ある朝、桃色の小屋の前で
タイトル変更しました。
アパートの脇には小さな小屋があった。
101号室に隣接したその小屋は、きれいな桃色のペンキが塗られた簡易トイレほどの建物で、馬をきれいに折りたたんでやっと一頭入るほどの大きさだ。
101号室にだけ付いているこの小屋がいったい何を意味するのか私にはまったくわからない。
いったい誰が何のために、このような小屋を101号室に隣接して建てなければいけなかったのか。
私はある瞬間から、またある瞬間までこの小屋の事が頭から離れなくなってしまった。
もうずいぶん前から習慣になっている朝のジョギングから帰ってきて、この小屋の前で一息ついていると、小屋の中から何かの声が聞こえてきた。
それはふくろうの鳴き声のようでもあったし、老婆のうめき声のようでもあった。
そしてそれは2回聞こえたかと思うと、永遠に沈黙した。
決壊したダムに飲み込まれた豊かな村のように、確かに永遠に沈黙したのだ。
顔を近づけてみると、閉ざされたアルミニウムの扉の奥からは、ココナッツの香りが微かにした。
ややムラのある塗り方の桃色の壁は、クモ一匹の侵入も許さないように、厚く、執拗に塗り固められている。
そして扉の脇に「シェイクスピア」と小さな頼りない字で書かれていた。
仕事から帰ってきた彼女にそのことを話すと、
「そのシェイクスピアの小屋について考えることが、あなたにとっていったい何の意味があるの」と、伝線したパンティーストッキングを気にしながら、めんどうくさそうにそう答えた。
彼女は経済とパスタの種類に詳しく、何についてもloss and gainで考える頭の良い女性だった。
そう言われてみると私がその小屋について考えることは、彼女がパスタを茹でるときに入れる、一つまみの塩ほども意味はないことのように思えた。
そして私はそれきりその小屋について考えるのをやめてしまった。
その後何回もの引越しを繰り返し、あの小屋の付いたアパートが何処の町にあったのかさえも忘れてしまっていた。
頭の良い彼女に言わせると、私はもともと記憶が極端に偏っているようだ。
こうやって私が、桃色の小屋の事を思い出したのは、今私の住んでいる部屋に、あの桃色の小屋があたりまえのようにちょこんと付いていていたからだ。
あのときの小屋と同じ小屋なのだろうか。
101号室の窓から見える長い首都高速道路や、ジャングルの蔦のように張り巡らせた電線にはまったくと言って良いほどに覚えがない。
確かなことは、私の部屋に隣接する桃色の小屋には、「シェイクスピア」の文字が書かれているということだけだ。
外から見たときにはわからなかったが、101号室と小屋は直結しているようで、部屋の隅には小屋に続くのであろうアルミの扉がしっかりと閉まっている。
そうするとこの小屋には扉が二つあるらしい。
私はまたこの小屋について考えをめぐらせる他なさそうである。
なぜなら、電線したパンティーストッキングを穿いた、あの頭の良い女性は、もう仕事から帰ってこないのだ。
この小屋の中では、シェイクスピアという名のおとなしく美しい馬が、丁寧に折りたたまれて、私が扉を開くのを待っているのかもしれない。
それとも誕生日の夫の為に、老女がココナッツ入りのシーフードカレーの下準備に精を出しているのだろうか?