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パイプ椅子に座らされてから、およそ三時間。動いていいのは、指示されて体の向きを変えるときのみ。ちょっとでも身動きしたり、くしゃみをしたときには、彼女に強く注意されるのだった。おかげで、首や肩の筋がすっかり凝り固まってしまった。
彼女の方はというと、おれをモデルにスケッチしている。なんのためのものなのかは、聞かされていなかったが。大きな黒い瞳でじっと見つめられると、妙にそわそわして落ち着かなくなる。三日目にして、少しは慣れたものの、さっきの笑顔みたいな不意打ちを食らったら、よけいに体力を消耗しすぎてしまう。
なので。
おれはひたすら、時が過ぎるのを待った――。
「よし、終わり!」
描き終えると、彼女はパタンとスケッチブックを閉じた。「おつかれさま」と一言だけ言って、デスクを手早く片づけ立ち上がる。
「へ、いきなり?」
なんの前触れもなく、仕事の終了を告げられてしまったおれ。ヒールの音をカツカツ鳴らし、風を切って出ていく彼女を見送るしかなかった。
彼女が去って、だだっ広い部屋にぽつんと一人、取り残される。
「ああ、帰っていいんだ」
おれの声だけが、むなしくこだました。
べ、別にいいんだけどね。彼女につれなくされるのは、今回で三回目だし。一回目も二回目もそうだったんだから、たぶん今日もそうだろうなあと予想していたけれど。
あちらさんは社員で、おれはただのバイトだ。そもそも仕事量がちがっているのだから、おれをねぎらう暇もないぐらい忙しいのだろう。
ま、いいや。用は済んだのだから、ぐだぐだやってないで、さっさと帰ろう。
「ううー、首が痛い……」
ごきゅごきゅ、凝りを揉みほぐしながら会議室を出る。
「よう! 終わったか? ごくろーさん」
扉を開けたところで、ちょうど通りかかった堀越とばったり出くわした。
「ああ、やっと終わったよ。とりあえず。今、何時?」
「うん? あー、ちょい待ち」
堀越はポケットからスマホを取り出した。ポチッとサイドのボタンを押して画面を見る。
「ちょうど七時半だ。外は真っ暗だな」
堀越の声につられて廊下の窓を見た。
「もう、そんな時間か」
窓から見える空は真っ黒で、星が見えない。怪しい空模様だ。なんだか雪が降りそうだな。急に寒気を感じ、ぶるっと身震いをする。
「うー、寒い」
「あ、そうだ!」
堀越はおれの顔を見て、ポンと肩をたたいた。
「さっき差し入れをもらったんだ。おまえも給湯室に来いよ。あったかい茶があるから、帰る前に飲んでいけよ」
「おれも? 呼ばれていいの?」
「あたりまえだろ。バイトでも社員でも、うちの働き手なんだからさ。変に遠慮するなよ」
その優しい心遣いに、じーんと胸が震えた。
むちゃくちゃ、ありがたい申し出だ。さすが御曹司さま。太っ腹だよなあ。
おれの身に、こんなにラッキーな出来事が起こったのは、いつ以来なんだろう。
「堀越、おまえ、本当にいいヤツだったんだなあ」
心の底から感心して、そう言ったら、
「なんだよ。今ごろ、気づいたのかよ」
堀越は照れたように鼻をこすった。