


「でも、止まった。少なくとも、今は」


 リョウはマナを見た。


「マナ先輩」


「何」


「僕は、戻れたんですか」


 マナはリョウを見つめた。爪の下の黒。頬に残った亀裂のような影。胸のカード。ナギサに握られた手。それらを一つずつ確認するように見てから、彼女は短く答えた。


「完全には戻っていない」


 残酷なほど正直だった。けれど、今のリョウには、その正直さが必要だった。


「でも、完全に行ってしまったわけでもない」


 マナは続けた。


「あなたはメアになりかけた。世界を混ぜ直す力を得た。アスカさんを作り直そうとした。その事実は消えない。これからも、その霧はあなたの中に残る」


「はい」


「だから、私は見張る」


 リョウは小さく頷いた。


「止めるために?」


「守るために」


 マナは少しだけ目を伏せる。


「世界を。ナギサを。弾かれた者たちを。アスカさんの意思を。そして、あなたを」


 リョウは、その言葉を受け取った。以前なら、世界を守るという言葉に反発していた。アスカのいない世界を守って何になるのか、と叫んだ。今でも、その痛みは完全には消えていない。世界はアスカを忘れた。その事実は許せない。けれど、その世界にも生きている人がいる。ナギサがいる。マナがいる。アヤトが記録する名前がある。未登録三七の鈴が鳴る部屋がある。そして、アスカ自身が、誰かを壊してまで自分を作り直すことを望まなかった。


「僕を救いきれなかった、ってまた思いますか」


 リョウが聞くと、マナは少しだけ苦い顔をした。


「思うでしょうね」


「すみません」


「謝らなくていい。これは私の癖だから」


「癖」


「守れなかったものを、全部自分の失敗にする癖」


 マナは、赤い栞の挟まった黒いノートを胸に抱いた。


「でも、今回は少しだけ違う。あなたは止まった。私が止めたのではなく、あなたが選んだ。ナギサが呼び、アヤトが記録し、アスカさんが拒み、あなたが聞いた。私は境界を切っただけ」


「それは、大きいと思います」


 ナギサが言った。


 マナは彼女を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。


「そう言ってくれるなら、少し楽ね」


 その声は、ファントム・ローズではなく、鳴海マナのものだった。


 レジストリの通路は、白い紙片で満ちていた。ミラーの統合が止まったあと、アヤトは戻ってきた名前と、戻りきらなかった名前と、まだ不完全な記録を一つずつ拾っていた。御厨玲士は奥で指示を出している。レジストリ側の損傷も軽くはない。疑似世界の一部は剥がれ、未登録者区域の扉には新しい亀裂が走っていた。それでも、書架は倒れなかった。白いカードは燃え尽きなかった。


 未登録三七は、自分の部屋の椅子に座っていた。手首の鈴は、以前より澄んだ音を立てる。彼女の名札はまだ空白だった。名前は戻っていない。過去も、家族も、学校も分からない。だが、影の中に引っかかっていたアスカの欠片は、無理に引き剥がされることなく、細い光として彼女の足元に残っていた。それは彼女の名前ではない。けれど、彼女の空洞を勝手に埋めるものでもなくなった。ただ、失われた名前同士が一度触れた痕として、そこにある。


「春日リョウ」


 少女はリョウを見ると、そう呼んだ。


 リョウは少し驚いた。


「覚えてたのか」


「うん。アヤトが何度も言ってたから」


「僕も、君を覚えてる。未登録三七」


 彼女は少しだけ首を傾げた。


「やっぱり、名前じゃないね」


「うん」


「でも、今はそれでいい。アヤトが、名前を探すって言ったから」


 アヤトは棚の前で、聞こえていないふりをしていた。だが、ペンの動きが一瞬止まった。リョウはその背中へ声をかけた。


「アヤト」


「何」


「ありがとう」


「感謝されるようなことはしていない。僕は記録しただけ」


「それが必要だった」


「そう思うなら、次から勝手にレジストリを離脱しないで」


「それは」


「即答しないで迷うところが、君の危険なところだよ」


 アヤトは振り返った。疲れた顔をしていた。目の下には濃い影があり、手に持つ白いカードの端は黒く焦げている。それでも、彼の声はいつものように少し皮肉を含んでいた。


「S.A.の記録を更新した」


 彼は一冊のファイルを差し出した。黒い汚れの残る薄いファイル。以前は、ほとんどノイズと破片だけだった。今も、完全な記録にはほど遠い。けれど、表紙のラベルには、薄い文字でこう記されていた。


 椎名アスカ。


 リョウは息を止めた。


「世界の公的記録に戻ったわけじゃない」


 アヤトがすぐに言った。


「座席表にも、戸籍にも、スマホの連絡先にも、彼女が完全に戻ったわけではない。これはレジストリの暫定記録だ。本人帰還ではない。完全な証明でもない。けれど、S.A.という分類不能の汚染記録ではなく、椎名アスカという名前で記録できるだけの輪郭が戻った」


「読んでいいか」


「一部だけ。全部読むと、また君は抱え込みすぎる」


 アヤトはファイルを開いた。そこには、いくつかの記録が並んでいた。


 椎名アスカ。六道学園高等部在籍痕跡、不完全。ミラー中核接続履歴あり。本人意思に近い断片、確認。再構成拒否。記録保持希望、限定的。主語不確定の音声断片、「覚えていてくれて、ありがとう」「作り直さないで」。欠片分散先、複数世界。持ち出し禁止。所有不可。


 所有不可。


 その言葉を見た瞬間、リョウの胸に痛みが走った。だが、その痛みは必要だった。アスカは所有物ではない。リョウの記憶の中だけにいるものではない。レジストリの資料だけでもない。ミラーのコピーでもない。世界に散った欠片でもない。完全に戻ったとは言えない。けれど、なかったことにはならない。


「この記録は、誰が見るんだ」


「必要な人だけ」


「僕は?」


「君は、必要なときだけ」


「厳しいな」


「君には必要だよ。見すぎると、また作りたくなる」


 リョウは否定できなかった。


「そうかもしれない」


 アヤトは少しだけ目を細めた。


「そう言えるなら、今日は大丈夫そうだ」


「今日は?」


「明日は分からない。だから記録する」


 彼はファイルを閉じた。


「僕は弾かれた者たちの名前を記録し続ける。完全に救えるわけじゃない。名前が戻らない子もいる。仮番号のまま何年も残る子もいる。それでも、消えるよりはましだと思っている」


「生き残るだけでは意味がないって、僕は言った」


「覚えている」


「今でも、少し思ってる」


「それも記録しておく」


「でも」


 リョウは未登録三七の鈴を見た。


「生き残っていないと、名前を探すこともできない」


 アヤトは、初めてはっきりと笑った。疲れた、短い笑みだった。


「少しだけ、レジストリ向きの考え方になったね」


「褒めてるのか」


「警戒してる」


「だと思った」


 レジストリを出ると、六道学園の朝だった。世界の外側でどれだけ時間が流れたのか、正確には分からない。校舎は何事もなかったように立っている。昇降口には生徒たちが入り、靴箱の前では笑い声がする。掲示板には部活動の予定と、失踪事件に関する簡素な注意喚起が貼られていた。すべてが元通りに見えた。けれど、よく見ると少し違う。廊下の窓硝子には、もうミラーの白い影は映らない。代わりに、朝の光が少しだけ割れたように見える場所がある。教室の机の数は安定しているが、窓際の一席だけ、誰のものでもない小さな影が残る瞬間がある。図書室の貸出カードには、消えかけた筆跡で「S」と読める文字が一つだけ残っていた。雨の日の傘立てには、誰のものとも分からない白い傘が一本置かれている。


 世界はアスカを完全には思い出していない。


 だが、完全に消し去ることもできなくなっていた。


 リョウは教室へ入った。佐伯が顔を上げる。


「春日、顔色悪いな。徹夜?」


「まあ、そんな感じ」


「椎凪ちゃんに怒られた?」


「これから怒られる」


「何したんだよ」


 佐伯は笑ったあと、ふと首を傾げた。


「そういやさ」


 リョウの心臓が跳ねる。


「何か、もう一人いなかったっけ。この教室」


 教室の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。佐伯は自分の言葉に戸惑った顔をしている。


「いや、何でもない。変なこと言った」


「変じゃない」


 リョウは言った。


 佐伯が不思議そうに見る。


「椎名アスカ」


 名前を呼ぶと、教室の窓辺がかすかに光った。誰も振り向かない。誰も「ああ、椎名か」とは言わない。佐伯も、その名前に明確な記憶を持っているわけではなさそうだった。ただ、眉を寄せて、何か大切な単語を聞いたような顔をした。


「椎名……?」


「うん」


「知り合い?」


 リョウは少しだけ迷った。


 恋人だった、と言えば、世界は矛盾で軋むかもしれない。いなかったことにされた人だ、と言っても伝わらない。大切な人だった、と言えば、リョウの中に閉じ込めるようで怖かった。けれど、何も言わないのは違った。


「この世界に、いた人だ」


 リョウは言った。


「今は、覚えている人が少ない。でも、いた」


 佐伯は困ったように頭を掻いた。


「そっか。俺、覚えてないかも」


「うん」


「でも、春日がそう言うなら、忘れちゃいけない人なんだろうな」


 それは記憶ではなかった。証明でもなかった。けれど、リョウは少しだけ息を吐いた。


「ありがとう」


「いや、礼言われることか分からんけど」


 そのとき、教室の入口からナギサが顔を出した。


「リョウ」


 呼び方は、以前のように自然だった。だが、もう世界が勝手に決めた恋人の声ではなかった。彼女自身が選んで呼んだ声だった。リョウは振り向く。


「ナギサ」


「説教、昼休みからです」


「今日の授業は」


「放課後もです」


「長いな」


「長いです。あと、途中でお昼買ってください」


「それは説教なのか」


「罰です」


 佐伯が横で笑った。


「やっぱり怒られてんじゃん」


 ナギサは佐伯へ明るく会釈し、それからリョウの机の前へ来た。二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。以前なら、その沈黙も恋人らしい空気として世界が処理しただろう。今は違う。ぎこちなく、痛く、けれど自分たちのものだった。


「リョウ」


「何」


「椎名アスカさんのこと、忘れないでください」


 リョウは頷いた。


「忘れない」


「でも、アスカさんのために、あたしを見なくなるのは嫌です」


「うん」


「アスカさんを、リョウの中に閉じ込めるのも嫌です」


「うん」


「あと、あたしのことを命綱って思うのも禁止」


「分かった」


「分かってる顔じゃないです」


「これから分かる」


「それも説教に追加します」


 ナギサはそう言って、少しだけ笑った。リョウも、ほんの少しだけ笑った。笑えることに、罪悪感があった。アスカが戻ったわけではないのに。世界が完全に彼女を思い出したわけでもないのに。それでも、朝の教室で笑ってしまう自分がいる。そのことを、リョウは以前なら裏切りだと思ったかもしれない。今は、まだ分からない。ただ、アスカは自分を作り直さないでと言った。覚えていてほしいと願いながら、リョウの世界を全部止めてほしいとは言わなかった。なら、笑うことまで禁じるのは、アスカの意思ではなく、リョウの罰だったのかもしれない。


 放課後、リョウは一人で図書室へ行った。ナギサは説教の準備をすると言って、なぜかノートを買いに行った。マナは校舎の屋上へ向かい、アヤトはレジストリへ戻った。世界は、それぞれの場所へ戻っている。図書室の窓際には、夕方の光が差していた。リョウは貸出カードの束を見た。そこに、薄い筆跡がある。椎名、と読めるかもしれない線。読めないかもしれない線。彼はそれをなぞらなかった。持ち出さなかった。ただ、そこにあることを見た。


 窓の外で、白い花びらのような光が一つ舞った。


 アスカ、と呼びそうになって、リョウは少しだけ息を止める。呼んでもいい。けれど、呼ぶことは引き戻すことではない。自分の方へ閉じ込めることでもない。彼は、窓へ向かって静かに言った。


「椎名アスカ」


 光は消えなかった。こちらへ来ることもなかった。ただ、夕方の中で一度だけ揺れた。


「覚えてる」


 リョウは続けた。


「でも、作り直さない。君を、僕の記憶だけにしない」


 返事はなかった。


 それでよかった。


 沈黙の中に、彼女の意思があった。答えをくれないことも、完全には戻らないことも、リョウの望む形にならないことも、椎名アスカという一人の人間の輪郭だった。


 図書室の扉が開く。ナギサが顔を出した。


「リョウ、います?」


「いる」


「説教ノート、買ってきました」


「本当に買ったのか」


「はい。三冊」


「三冊?」


「足りなかったら追加します」


 リョウは少しだけ笑った。ナギサはその笑みを見て、何か言いかけて、やめた。それから窓際へ歩いてくる。


「アスカさん、いました?」


 リョウは窓の外を見た。


「分からない」


「そっか」


「でも、名前は呼んだ」


「うん」


「それで、よかったと思う」


 ナギサは隣に立った。二人の距離は、恋人として自然に寄り添う距離ではなかった。少し空いている。けれど、離れすぎてもいない。これから決める距離だった。


「じゃあ、帰りましょう」


 ナギサが言った。


「説教は」


「帰り道からです」


「逃げ場がないな」


「逃がしません」


 リョウは頷いた。図書室を出る前に、もう一度だけ窓を見た。夕方の光の中に、白い花びらのようなものはもう見えなかった。けれど、窓硝子には薄く、誰かが指で書いたような跡が残っていた。文字には見えない。名前にも見えない。ただ、そこに誰かがいた痕跡だった。


 世界は、完全には元に戻らない。ミラーは砕けたが、孤独が消えたわけではない。ローズの戦いは終わらない。レジストリの棚には、今日も名前のないファイルが増えるだろう。ナギサの写真の亀裂も消えない。リョウの爪の下の黒も、頬に残った薄い影も、たぶん一生消えない。アスカが帰ってきたのかと問われれば、リョウは答えられない。戻った、とは言えない。戻らなかった、とも言い切れない。彼女の欠片は世界へ散り、記録へ残り、誰かの放課後や雨の日や小さな鈴の音の中で、別々に光っている。リョウの中にも、記憶として残っている。ただし、もう閉じ込めるためではない。


 校舎を出ると、空は夕暮れだった。ナギサが少し前を歩き、振り向く。


「リョウ、早く」


「うん」


 リョウは歩き出した。胸の奥で、黒い霧が静かに眠っている。悪夢は消えない。けれど、今は世界を壊そうとしていない。名前を呼ぶ声がある限り、彼はまだ歩けるのだと思った。


 校門の前で、風が吹いた。


 どこか遠くで、誰かが「覚えていて」と言った気がした。リョウは立ち止まらず、ただ小さく答えた。


「覚えてる」


 ナギサが振り向き、何か聞こえたのかと首を傾げた。リョウは首を横に振る。彼女は少しだけ不満そうにしたが、追及しなかった。その代わり、歩幅を少し緩めた。リョウが隣へ並べるように。


 世界は、もう椎名アスカを知らなかった。けれど、彼女の名前を呼ぶ声は、確かにこの世界に残っていた。

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