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じいちゃんは、会場で生演奏をしていた弦楽四重奏のアンサンブルに、
「弟から兄に、一曲プレゼントをさせてくれ」と話をつけた。
さすがにプロの人から楽器を借りるわけにはいかないと止めようとする僕に、
じいちゃんは「なんだ、伊月、びびってんのか。」とにやにや笑う。
まあ、とてもいい人たちなのだろう、1st・バイオリンの人が、
そういう事なら遠慮せずにどうぞ、と楽器を貸してくれた。
ここでは、じいちゃんは王だ。
司会者からマイクを奪って、
さっきバイオリンの人に言ったのと同じセリフを会場全体に言うと、
わあ、と歓声と拍手が起きた。
もう後には引けない。司会者がすっ飛んできて、何か一言、という。
くそ、じいちゃんにびびっていると思われるのも、
その場にいる全員に陽一と同レベルだと思われるのも不本意だ。
ハラを決めてマイクへ向かう。
「みなさま、今日はお忙しい中、兄のためにご来場いただき、ありがとうございます。
兄さん、誕生日おめでとう」
げー、兄さんだって。
そんな心の内を一切出さず、自分の中で思う、貴族的な感じでにっこりしてみた。
曲は、と聞かれて、バッハのカンタータ、主よ人の望みの喜びよ、と告げた。
少し前に仕上げた曲で、タイトルもなんとなくお祝いっぽい。
立ったまま呼吸を整えて楽器を構え、弓を滑らせる。
数小節独奏すると、他の楽器の人たちが合わせて伴奏をしてくれた。
うわ、やっべ、気持ちいい。共鳴の美しさ、振動の心地よさ。
シャンデリアの光が降り注ぐような恍惚。
会場の重力のベクトルが変わる。滑稽な恒星から、青白い衛星へ。
それは、たった一曲、4分程度の間に起こった変化だった。
この事が後に大きく人生を変えるきっかけになる事に気付きもせず、
満場の歓声と拍手に酔っていた。
中学3年の冬休みが終わってすぐの頃。
受験一色のシーズンになったが、僕は幼稚園からずっと通っている、
リュシオルの高等部へ内部進学一択で話を進めていたので気楽なものだった。
面接も入学前のテストも、まあ、あれで弾かれる事はないだろう程度には、
充分安心できる出来だった。
クラスのやつらと話していて、
もらえるはずのプリントが僕の手元にない事に気づいて、
職員室の進路指導の先生を訪れた。
「プリント? ああ、高等部進学者向けの、だろう?
神崎は外部受験で進学が決まっているから、対象外だ」
「え、いや、僕はリュシオル学院の高等部進学、ですよ?」
なんの勘違いだよ、と、内心むっとしてそう進言すると、
少し困ったような表情で、一枚の書類をみせてくれた。
僕の名前の横、進学予定先の欄に、蓬泉学園高等部、と書かれている。
「ちょっと待ってください、なんですかこれ。
こんな学校、聞いた事もないですよ?」
「何を言っているんだ、面接も試験も合格しているし、書類もそろっている。
なにもおかしいところはないぞ。」
いや、おかしいよ。
抗議したかったけれど、先生の態度に、読み取れるものがあった。
こいつもグルか。
なんだ? 何が起こっている?
職員室を飛び出し、怒りと動揺で冷たくなった指先でケータイを操作する。
数コール後、じいちゃんのとぼけた声が聞こえて、
今起こったことを説明し、何か知っていることはないかと尋ねる。
じいちゃんは何も聞いていなかったようで、
こっちでも確認してみる、といって電話を切った。
僕の属しているコミュニティ、友人や知人、交流のある人たちの間では、
リュシオル学院卒業というのは、一種、揺ぎ無いステータスだ。
リュシオルに在学しているという事は、生徒本人だけでなく、
家庭の経済状態や親の社会的地位までも保証する。
ここの卒業生というだけで、学閥で優遇される。
気の合う友人とも楽しくやっていた。
なんでこんな形で奪われた?思いつくのは、ただ一人。