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「何もできない、やろうとしても時間がやたらかかる。
遅かろうが、失敗しようが、あらあらまあまあ、うふふ、ってなもんだ。
それがイライラしてな、うちに帰らなくなった。
ばあさんはできないなりに、必死だったんだろうな、
佐和子に、自分が知る限りの世間の常識ってやつを叩き込もうとした。
もちろん、ほとんどが間違いだ。
俺が気づいた時には、もうどうにもならんような状態だった。
女は跡取りの男を産んでこそ人間の価値があるとかいいだして、くらくらしたよ。
江戸時代かよ。
あれがあんな風になったのは、だから、俺のせいなんだ」
カキのスモークをフォークで刺して、そのまま口に放り込み、
ワインを流し込む。
首の後ろを揉みながら、ばあさんが、癌になって、と言葉を続けた。
「もう長くないって知ってから、初めて、大事なやつだって気付いたんだ。
あいつはいつでも、放っておいてばかりのひどい亭主だった俺を、
一番に考えてくれていた。
俺が見た世界の、ほんの一部でも、
この世の中はきれいなものやすげえものがいっぱいあるんだって、
見せてやりたかったんだが、あっという間に弱って。
しんどいくせに、弱音の一つも吐かずに笑っていやがるんだよ。
伊月よ、金はな、ないよりはそりゃ、あった方がいい。
ばあさんの治療するんだって、どこか連れて行くにしたって、
金があってよかったと思うよ。
けどな、働いて、身の丈に合った生活して、
ハラさえ減らない程度に食えていれば、金なんてその程度ありゃいいんだ。
やりたい事なんてものも、死ぬまでの時間はたっぷりある。
間に合わなくて死んじまえばその後のことなんて、
てめえではどうせわからないだろ、死んでるんだから。
それだけの男だったってだけの話だ。
惚れた相手が死んじまうってのは、これはきつい。
どんなに会いたくても、
うまいもん食って、あいつにも食わしてやりてえなって思っても、どうにもならん。
すげえ事して、一緒に喜んでくれるやつがいないなんて、寂しいぞ。
好きなやつを助けたいと思ったら、力をつけろ。
その力を自分のためだけに使っているようじゃ、やっぱり虚しいもんなんだ。
だからな、惚れたやつができたら、なんでもやってやれ。
好きなやつは、友達だろうとなんだろうと、飽きるくらい一緒にいたらいい。
人ってもんは、人には飽きないんだ。お互い、常に変わっていくからな」
珍しく熱弁をふるうじいちゃんをじっとみていた。
きっと一年前の自分だったら、
必死になってだっせーな、とか思っていたかもしれない。
けれど、今はじいちゃんの人生が、想いが胸に詰まる。
手を止めた僕の視線の先で、ワインの瓶を自分で持って、グラスに注ぐ。
大きくひと口あおって、ため息をついた。
「コウサキもな、跡取りなんて、考えてねえんだ」
「え」
じいちゃんが言っているのは、グループ企業の事だろう。
どういう意味だ?




