8
堀越とあやのさんに礼を言ってから、ビルの玄関口へと階段を下りた。
すでに雪は降り出していた。が、たいしたことはない。傘がなくても大丈夫だろう。扉を押しひらく。
「うひいっ、さぶい!」
肌を差すような冷気がなだれ込んでくる。一瞬ひるんだものの、「えい、やっ」と外へ出た。
夏生まれのせいか寒いのは苦手だ。けど、ぴんと張りつめた冬の空気は大好きだ。清浄で厳かな感じがする。街の明かりさえも、星の輝きのようだ。
冬は、恋人たちの季節だからなあ。ロマンチックなはずだよ。
彼女もちじゃないおれには、わびしいシーズンだな。
ちらほらと舞う雪を見つめ、しみじみと思う。
「はっくしょうん!」
思いっきり、くしゃみをする。ずずっと鼻をすすった。
ふう。雪見はここまでだ。風邪をひく前に、はやく帰ろう。
駅まで走って行こうと思い、足を一歩踏み出した。そのとき、予想外のことが起こった。
「佐古くん!」
背中越しに声をかけられたのだ。
「あっ」
――あの声は!
突如、脳裏によみがえる堀越の言葉。
『春夏冬さんに頼まれたからなんだよ。ぜひ、おまえにアシスタントを頼みたいって言われたんだ。これって、いったいどういうことなんだろうな!』
うわ、めっちゃ緊張してきた。
うしろを振り返る。
案の定、桃ちゃんが息を切らした様子で、ビルの出入り口に立っていた。
「え、えっと、ももちゃ……じゃない! 春夏冬さん、どうしたんですか?」
うかつにも「桃ちゃん」と呼んでしまうところだった。
うまく、ごまかせただろうか。
「佐古くん!」
ひいっ!
やっぱ、ごまかせなかったか……!
桃ちゃんの大きな目がキッとなるのを見逃せなかったおれ。
「いえっ。あのっ。そのう、ですねっ。ですから……」
なんとかして危機を脱しようと、手足をばたばた大きく動かしているうちに、桃ちゃんがおれの方へやって来た。
ひえっ。
また怒られるううっ?
「う、うわあっ。ごめんなさあい!」
ぎゅっと目をつぶる。
一秒、二秒、三秒。
ん、どうしたんだ?
三秒以上たつのに、何ごとも起こらない。
「はい、これ」
……はい?
「よかったら、これ使って」
そっと薄く目をあけたら、おれの前に折り畳みの傘が差し出されていた。
ハッとして、桃ちゃんの顔を見つめる。
「聞いてなかったの? 貸してあげると言ったのよ」
桃ちゃんは、ぐいっとおれの胸に傘を押しつけた。
「濡れて風邪でもひいたら、あとが大変だから」
なんか、こう……。
狐に化かされた気分だ。
「春夏冬さん、これを? おれに傘を渡すためだけに、わざわざ下まで来てくれたんですか? あんなに忙しそうだったのに」
押しつけられるままに傘を受けとる。
桃ちゃんは、うなずいた。
「佐古くん、傘を持っていないんじゃないかと思って。それに心構えを伝授したかったの」
「心構え?」
「そう、働くことに対する心構えだよ。第一は、なんだと思う?」
ちょっと考えてみたが、わからなかった。首を振る。
桃ちゃんはため息をついた。
「それはね、自分を大切にすることなの。自分を大切にできない人に、安心して仕事を任せられないもの」
「どうしてですか?」
「体調管理がきちっとできてないと、みんなに迷惑がかかるでしょう? 特にうちみたいに小さな会社は。業務だって滞るし。仕事はね、ひとりではできないのよ。そのくらい、高校生でもわかると期待してた。当てて欲しかったな」
そう言って、ぷいっと横を向いた桃ちゃんは、おれよりずっと背が低くて。思ったより小さかった。
今まで、おっかなびっくり彼女を見ていたから、気づかなかっただけなのかもしれない。
ふてくされる姿が、年上らしくない。ていうより、子供がふてくされているみたいだなあ。
「はい。面目ありません」
とりあえず、頭を下げる。
「だから、傘を使って」
「じゃ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
でも、ちょっと待てよ。
礼を言ったあと、ためらいがちに質問をした。
「おれがこれを使ったら、春夏冬さんは……。傘、持ってるんですか?」
「あたりまえでしょう。わたしの分はもうひとつあるから、君に貸してあげるんだよ。それより気をつけて帰りなさいよ。あと、でこピンしたこと、本当にごめんね。わたし夢中になると、時々、見境がつかなくなるときがあるの」
彼女は息をつかずにまくしたてると、
「じゃあ、さよなら!」
ビルの中へ駆け込むようにして戻っていった。
び、びっくりした……。
「春夏冬さん……」
ひょっとして、彼女、照れているんだろうか?
今の彼女は超ど級にかわいかった。暗がりだから、はっきりと断言できないけど。おれの目には、はにかんでいるように見えたのだ。
きゅん、と胸がうずく。
ちっくしょう。こんなことされたら、めちゃくちゃうれしいじゃん!
もしかして今のおれって、クライマックスなう、じゃね?
どんなに運が悪くても、生きててよかったぜ!
喜び勇んで折り畳み傘の紐をとき、パッとひらく。
すると――。
「あれ……?」
傘を広げてみたら、マンガちっくなパンダ顔の入った傘だったのだ。しかも耳つきの。
「は、はは、は……」
……まいったね。見事に一本とられたよ。
だけど、おれは、道を行く人々のクスクス笑いをものともせず、駅までの道のりを急いだのだった。