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メートルが食べ終えた食器を下げて、コーヒーを運んできてくれた。
当初のイメージは最悪だったけれど、給仕のレベルは思っていたほどひどくはない。
的確なタイミングでサービスが行われる。
コーヒーをテーブルに置く速度も、立つ角度も、その指先の動きもなかなかのものだ。
軽く満足していると、ふと室内が暗くなった。
わずかな暖かい色彩の灯りの方に視線を向けると、
二十代後半か三十代前半くらいの女性が、蝋燭を立てたケーキを運んでくる。
うわ、これはうれしいサプライズ。この店に、こんな女性が働いていたなんて。
ちょっと勝気そうで、好み。メアド教えてくれないかな。
にっこり微笑みながら、僕の方に歩いてくる。
「当店のパティシエです。ようこそいらっしゃいました。
ディレクトール、急だといっても、私がいるのに、
外でケーキを買ってきてくれはないですよ。
材料も時間も限られていたので、焼き菓子になったのはご愛嬌」
そういいながら、僕の前にホールのままのケーキを置く。
ねえ、パティシエのお姉さん、名前なんていうの、明日の夜ヒマ?
っていうか、一人で食べるのにはこのケーキ大きすぎると思うんだけど、
サービス良すぎじゃない? というのを、どう切り出そうかと考えていると、
「いっちゃん」
と、細倉さんから呼びかけられた。おい、いっちゃん、て。
お姉さんの前で子ども扱いはよせ。
「お誕生日、おめでとう。
今日の記念日を一緒にお祝いできて、本当にうれしいよ」
あ、そうか、誕生日。すっかり忘れていた。
お姉さんに気を取られてケーキをよく見ていなかったけれど、
再び視線を落すと、お皿の端に濃いピンクのソースで文字が書かれている。
文字、なのか? 筆記体で読み辛い。
だいたい、最近、急に薄暗くなると視力がやばい。そろそろメガネ作った方が?
ああ、メガネもコンタクトも面倒でやだなあ。
なんだ、Happy Birthdayって書いてあったのか。
暗い場所で小さな文字を注視したせいで、視界がにじむ。
天井を見て瞬きして、視力を戻そうとしながら、
子供扱いするな、と、細倉さんに苦情を入れる。
「伊月、おめでとう、ろうそく消してよ」
蝋燭の灯りだけに照らされて身を乗り出す修の感動したような顔は、
幸せオーラ全開で、思わずにやけそうになる。
うんうん、蝋燭ね、いくらでも消しちゃうよ。
ふっと息を掛けて蝋燭の火を消すと、一瞬暗闇が訪れて、すぐに照明が点けられた。
パチパチという拍手に視線を向けると、
店内に残っていてくれたのであろう数人のスタッフが、
笑顔でこちらをみてくれている。
ふと、陽一の誕生日パーティの乾杯のシーンが蘇る。
今ならわかる。
あの場所では誰もが、グラスを掲げる自分の姿しか意識していなかった。
乾杯、ちょっとリッチなパーティに出席しているセレブな私。
ドレスも新調して一段と輝いているでしょう?
お料理はまず、何を食べようかしら。
そうか、誰も陽一の誕生日なんて祝ってなかったんだ。
きっとそれが、あの日一番の気持ち悪さだったんだろう。
今夜、自分のために拍手してくれている人たちの祝福に、
さすがの僕も心から感謝の気持ちが湧いた。
店に呼んでもらったタクシーに、修と二人で乗って僕の家へ向かった。
今度は、一番奥のドア側までつめて、窓に頭を付けるように寄りかかって座った。
片桐と名乗ったあのメートルは、帰り際、細倉さんと一緒に僕達を見送りながら、
「お前を弟みたいに思ってやる」といった。
僕はどうも兄貴運が悪いらしいが、まあ、実はそれほど嫌な気はしなかった。
来る時に修の手に触れてしまった自分の左手を、
右手で包むように窓の外の流れていく景色をみていた。
今夜、修は僕の家に泊まっていく。少なくとも朝まで一人じゃない。
すごく安心していた。