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さらさらと鉛筆を走らせる音がする。おれは黙って、耳を傾けていた。
知らなかったな。鉛筆の音が、こんなにも心地いいなんて。まるで子守唄のようだ。
そう、子守唄のような……――。
ぐうー。
「動かない! じっとしてて、って言ったのにっ」
「でっ!」
ピシャリとおでこを弾かれた。脳みそにまで音が響き、目から火花が散ったみたいだ。ひりひりして痛い。
「なっ! なっ……!」
言葉にならない声をあげ、おれに暴力を働いた犯人をにらんだ。
「こっちはバイト代を払ってるんだよ。なんで寝てるの!」
と暴言を吐く女がひとり。何様のつもりだか、腰に手をあてて、おれを見下ろしている。
「バイトに入って、もう三日目じゃない。いいかげんに学習したらどうなの。お遊びじゃないんだよ」
思いやりのかけらもない、その一言が頭にカチンときた。
「あのですね! だからって殴ることはないでしょう、人の頭を。なんだと思ってんですか?」
そりゃあ、仕事中に居眠りしてた自分が悪い。悪いとわかってるけど、売り言葉に買い言葉だ。頭ごなしに怒鳴りつけられたら、素直に謝れなくなるじゃん!
女は鉛筆を持った手を、ひょいひょいと無造作に左右へ振った。
「あー、はいはい。でこピンしたことは謝ります。ごめんねー」
それから、「でもね」と話をつなぐ。立ち上がった拍子に飛んでいった、キャスター付きの椅子の背をつかんで引き寄せた。
「人の頭は、人の頭にしか見えないじゃない? いくら目の悪いわたしでも、虎や蛇の頭とまちがえたりしないわよ」
彼女はフンと鼻を鳴らし、どさっと腰を下ろした。
「はあ?」
予想していなかった言葉が返ってきたので、おれはあ然とした。
――とっ、虎や蛇の頭?
まさか、女子の口から「虎や蛇の頭」などという、穏やかでないワードを聞かされようとはっ。
なんと恐ろしい。野生の動物たちや大自然を相手に、武者修行をした経験でもあるかのような……!
「佐古くん」
ぎろり、と大きな黒い瞳がこっちを向いた。眼鏡のレンズが光る。
うげっ。
蛇ににらまれたカエルのごとく、ぎくりと体が硬直した。
「佐古くん、はやく横を向いてくださいね」
「はっ、はいっ!」
言われたとおり、パッと横を向いたおれ。
けれど気が変わったのか、彼女は「あ、やっぱりいいや」と言った。「今度は真正面でよろしくね」
「ええっ、真正面? あっ、はい」
あたふたと体の向きを変え、彼女と向かいあう。
にっこり彼女が笑った。
「ふむ、よろしい」
両袖を引っ張り上げ、眼鏡の位置を直すと、彼女は作業の続きに入った。デスクの上のスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を走らせる音が響く。
え、えっとー。
さすがに今度は、うたた寝できなかった。
さっきの彼女の笑顔が思いがけず柔らかだったので、不覚にも、どぎまぎしてしまったのだ。
ひえー、なんだよ今の。
まじ、ヤバすぎる……。
こんな状態で真正面から見つめられるのは、かなり厳しい……。
自分のタイミングの悪さを、ひそかに呪った。